見出し画像

藝術とは有害である

小谷野敦の『東十条の女』を読む。

婚活小説であり、本人が作中で語るように、オフパコ小説である。
作者の婚活事情が描かれるが、頗る面白い。

小谷野敦の作品は『童貞放浪記』もそうだったけれども、筆致が淡々とした私小説で、私小説というと、やはり車谷長吉、西村賢太、川崎長太郎、等が私は好きなのだが、基本的には有害である。
『童貞放浪記』は叙情性があったが、『東十条の女』はそれよりも生の感じが強い。それは、作者の対象の女性への思いの質量が起因しているのだろうか。

最近、よく『ルックバック』の感想を眼にするのだが、あれは漫画は読んでいるが、映画は観ていない。

で、『ルックバック』はとても良い作品だとは思うが、そこに表現者の業、という言葉を用いるレビューが散見されるが、表現者の業、というものの代表格は、作品を作ることで他人を傷つけること、である。

その筆頭が私小説であり、その作品が世に出ることで、損失や侮辱、著しい名誉毀損などが書かれた者の身に降りかかることである。中には、そのために人間関係を破綻させることもあるだろう。

私小説は、イニシャルで書いていたり、虚実入り混じり、複数の人物を融合させていたり、誇張していたり、事実ではない。何故ならば、私小説は創作であり、小説だからだ。
然し、モデルとなる人物からしたら、たまったものではないだろう。
その有害性こそが私小説の面白さというその業の深さこそが、創作者の罪であり宿痾しゅくあなのである。

他にも、作品のために家庭を破壊する、作品のために他者を巻き込み人間関係を破綻させる、作品のために多額の借金を背負い人生を破綻させる、作品のための実生活が疎かになる、作品のために他者の物を剽窃する、作品のために嘘八百を並べる、etc。
 
で、この『東十条の女』には、主人公が出会い系であった女性含めて、三名ほどの女性が出てきて、結婚相手を探すのだが、その選抜の基準は顔ではなく知性、というところが面白い。
途中で淡々と性描写が挟み込まれるが、扇情的ではないが故に異常なリアルさを醸し出す。扇情的な小説よりも余程に性的な匂いが横溢している。

基本的には男尊女卑な感じなので、淡々と女性の特徴や本質を突く文章が書かれて、モデルの人はこれ読んだらどう思うのだろう……と心配してしまうほどである。
何冊も本を出していると女性が寄ってくる、という点、有名であること、実績が世間から評価されていることは、やはり強い美点として引き寄せるのであろう。

然し、私小説、と言われれば、小谷野氏自身も研究対象にしている谷崎潤一郎だって、川端康成だって、そのどちらも、まぁ、半分私小説である。

どちらも、自分の生活を藝術化するわけで、谷崎なんかはそれに自覚的だし、そのためには、自らの美神ミューズをとっかえひっかえする。
まぁ、当人たちの気持ちは当人たちにしかわからないが、やはり、色々と葛藤やいさかいもあるのだろう。

私小説ではないが、川端康成の自殺の理由を書いた小説として、『事故のてんまつ』があるが、これなんか裁判沙汰になっている本であるが、まぁ、縫子という川端のお手伝いさん兼運転手さんの証言を元に、彼女に執着していた川端の死の真相を書いた小説だ。あくまでも小説、である。

川端康成は絶筆『隅田川』においても、若い子と心中したい、だの、そのようなことを書く男である。若い頃から一貫して美しい女性に惚れては、それをミューズに、藝術を書いてきたわけで、真相は識らんが、一貫しているので何ら驚くことではない。

どちらも、藝術の為に、人を観察し、徹底的に観察し、罪や悪までも美のためには捧げるわけで、これが藝術家の業である。

小谷野敦の川端本は面白い。やはり、絶賛タイプではなく、YASUNARIの悪いところも指摘しているのが好感が持てる。
人間の美点だけではなく醜悪な部分も詳らかに。そうすることで、より作品への理解が深まり、テーマが浮かび上がるのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?