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輪廻からの脱却-解脱
わたしたちは、なぜ苦しみの多い世界に生まれ変わってしまうのでしょうか。
お釈迦様は、それはカルマ(業)、すなわち「行為」によるものである、と説いています。
例えば、
怒ったり、生き物を殺すなど、他の魂を傷付ける行為を積み重ねることによって地獄に至る
人に施すことなく、一切のものを自分のものとして貪る心を積み重ねていくことによって、餓鬼の世界に落ちる
また、嘘をついたり、遊びや怠惰・眠りなど、無知を背景とした行ないを積み重ねることによって畜生に至る
ということです。
したがって、わたしたちの身体・言葉・意識の行ないを煩悩的なものから清らかなものへ変えていくことによって、初めて苦界から脱却できる可能性が出てくることになります。
そのための実践として、仏教、ヨーガなどの修行が説かれるのです。
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● 解脱とは輪廻からの脱却
輪廻転生は、再生を繰り返すということであるが、これはただちに、再死を繰り返すということにほかならない。この世に生を受けた者は、望みどおりには生きられないという葛藤と、死に代表される喪失の悲哀とを避けることができない。
こう考えたとき、輪廻転生は苦しみ以外のなにものでもなくなり、そこからの永遠の脱却である解脱が、なにものにも替えがたい目標として立ち現われてくる。
解脱したならば、もはや再び生まれ変わることがなく、したがって、今生における死を最終のものとし、もはや死を繰り返すことがない。
そのような状態を、人々は「不死」(アマタ、アムリタ)と呼んだ。
初期仏教でも、とくに古い文献には、このことばがよく用いられているが、別に「涅槃」(ニッバーナ、ニルヴァーナ)ということばが用いられることもある。「涅槃」というのは、とくに仏教とジャイナ教の専門用語の観があるが、ヒンドゥー教でも、ときとして用いられる。
仏教はまた、解脱を渡河にたとえ、輪廻転生の苦しみの世界を「此岸」、解脱して苦しみから解放された窮極の平安、寂静の境地、つまり不死、涅槃を「彼岸」と呼ぶ。
では、解脱はいかにして可能か。
これは、輪廻転生の原理を見定めることによってのみ可能である。
そこから、輪廻転生(因果応報)をもたらす原動力はなにか、その原動力の担い手(つまり輪廻する主体)はなにかという問題が、真剣に考究されるようになった。
(宮元啓一『仏教誕生』)
●善をなし、不善を捨てること
輪廻にあらわれた心が再生をくりかえしながら、さまざまな苦しみを味わっていくことになる、その原動力はなんなのだろう。
それは、ほからなぬ私たち自身の行為である。
私たちは善の行為をなし、不善の行為を捨てなければ、この輪廻をぬけだすことはできないのである。
ここでいう行為というのは、仕事をしたり、おしゃべりをしたり、泣いたり、笑ったりする、そういう外面にあらわれている行為をだけをさしているのではない。
もっと広く本質的な意味での行為をさしている。
私たちは、あらゆる行為を身体・言葉・意識という三つの側面からとらえてみることができる。
さらに、この身体の行為、意識の行為という三つの中で、どれが一番重要なのかというと、それは意識の行為なのである。
(中沢新一『虹の階梯』)
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