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悪魔派谷崎さんと魔界派川端さん

川端康成は『古都』のあとがきにおいて、睡眠薬中毒で朦朧としながら
本作を書いたと記している。
薬で夢かうつつかが定かではない中の所産だとしている。

スポーツにおいてドーピングは反則であり、芸術においてもそのような考え方がある。実力以外の要素を使うのは卑怯だという考え方である。
この、川端康成の『古都』も薬のせいで産まれた作品だというのならば、
これはドーピングのようなものではないだろうか。
或いは、アルコールにより見える幻想が生み出す作品はどうなるのだろうか。ある種、脳のリミッターが外れたことによって視える幻想を捉えて紙に書き写すのは、これは反則なのだろうか。それとも、有効なのだろうか。

誠実な文学と、魔界の文学とがある。然し、基本的には文学作品は人間存在の闇であったり、人間の不可思議さを書くものが多いため、誠実なものは教科書的になる。誠実とは、人間が行う実は一番難しいものであるため、共感を得ることはない。どちらかというと、暗黒面であったり、地獄の底を掠める人生が人間には多いからである。

誠実な人間というのは幻想であり、あくまでも仮初めの姿であるから、本来的には文学として機能するのはこちらになるはずなのだが、誠実な人間を書いたものというのは、つまらないから、そのようにはならない。
(然し、『白痴』のムイシュキンは誠実であり、聖人的である。だからか、他の人物は全てが悪魔的だ)。
誠実な作品、品行方正な作品はつまらない。人は他人の不幸を見て喜ぶ性質があるので、即ち人間とは悪魔だということだが、天使こそが本来目指すべきものであり、然し、それでは面白くないし、大衆の支持を得ることはできない。

川端康成は後年、魔界の文学の書き続けていて、それは彼の圧倒的な孤独であり断絶が根本に潜んでいるのだと思われるが、中編である『みづうみ』という作品では、主人公の元教師である銀平の意識の流れを通して、透徹した孤独を幻想的に書き出している。

銀平は物語冒頭でトルコ風呂で湯女に洗ってもらいながら(『千と千尋の神隠し』は風俗の話であるが、それを指摘する人はネット以外ではあまりいない)、湯女の声に聞き惚れる。
川端は女、少女の声が好きで、『雪国』のヒロインの1人である葉子もまた、哀しいほどに美しい声だと描写されているが、声という女性美一つとっても徹底的に拘るのが、川端の変態性である。
銀平は、昔教え子に対して犯した罪故に教職を追われて、その後も美しいと感じた少女を尾けたりしているので、これは事案小説である。
『東京の人』の主人公の1人である島木も、世捨て人のようになって、家族を捨てて生きている。『山の音』の主人公信吾は、崩壊している家庭の中で、義理の娘に救いを見出す。
日本の美しさを書いているのではなく、日本に生きる禍々しい人々を美しい言葉で包んで書くのが川端の小説である。基本的には、家庭は崩壊し、愛は無く、孤独が渦巻いている。

谷崎潤一郎もまたイカれた小説家で、自らの生活を芸術化し、その芸術を小説化した。その中で、自分の思う美しい女を礼賛し、女神化するのが、彼の文学の特徴だが、然し、実際の女性たちへの扱いは酷いものがある。
二人とも、芸術至上主義とも思えるが、然し、本質的には権威、金、女、という、男の好む物を愛している魔界の文学者であり、正しく悪魔派である。

この悪魔のような文学者たちが、日本の美であるというのは哀しい話で、本来的に美しいもの、誠実な文学というものは、なかなか日の目を見ない。
悪魔派の二人は、あまりキリスト教の影響は受けていないように思える。
神をも恐れずに、教会において、十字架の前で尼僧を犯してみせるような文学を書いているのだから。
谷崎も30代までは、モダンな作品が多く、西洋趣味があった。川端も同様であるが、互いに40代50代は日本的な世界に陥っている。然し、それも一つの日本の側面でしかなく、土着的な村文化や民俗学とは隔てた、幻想の日本である。この二人は、何れも幻想の日本を書いていて、それが今なお日本的幻想の風景として認知されているように思える。
桜という花に儚さを感じてそれが美しさだと感じる安い感性の極地である。

悪魔派は、神を信じていない。彼らの神は女であって、その女を極限まで美しく描くことが、彼らが神に触れる唯一の方法であるが、その神すらも掴めばさらさらと指からこぼれ落ちていく。
それは、神を書くつもりで、川端にとっては永遠に娶ることのなかった聖少女であり、谷崎にとっては満たされることのない数多の女たちである。どちらも、神のふりをしたただの人間でしかなく、頬は桜色に美しいものだが、然し、切れば真赤な血が流れるのである。

私は、『雪国』も『春琴抄』も『細雪』も、そして『古都』も大変に美しい文章だと思っているが、それは文章的なものの美しさ、語彙から紡がれる音の連なり、そして、私にも幽かにだけ見える日本的幻想の風景を幻視させてくれることにあるが、然し、思想的な、或いは詩想的なものとしては、これらの作品に一切の讃は抱けない。


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