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ダンス・マカブル

今年の4月からTVアニメで放映される『ダンス・ダンス・ダンスール』は男子バレエをテーマにした作品である。

男子バレエをテーマとした漫画作品は少ない。女子バレエなら、山岸凉子の『アラベスク』や『テレプシコーラ』を始めとして、たくさんある。

今作は、天才と天才を軸に据えた作品だが、基本的には漫画の作品には天才が主役になることが多い。『ジーニアス・ミーツ・ジーニアス』は、有り触れた構図である。

天才でなければ、高みへといけないわけで、読者(観客)を高みへと引き連れていく役割を担っているからだ。
例えば、『ヒカルの碁』などであれば、ヒカルは天才で、彼はどんどんステージを駆け上がっていく。
中学の部活の大会を経て囲碁部連中では相手にならなくなり、院生の入り、そこからプロ試験を経て、日本やアジアのトップレベルとの闘いを繰り広げるが、『ヒカルの碁』の潔いのが、ステージを新たにしたら、主要登場人物を変えていく点で、天才には天才の見る景色があることを教えてくれる。

前述の『テレプシコーラ』などは、圧倒的な天才ではない主人公で、作中にコリオグラファーとして才能を見せるシーンが多々ある。

天才バレエダンサーといえば、私には曽田正人の『昴』が思い出されるが、
曽田正人作品は基本的には天才をテーマとして描いてきた歴史がある。

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『シャカリキ』では自転車、『め組の大吾』では災害現場での対応、『カペタ』ではF1(物語はF3で終わったが)など、様々な天才が描かれて、それに呼応するかのように、もうひとりの天才が主人公を引き上げていく。

『ダンス・ダンス・ダンスール』は主人公潤平とライバルの流鶯るおうがメインとなり、潤平は中学二年生頃からバレエを始め、流鶯は幼少の頃から虐待同然の英才教育で造り上げられたダンサーである。
潤平は父の死により、長髪を切り、男らしく生きることを決意し、憧れていたバレエから遠ざかるも、一人の少女によりバレエに引っ張り込まれる所から物語は始まる。

2巻くらいまでは潤平がバレエに本気にならないので、なかなかもどかしくドライブがかからないが、3巻からはバレエ一本気になり、一気に引き込まれる展開になる。余計なものが削ぎ落とされていく。

今作では、ライバルの流鶯はどんどん先に行ってしまう。彼は王子に相応しい男で、才能の塊のサラブレッドだが、然し、読んでいて思うのは潤平の素質の圧倒的なところだろうか。明らかに、潤平に瞠目すべき天稟が与えられており、下手くそな初期の頃の踊りですら、「バレエの本質を掴んでいるかのように思えた」と、流鶯に言わしめている。

これは重要なことであり、文章にも通じることで、文章の巧拙は実は重要ではなく、本質を掴んでいるかどうかが重要なのである。すなわち、文章が何のために存在するのか。それは、伝達という手段そのものではなく、感情や思想を印すことにこそ意義があり、つまりは、考え方の問題だということである。文章はツールでしかない。そのツールに美しさを纏わせるのは、そこに書かれているものである。

そして、今作は主人公の中学生時代から始まるので、潤平は恋に奔放であり、其処此処に浅い恋愛が発生したりするのも面白い。下ネタが多いので、人によっては嫌かもしれないが……。

然し、真のLove Storyは潤平と流鶯、二人の天才ダンサーの間にこそあって、それは、流鶯の、「潤平は下手くそだが、腹が立つ」という言葉に集約されている。恋は、怒りを孕むものである。それは、恋だけではなく、無論才能のある人間を手放しで褒めることなぞ、その道に殉ずる気持ちの人間ならば、誰がしようものか。
才能がある人間に腹が立つ、放っておけない。その感情は、ライバルというものにおいて決定的なものだ。
小説家は、汎ゆる小説家を見下し、自分こそが至高だと思っている。それでいい。腹の立つ文章を書く人間こそが、自分の脅威であり、ライバルなのである。藝術家は、全藝術家を敵に回さなければならない。

私はバレエを観たりはしても、したことはないので、踊りの本質はわからないが、然し、人の感情を爆発させることは間違いなく踊りという儀式の本質であり、それを潤平は備えている。踊りは神に通じることもあるし、ある種の祈りであり呪いでもある。

『ダンス・ダンス・ダンスール』において、面白い展開だなと思うのは、恐らくは読者の行ってほしい方向に、潤平が進もうとしないところだろうか。
彼はいつでも心の赴くままに行動していて、重要な決断を迫られた際、大抵は悪路と思われる道、宿敵すら潜む道を選ぶのだが、それが何時しか潤平には悪路ではなく、読者にとっても最高のエンターテイメントの舞台へと変えてしまう。この陽性こそが、彼のスターたる天才性であって、底抜けのバカであると同時に、恐ろしい魔薬の如し魅力だろう。

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天才と天才は漫画、小説の類の定石であるけれども、人は、そのような人物の見る景色を、代理人として主人公に託している。
歌も、映画も、汎ゆる藝術は感情の代理人であり、それは漫画も同様である。




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