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苦悩の季節


日本の墓場に似合わないのは十字架であり、それが木で拵えられたものならば、尚更である。卒塔婆とはわけが違う。

アルコールの幻想に悩まされていた作家の墓に捧げられていたワンカップ酒に、私の心は温まった。彼はモーリッツを気取ってウィスキーのガラス瓶を懐に忍ばせては、学校裏手の櫟林で、少年悲劇の感傷に浸っていたという。

少年の心の中だけは、そこも王様の蝋燭の咲いた川べりだ。彼は、酒には女も星も神も仏もみんな入っていると、そう言っていた。
モーリッツは父親から見放されていたが、彼にシンパシーを感じていた作家は、僕は父だけの子と、そう言っていた。

アルコールに頼るのも、阿片に頼るのも、何ら変わることはない。
生垣に美しい白薔薇咲き乱れ、やけに大きなアルプス山脈の幻覚は『オピアムイーター』におけるド・クインシーのものだが、或いはそれらの幻の方にこそ、祝福があるのではないだろうか。そうして、その夢の中に見たことを、つらつらと書くことが文学であるのだとしたら、それを棄てるのも吝かではない。書かずとも、苦悩こそが存在そのものであるから。
而して、文学とは苦悩である。

少年悲劇は、繰り返される。落伍者の行く末は、自殺であるが、エリートには破滅が待ち構えている。エリートとは悪魔である。
戦争と芸術は本質的には同質の苦悩である。
キエフに起きた赤熱を帯びた爆発はある種、それを想起させる。

ミルトンの言うように、われわれの最初の両親が振り返った楽園の門の如く、戦慄の容貌と火焔の武器にみちみちている、ことがこの世界であるのならば、モーリッツの問いのごとく、どうして生まれてきてしまったのかに思い至るのは当然である。

どうして、今、自分ここにいるのか、どうしてこんなにも悩んでいるのか。それはお祈りだけで救われていた少年時代には思いも寄らない。

少年の幸福と苦悩もまた同質であり、ただ父の懐に抱かれていた時代、その微睡みだけが、救いである。
けれども、人生とは、戦わなければならない。


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