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評論と創作のあいだ

つまりは冷静と情熱のあいだ、ということである。

まぁ、意味がわからないと思うが、MeTooである。

世の中には、創作者こそが絶対的に上だという思い込みがある。
クリエイター、アーティスト、なる人物は評論家よりも上の存在であると。
なるほど、確かに創作者は無から有を(性格には種を見事に果実まで育てる)生み出すわけで、概ねその感覚は間違いはないが、然し、知性・知識という面においては、評論家は侮れない存在であり、日の当たらない存在としての天才がそこにある。

たまさか、評論を読んでいて膝を打つ、新しい知見を得て脳みそが洗われる、そのようなことがあるだろう。
創作とは、漠然としたものに形を与え、それは人に感動を与える。
評論とは、漠然としたものに形を与え、それは人に感動を与える。

二つは同一のものであり、頒ちがたく結びついている。

人は、感動した、泣いた、神すぎる、最高すぎる、という、漠然とした感情を綴るのが精一杯である。
脳みその感じた感動を言語化するためには多くの知識、語彙が必要になる。そうして、評論とはロジカルな思考を要求するものだ。何よりも重要なのは探究心である。信仰心と置き換えてもいいかもしれない。信者は盲目だが、その中の幾人かが教祖から理を学ぼうと真摯に向き合う。
評論家は勤勉であり、探求に飢えた冒険家なのである。彼等は、新しい地図(グループじゃないぞ)を自ら埋めていき、そうしてその成果を人に見せるのが堪らなく嬉しい。
創作は美しさに心を踊らせて、評論は何故恋に落ちたのかを気付かせてくれる。創作は想い人であり恋人である。評論は、その想い人について話を聞いてくれる良き親友だ。
その友人こそは、本当には貴方のことも、貴方の好きな人のことも理解している非常に察しのいい、観察眼の持ち主なのである。
然し、恋人同士の熱い関係に立ち入ることは出来ない。総じて、脇役に回るわけだが、彼(彼女)がいないと、貴方の感動も、そして好きになった人の美しさのわけも霞んでしまうわけだ。

そして、優れた評論とは往々にして、その作品そのものの価値を引き上げる。ガラクタすらも、その言葉の連なりでほどいていくことで美しい国宝に変わる。いや、変えてしまう。それは、そのものの持つ本質を掬い取る目を持っての批評だからであるが……。

創作も、評論も、何れも冷静と情熱の間を行き来している。そうして、優れた評論は、冷静に情熱を称えているものだ。それは、優れた藝術の持つ静謐さと似通っている。

私が思うに、優れた評論家は頭が良すぎる。なので、大抵の人には難しいこと言っているように思えたり、頓珍漢に思えるわけだ。
最近、読みやすい文章を書く人こそが文才がある、という意見を言うことで、私は読解力がございません、という告白をしている人が多いが、真に文才のある評論家というものは、お客様を見ていない。だから、難しいのである。
読みやすい文章というのものは伝達手段、日報、それ以外では何の価値もない。

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