STOP DRUNK DRIVING
ウルリケ・オッティンガーというドイツの映画監督がいて、最近、再評価の兆しとかで、日本でもその作品が何本かミニシアターで公開されている。
私もそのうちの1本、『アル中女の肖像』を鑑賞。1978年の映画である。
さて、世の中には空気を読む、読めない人間をKYと言って村八分にする悪しき風習、というよりも日本人の抗えないDNAが連綿と受け継がれているが、然し、これはサブカルチャーの世界においても同様である。
つまり、あの評論家、あの有名人、あのインフルエンサーが褒めている、あの界隈が褒めている、だから、俺はつまらないと思うが、それなりにそっちの意見に寄せた評価にしよう、という、「お前、あの子好きなんだろー。」「はぁ?何言ってんだよ、あんなブス(嘘だよ〜めちゃくちゃかわいいよ〜)」という、日和、それが出てしまう由々しき事態になっている。
いちいち、人の批評を読んでから感想を書くのは卑怯者のすることであり、なるべくなら自分に正直にいたい。
例えば、私はクローネンバーグの映画は基本的にはカスだと思っているが(『ザ・フライ』は好き)、クローネンバーグ映画なら何でも褒める人もいるし、まぁ、そういうのは好き好きだし、私も的はずれな見方をしているので大概だが、然し、先程も書いたように、嘘だけはつかない、それが重要である。
さて、こんな枕を書くからには、つまり、私にとって『アル中女の肖像』という映画がそんな感じの映画なのである(どんな感じやねん)。大体、オッティンガーよりも先にオッペンハイマーやろがい!って感じではあるが、まぁ、今作はほぼ筋のようなものはなく、基本的にはベルリンに来た裕福なマダム(アル中)が色々な場所で呑みながら、そこに当時の世相、社会情勢、女性の社会的な立場や問題などをカリカチュアして描き、さらにそれがアル中の酩酊時の幻想のように見えるように、シュールな構図や展開をもってして描かれる、そのような映画で、基本的には主人公であるマダムは延々と酒を呑みながら、然し基本的には一言も喋らない。原題は片道チケットであるから、そういう東西の分断も重要なレイヤーである。
その主人公を演じたタベア・ブルーメンシャイン、彼女は圧倒的に美しく、美しいだけではなく生身の女性感があり、この人の存在感だけで持っている、まじでそんな映画である。彼女が出ていなかったら、今作は破綻していたのではないか、それくらいの存在感である。
一人の俳優が完全に持っていく、そんな映画はたくさんあるが、今作はそのうちの1本のように思える。
然し、オッティンガー監督の作品は日本初公開も多く、まぁ無論私もこの1本だけしか観ておらず、やはり3本くらいは観ないと偉そうなことは言えない。が、この映画単体で観たときに、あまりの眠たさに死んでしまうかと思ったほどだ。いや、私は事実10分は寝ていたかもしれない。
冒頭、彼女が飛行機に乗りベルリンにやってくるシーン、ここの10分くらいは濡れたガラス越しに映るタベア・ブルーメンシャインの映像は美しさの極地に達していて、これはすごい映画やで!と前のめりになったのもつかの間、そこがピークであった。
然し、タベア・ブルーメンシャインという名前も綺麗な字面だな。
眼を見張るような美しい映像は冒頭くらいで、他にはタベア・ブルーメンシャンのファッションショーと化していて、当時の社会のデータを擬人化した3人組が色々解説的な役回りで登場するけれども、その3名以外はほぼ喋らず、喋っても狙って書いたようなセリフが多く、上手く機能しているように思えない。
前衛的というにはそこまで振り切ってもいないように思えるし、まぁ、なんというか、バーグドルフ・グッドマンのショーウィンドウのような映画で、1時間40分くらいの映画が3時間くらいに感じられたのは久々だった。
いや、でもこの予告編を編集した人はすごくいい仕事をしていると思う。素晴らしい映画だと錯覚したもん。
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