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オジリナルという虚構

オリジナル、オリジナリティ。

小説家志望、或いは創り手全般の大好きな言葉である。
そして、世の中の人々は、創り手にオリジナリティを求める。
オリジナルとは独創的で、目新しい様、を言うようである。
一つ言えることは、完全なオリジナルなど存在しない。必ず、全員が、何らかの影響を受けている。その中でも、個性を大きく打ち出せる者が、オリジナルと言われているだけである。

私はこのオリジナル信仰というものは糞しょうもないことだと思っていて、似ている!パクリだ!剽窃だ!盗作だ!既視感があるゾ!、ナドナド、まぁ、大抵は同じ意味なのだが、似ていることをあげつらって、その既視感の原因、何故作り手はこの既視感に惹かれるのか、ということには思い至らない。つまり、なぜ影響されたのか、剽窃したのか、その動機である。
売れているから、という理由もあるだろうが、中には、その表現に惹かれたからオマージュしたのだ、パロディしたのだ、或いはパクったのだ、真似たのだ、そのような表現の反復に至らせた定点、既視感への既視感、繰り返されるデジャ・ヴュへの希求にこそ、我々が求めているオリジナリティの種が眠っている。
オリジナリティとは独創的な様ではない。繰り返される反復の表現が生み出すその差分にこそ眠っているのだ。

全く見たこともない新時代、新世界、というものを人間は求めてやまない。然し、新時代、新世界というのは、様々な反復の繰り返しから生まれた紛うことなき子供なのである。
先程書いた記事にも記載した『〈転生〉する川端康成 I: 引用・オマージュの諸相』は康成に関しての彼の表現や手法の影響が如何に大きいものかを書いた論考のまとめ本だが、惹句にも書かれた通り、優れた小説家は何度でもよみがえる。それは、他の作家の手によってである。

然し、転生しているのは何もYASUNARIだけではあるまい。様々な作家が転生しているのである。それは谷崎であったり、三島であったり、太宰であったりと様々だ。
藤澤清造も転生して西村賢太の手で蘇った(や、優れた作家とは思えないが)。

オリジナルを書きたい、というのは小説家の夢である。けれども、本当のオリジナルは存在しない。どんな文豪も、必ず種本を抱えているものだ。その種を如何に咲かすか、如何に剪定するか、それにかかっている。


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