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MONOS(モノス)という我々

『モノス 猿と呼ばれし者たち』を観た。2019年のコロンビア映画である。
この映画は、少年少女の『地獄の黙示録』だと謳われている。

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『地獄の黙示録』はフランシス・フォード・コッポラ監督のベトナム戦争を題材に据えた映画で、まぁウルトラに有名である。
私が大好きなマーロン・ブランドが重要な役どころであるカーツ大佐役で出演している。原住民を兵士化してジャングルの奥地に王国を作ったカーツを抹殺するために、ウィラード大尉が闇の奥へと向かっていく。原作はコンラッドの『闇の奥』である。

コンラッドの『闇の奥』は時代は19世紀で、舞台はコンゴなので、基本的な設定を活かし、時代を60年代に、舞台をベトナムに変えて、映画化された。

『モノス』はスペイン語で、猿、という意味だという。
モノスで検索すると、UMAが現れる。このUMAはベネズエラで目撃された、謎の猿人である。

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『モノス』は、コロンビアの山岳のジャングルが舞台である。
ここに8人の少年少女(13歳〜18歳くらいだろうか)がいて、日々自給自足をしながら訓練している。彼らは、ゲリラ組織に従えられていて、時折、メッセンジャーなる彼らの教官的な男が8名を訪ねてきて、指令を与える。

彼らの支援者から預かった乳牛のシャキーラを事故死させてしまうことで、
彼らの運命が大きく狂い始める。この乳牛は借りているだけなんで、大切に世話しろよ!と鬼教官が言い残して帰っていくのだが、(この役者が一番良かった。出てくると画面が締まる)8人の1人、ドッグが遊び半分で銃をぶっ放していると、シャキーラに中り、死んでしまうのである……。
この出来事をきっかけに、まだ幼さを残した8名に人格が生まれるかのように、それぞれ、キャラクターが色濃くなってくる。

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不満、嫉妬、怒り、哀しみ、保身など、様々な感情がキャラクターたちから溢れてきて、それが破滅へ進む原動力となっていく。
この話は、方方でも語られているように、少年のコミュニティの崩壊を描いた『蝿の王』をベースとしている。着想が、『蝿の王』ミーツ『闇の奥』なのである。

ゴールディングの『蝿の王』は、世界文学では私のお気に入りの作品である。
『モノス』は『蝿の王』の影響を明確に受けていて、それは、『蝿の王』に登場する、豚の生首を画面に大写しにすることからも、観客にもこれは『蝿の王』ですよと、丁寧に伝えている。
すごく丁寧な監督に思える。監督のアレハンドロ・ランデスは建築家でもあり、彼の感覚というか、美意識、丁寧な画面づくりや、アーキテクトの感じなどを見るにつけ、ドゥニ・ヴィルヌーヴに似ているように思えた。

で、豚の頭とは、『蝿の王』における恐怖の象徴である。マーロン・ブランドことカーツ大佐が死ぬ時に呟く、「恐怖だ……。」という、根源的な恐怖である。

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『蝿の王』は近未来のイギリスが舞台で(とはいえ、今からはもう過去のことである)、そこで墜落した飛行機に乗っていた生き残りの少年たちが集い、コミュニティを形成し、生き延びていこうとする話である。
少年たちは『モノス』に出てくるよりも小さい、本当の少年たちだ。この中に少女はいない。
ここでは、法螺貝が重要な役割を担う。法螺貝を手にして吹く者は、意見を皆に拝聴してもらえるシステムなのだ。
然し、少年たちはだんだんと、限られた集団の中ですら派閥を作り始め、法螺貝は次第に機能しなくなる。
行末は、殺人と、法螺貝のシステムの崩壊、そして、敵対するものを抹殺すべく獣と化した少年たちの姿が跋扈するジャングルである。

最終的に、主人公のラルフは救われるが、少年時代は終わりを告げ、彼の魂は殺されてしまった。
この舞台は、美しい島である。美しい紺碧の海を背景に、恐怖が人心に広がる。
『蝿の王』において、1人の聡明な少年サイモンだけが、この恐怖と相対する覚悟を持ち、誰もが気づかない根源的な悪意に気づくが、哀しいかな、そのような人間は早死するのである。
彼は、豚の頭と対話をする。作中、他の少年たちは、島にいるかもしれない怪物に恐怖を抱く。然し、サイモンはその怪物の正体に気づいていて、怪物=自身の恐怖そのものだと、それと対話をするのだ。
『モノス』においても、スマーフという少年が、豚の首に長い時間対座する。彼は、『蝿の王』におけるサイモンだろうか。スマーフは、裏切りや嘘を告発し、結果括られてしまう。
主人公格はランボーという中性的な少年?(私は、彼は少年だと思っていたが、アップになるとどう考えても、このようなタイプの可愛い感じは、男には存在しない、と思えるほどで、調べるとやはり女優さんでした)で、彼は『蝿の王』の主人公だろう。

『モノス』とは、非常に直球のタイトルである。
まさに、猿たちが、最終的には理性のタガを外して、無目的に野生化し暴力を拡散、次代の写し身を生み出してしまうのだから。

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終盤、ランボーは観客に向けて、涙をためた瞳を向ける。観客は彼/彼女の瞳と、十秒ほど向かい合う。物語は、唐突に終わる。
これは、『炎628』とも言われるが、小説の『蝿の王』の主人公ラルフが最後に救助隊に向けて見せる表情の再現なのではないだろうか。
問題は根深く、抽象で描かれた箱庭は、同時空に開かれている。

然し、この映画の撮影は非常に美しい。さらに、無機的な、モダン的な巨石を配置した広大な山岳の基地の景色は、間違いなく一級品のレイアウトであり、この絵を見るためだけに、この映画を鑑賞しても良いかもしれない。
(撮影は、標高4000メートルのチンガサ国立自然公園で行われた)

泥と緑、この2つをここまで瑞々しく美しく切り取った映画はなかなかない。
私は、中南米に美しいという感情を持ったことはあまりなかった。けれど、今作を観て、コロンビアという国の持つ美しさや色彩を初めて識ることが出来たので、私には良い映画体験だった。


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