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ブッダの教え1-29 幸福の道

幸福の道は険しいのか?それとも…

まず、誰もが抱く疑問に触れておきましょう。「幸福への道」というものは、実際に存在するのでしょうか?そして、その道がまるで険しい山道で、泥だらけになりながら登っていくようなものだったら、果たして誰がその道を歩みたいと思うでしょうか。しかも、その山道の頂上に本当に幸福が待っているのかどうかも分からないのに。

たとえば、「宝くじに当たれば幸福になれる」と信じて、毎日ロト6やナンバーズを買い続けている人がいるとしましょう。彼らはその瞬間、「当たるかも」という期待で心が満たされ、わくわくしているかもしれません。しかし、現実はどうでしょう?ほとんどの場合、期待は裏切られ、また次のチャンスにかけることになる。これが繰り返されるわけです。さて、ここで問題です。その人は本当に「幸福」なのでしょうか?

幸福の道、それとも幻想?

同じように、もし誰かが「この道を進めば必ず幸福になれる」と教えてくれたとしても、その道がどれだけの試練や苦難に満ちているかを聞かされれば、二の足を踏む人が多いでしょう。誰もわざわざ自分から「苦しみの道」を選びたくないですよね?お坊さんだって、朝早く起きて座禅したり、断食したり、清掃したりと、修行の道は決して楽ではありません。しかし、そんな彼らに対しても疑問が湧いてきます。「本当にその道を進むことが幸福につながっているのか?」

お金持ちの道と幸福の道の違い

ここで少し身近な例を挙げましょう。仮に「お金持ちになるための道」があるとしましょう。その道を歩き出したとき、どうなるでしょう?毎日頑張って仕事をし、投資に励み、節約生活を送る。その過程で、少しずつ収入が増え、貯金通帳の数字がじわじわと増えていくのを実感できたら、確かに「お金持ちになるための正しい道だ」と信じることができるでしょう。でも、もし逆に、どれだけ努力してもお金が減っていくばかりだったら?きっとその道を疑い、不安になり、やがて諦めてしまうでしょう。

では、同じことが「幸福になるための道」にも当てはまるのではないでしょうか?もし、その道を歩む中で、全く幸福を感じることができなければ、その道が本当に正しいのか、やはり疑問を抱くことになるはずです。つまり、幸福の道は、歩んでいる途中でも少しずつ幸福を感じられるものでなければならないのです。

修行と幸福の関係

仏教の修行者たちはどうでしょうか?彼らは長い時間をかけて修行に励み、その過程で少しずつ悟りや心の平穏を手に入れていくと言われています。しかし、もしその修行がただの苦痛でしかなく、全く幸福を感じることができなければ、その修行に対するモチベーションは続かないでしょう。人間は苦しみだけを感じながら、その先にあるかどうかも分からない幸福を求め続けることは難しいのです。

仏教の教えでは、修行の過程そのものが既に幸福への一歩であるべきだとされています。つまり、心の平穏や充実感を少しずつ感じながら歩む道こそが、真に幸福へと至る道なのです。

日常に潜む幸福のヒント

では、私たちの日常生活の中で「幸福の道」を見つけることは可能なのでしょうか?例えば、仕事や家庭、友人関係において、ストレスや不安ばかりを感じているとき、その道が幸福への道であるとは感じにくいでしょう。しかし、もし日々の中で何か小さな喜びや達成感を感じる瞬間があるなら、それが幸福への道の一部だと考えることができます。

幸福は決してゴール地点にだけあるわけではありません。その道の途中、つまり今この瞬間にこそ、小さな幸福が散りばめられているのです。よく考えてみれば、笑顔で食べる一杯のラーメンや、友人と交わす何気ない会話、朝の柔らかな日差しの中を散歩する時間。これらの瞬間が、実は私たちが追い求めている幸福そのものなのかもしれません。

人生の道は幸福への道か?

では、人生全体を通して見たとき、その道が幸福への道だと感じられるでしょうか?仮に「成功」という目標があったとして、そのためにストレスや不安ばかりを感じながら過ごしているとしたら、たとえその目標を達成したとき、果たして本当に幸福を感じられるでしょうか?それよりも、目標に向かう過程そのものが充実していて、少しずつでも「これで良いのだ」と感じられるなら、その道が本当に幸福への道だと言えるでしょう。

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