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この世の果てまで後をつけるといふと、その人を殺してしまふしかないんだからね。川端康成の『タクシードライバー』

川端康成の小説に、『みづうみ』という小説があって、これは所謂川端康成の「魔界」を描いた小説郡の代表選手の一つとして見做されている。

まぁ、基本的には川場康成の小説は全部魔界系であるが、中でもドギツイもの、ということである。

魔界小説としては、『禽獣』、『眠れる美女』、『山の音』、『千羽鶴』などが有名所であり、『雪国』や『舞姫』などにもその素養は多分にあって、
一番の魔界作品は個人的には中絶した『たんぽぽ』だと思われる。
『古都』や『伊豆の踊子』なども、時折いきなり不意打ちのように平手打ちを食らわせてくるので注意が必要だ。

で、『みづうみ』は映画化もされていて、それは『女のみづうみ』というタイトルで、要素だけ抽出して、オリジナル脚本なのだという。女性も主人公だという。私は不勉強で観ていないので恐縮ではあるが、まぁ、この小説は、基本虚無系の主人公を描く川端康成の中でも、やべー奴に入る桃井銀平が主人公である。

また、1994年には予告編として映像化もされていて、『文學ト云フ事』という番組で取り上げられている。そちらは古臭い文芸系の感じで、あまり好きではない。もっとモダンで乾いた画面にしてほしいところだし、銀平がイメージではない。

桃井銀平はいきなりトルコ風呂にやってきて、そこで湯女に足を洗ってもらいながら、彼女の美しい声に恍惚とする。
ここから、彼はYASUNARIのアバターになって、すれ違いの美女との永劫の別れの悲しみを語りながら、作中の女性たちにちょっかいを出したりストーキングしたりするわけだが、まぁ変態であり、彼こそある種のトラヴィス・ビックルなのである。

『タクシードライバー』の主人公トラヴィスは、ニューヨークの夜勤のタクシードライバーで、不眠症に悩まされながらポルノ映画を観る毎日で、黒人差別主義者であり、世の不正に対して、自分を顧みない世間の怒りを募らせていくやべー奴だが、銀平もまた、教師時代に教え子に対して手を出して学校を追われて、その後の関係を続けたり、町で見かけた町枝(ダジャレではない)という美少女に心奪われて、ストーキング行為をしたりするやべー奴わけであるが、どちらも女に対して異常な興味を抱いており、銀平は基本的には狂気の淵にいるため、白昼夢を視たり、幻聴を聞いたりする。

トラヴィスから視たニューヨーク。魔界の夜。

「この世の果てまで後をつけるといふと、その人を殺してしまふしかないんだからね。」

銀平の思想であり、銀平は、気に入りの美女、会話も交わしたことのない人を、どこまでも執拗に思い追い続ける。
妄想癖があり、その妄想は死と美と血に塗れている。

異様な小説であり、この作品こそ、日本版『タクシードライバー』を作るならば、原作にうってつけだと私は思う。

まぁ、ポール・シュレイダー脚本のようなウルトラ暴力や、社会への怨念などはないが、けれども、孤独と言うよりも、何かに取り憑かれた男であり、才覚のある監督ならば、美しく狂気塗れの作品として完成させることができるであろう素材である。

時代を超越した普遍性がこの作品にはある。すれ違いの、行きずりの人への憧憬。汎ゆる異性愛の男性は、行きずり女とのすれ違いざま、性的ファンタジーを刹那で抱くものである。
この男性の宿痾を、YASUNARIは隠すこと無く開陳しており、完全に猥褻物陳列罪で逮捕されてしかるべきであるが、まぁ、妄想、作品であるから。
ある種、その宿痾の藝術化がこれである。

康成は、『しぐれ』などでも、双子の双生児の娼婦を出して、友人と主人公、4人で乱交に励むシーンを描いて、双子のどっちを抱いているかわからない、などのシーンを描いていて、まぁまぁぶっ飛んでいるが、『禽獣』などの初期作も体外狂っているし、性的幻想の極点を常に、妖しく隠しながら書くのが得意な作家である。

私は、谷崎潤一郎と川端康成ならば、やはり川端康成の方が変態だと思うし、気持ち悪い作品が多いと思う。谷崎は虚構性があって、不気味で精巧なマネキンを拵えるが、川端はこしらえたマネキン虚構の中に、本人が入っており、薄い人形の目の奥から覗いているのである。

康成の『水晶幻想』という意識の流れを描いた作品もあるが、それに近しい、どこか揺らめくガラスの乱反射の如しとりとめのなく美しい、詩的な幻想小説であり、『みづうみ』を一番に推す人がいるのが多いのも頷ける作品である。
そして、それを支える気持ち悪さ。トラヴィスもまた、気持ち悪い男である。
然し、そのような分断された個人の中に、狂気的な幻想美が育まれるのが藝術の皮肉である。



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