バガボンドと小説
好きな漫画を3つあげろと言われたら、
『GANTZ』、『HUNTER×HUNTER』、そして『バガボンド』と答える。
『バガボンド』は井上雄彦の長編漫画で、吉川英治原作の『宮本武蔵』を
下敷きにした漫画である。2014年から既に7年休載している。
既刊は37巻、連載は38巻の途中で止まっている。
素晴らしい傑作漫画である。
私はこの漫画が大好きで、折に触れては読み返している。
主人公の武蔵が最高に好きなのである。
『バガボンド』の宮本武蔵は天下無双を目指して放浪者として旅を続けている。
行く先々で強者と闘い、名を挙げていく。
岡山から出てきた武蔵は、関ヶ原の合戦に参加後、京の吉岡道場への単身での殴り込み、奈良の宝蔵院での死闘、そこから柳生の里へと趣き、旅の最中、鎖鎌の宍戸梅軒と闘い、再び京へ戻ると吉岡一門との激闘を繰り広げる…という闘いづくしの日々である。
私は、この漫画は仕事にも、そして小説にも重ねられることが多いので、好きなのである。
『俺は強い。』『俺こそが天下無双。』と、中盤までの武蔵は立身出世、天下無双のために、自分こそが最強であると強者を求め続ける。承認欲求の塊である。
けれども、吉岡清十郎や宝蔵院胤瞬、柳生四高弟など、世間には強い連中がいくらでもいることを知り、激闘の末、彼らを制するが、その上には柳生石舟斎や宝蔵院胤栄、はたまた伊藤一刀斎などの天下無双がわんさかいることを知る。
小説も同じなのである。
『私を見て。』『私こそが新人賞に値する。』
そのような気持ちで書いているのは初期の武蔵である。
天下無双=文章の上手い連中なんかゴロゴロいる。文学賞なんか数多存在する。吉岡道場の当主吉岡清十郎は間違いなく天才で、プロ小説家の一人みたいなものだが、彼の道場の門下生たちはその名前に胡座をかくだけの覚悟のないサークルみたいな感じである。彼らは武蔵たった一人に全員が斬り殺される。
文学賞を取ったから、名前が売れたから、売上があるから、だからなんだというのだ、ということである。
ただ、初めは楽しくて仕方なかった。いい文章が書けた時、いい作品に出会えた感動、そういうものが、本当ではなかったのか。
作中、戦闘能力では最強と思われる剣豪伊藤一刀斎は、落ち武者狩りが行われている山の中に弟弟子の佐々木小次郎を残して行ってしまう。
彼は師匠である鐘巻自斎から頼まれた小次郎の器を試すために、最強へと至らせるために一番恐ろしい試練を説明もなく課したわけだが、これこそが重要なことだろう。
「わしになれ。」
というのは小説にも言えることで、小説の書き方の書物の類は意味がない。なぜならば、小説の書き方は先人が名作、教科書を山程残しているからである。
上手くなるためには書き、思考し、読み、また書くしかないのである。
そして、そこに誰と出会って、どんな話をしたのか、それが絡み合うことで、自身の文体が産まれる。
後半、吉岡での70人斬りで辛くも生き残った武蔵は、足を負傷して、暫くは自問の日々に入る。もう闘えないかもしれなくなる。
彼は、今まで殺してきた連中に対して、自分の罪に向き合う日々を送る。
(『ヴィンランド・サガ』のトルフィンのように)
無論、武蔵はそこまで出来た人間ではないので、この殺し合いの螺旋に入ってきた人間は容赦なく斬り殺すわけだが。
けれども、『シャーマンキング』の葉の言うように、「やったらやり返される」のであって、彼は愛する人との暮らしを夢見ることもできない。落とし前をつけさせられるわけだ。
放浪の末たどり着いた貧しい村(この辺り、筆致がもう白土三平である)で、水のように掴みどころのない小次郎に勝つために、水を克服するために、枯れた地に田んぼを作ろうと孤軍奮闘する。
彼は今まで、ただ人を斬ることだけで、弱いものに目を向けてこなかった。ここで初めて向き合うのである。それは田んぼであり、農村で飢えに苦しむ弱い人達である。ここで、彼は初めてその視線を獲得する。
そして、また小説に例えると、彼は今まで、本当に凄い作家たちに幾人か出会ってきて、今度は、市井の名もない一人の農民、秀作に教えを請うのである。
彼はこういう名言を残している。
豊左衛門。稲ってやつはな 弱い
人の手なしには生きられん
百姓はこのか弱いやつが 何を欲し 何を嫌うかを
聞いて見つけてやるのが仕事
明けても暮れても頭ん中は
このか弱い命を生かすこと
命をまっとうさせること
人を斬る?冗談だろう。
この、武蔵の生き方の正反対の考えを、武蔵は傾聴し、そして師として対話を続けていく。
師匠とは、いたる所にいる。
それは名もなき人かもしれないが、名など関係ないのである。
私も、かなりマイナーな故人の作家を師事し、尊敬している。美しい感覚の人で、心から敬服している。
この作家の思想、そして感覚に共鳴して、自分が美しいと思える言葉を書くことを、私は一番の目標としている。
その人に読んでもらえないことだけが、ただ哀しい。
秀作と相反する考え、美に対して、芸術家本阿弥光悦は作中でこのように述べている。
この辺りは難しい問題である。
例えば、舞踏家の笠井叡は、大災害が起きた時、それを天上の目、またはまっ更な赤ん坊の目で見たのならば、美しいと感じることもあるはずだと、語っている。無論、感情論を抜きにして、ということが大前提の話である。
この辺りは難しい話だ。私にも答えが出ない。感情論を抜きにしたのならば、それはそうかもしれないと思える。その視線の獲得、天使の目、天上の目とは、非人間の目だろうか。私は、感情を度外視して話すことは出来ない。それが私の限界である。
笠井叡は超難しい文章/思想を書く人なので、私も実は『金鱗の鰓を取り置く術』が欲しくてたまらないのだが、高いのでまだ買えていない。
(22000円なんですよ…)
これは大石凝真素美の『真訓古事記』を読み解いた日々の備忘録らしいのだが、私には歯が立たないだろう。
さて、武蔵は、後は小次郎との最後の闘いを控えている。
既に小倉に向かって、下関にある舟島(巌流島)での決闘は、もう間もなくである。
けれども、これで未完でもいいとも思える。小次郎は間違いなく最強の敵で、武蔵の最愛の友である。
結果ではない、過程である。
武蔵が剣士として、人間として強くなる旅は、充分に描かれている。
人間としてまっとうに生きることを超えることなどはない。
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