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タルホと月⑮ はてしない物語

私のトラウマとして、映画、『ネバーエンディングストーリー』がある。
あの作品は、原作者のミヒャエル・エンデはエンディングの改変に非常に怒っていて裁判にまでなった。

私は、恐らくはテレビで放映されたものか、ビデオで見たのだと思うが、あの、幻想の世界が、幼心に恐ろしくてならなかったのである。

何よりも、恐ろしいのは向かい合う金色のスフィンクスである。
この間を通ろうとすると、目からレーザービームが放射されて、黒焦げになるのである……。勇者アトレーユがそこを通ろうとすると、鎧姿の騎士が倒れており、風が吹くと兜の面が上がり、ミイラ化した姿が現れるショッキングシーンである……。

大人になって観返してみると、特撮や意匠はチープである。然し、郷愁のせいかもしれないけれども、あの世界には魔法が生きている。
魔法とは、魔道とはなにかと考えると、それは、やはり子供だけが持つ感覚、あの、万能感なのかもしれない。

『ネバーエンディングストーリー』には、ファンタージェンなる王国が登場する。そこには『無』による破滅の危機が迫っていて、勇ましい青年のアトレーユがそれを食い止めようと冒険する。これは全て、主人公であるいじめられっ子の少年バスチアンが逃げ込んだコレアンダー書店で見つけた本の中の話である。

バスチアンは、この本の溢れるイマジネーションの世界に没頭し、アトレーユの冒険を応援し、夢中になって本を読みすすめる。
そうして、本を読んでいくうちに、バスチアンはだんだんとこの恐ろしい『無』と闘うのが、本を読んでいる自分自身だと気づく。本の世界と、現実世界が交差していく。

ファンタージェンの女王は美しい少女で、名前を幼心おさなごころきみという。これ以上に美しい名前を、私は識らない。

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幼心の君は、バスチアンに向かって、この世界を救うために、自分に名前をつけてほしいと何度も訴える。
ファンタージェンの崩壊を止めるために、バスチアンは勇気を出して、彼女に名前をつける。
現実世界には無しかないのに。僕は、誰からも必要とされていない、愛されてないのに。それでも、名前を与える。
名前を授ける、とは、他者の人生を形作ることだ。それは、勇気がいることである。

つまりは、これは稲垣足穂である。作家稲垣足穂は、藝術とは幼心の完成である、と言っている。そして、バスチアンが彼女につけた名前というのは、『月の子(モンデンキント)』なのである。
月は、足穂の作品の最大のモチーフであり、ここにタルホと『はてしない物語』は完全に照応を見せる。

幼心の君は、汚れのない、美しい、真白な少女で、彼女は足穂の言う郷愁そのものであり、私達が少年少女であったころに傍らにいた存在である。
彼女を思い出し、名前を授けることこそ、藝術ではないのか。私達は、既に藝術を傍らに過ごしていて、それはもう思い出すことでしか掴むことは出来ない。それが魔法なのである。
大人になると、無しかない。だからこそ、それと闘うために、人には思い出という魔法がある。

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そして、今作にところどころ現れる、ボール紙に穴を空けて作ったかのような星空!これもまた、タルホの愛するボール紙の夜空そのものではないだろうか。

この映画には、私の愛する映画を思い起こさせるシークエンスがある。それは2049年の童話である『ブレードランナー2049』だが、今作における荒廃したラスベガスに浮かぶ、向かい合う女性像は、まさに私にトラウマを与えたあの美しきスフィンクスではないか!

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幻想絵画の画家ギュスターヴ・モローは、『オイディプスとスフィンクス』を描いている。埃及のスフィンクスとは異なる、ギリシャのスフィンクスの系譜がここにある。

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スフィンクスは謎掛けをする。それは、誰もが識っている答え、人間についての問題だ。
人間は、スフィンクスのように目からビームを放射することはできない(サイクロップスは別だ)。然し、スフィンクスを生み出したのも、また人間の魔法、空想の力である。





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