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読書ノート「現代経済学の直観的方法」(著:長沼伸一郎 講談社)

1.はじめに

本書は2020年4月に出版されました。物理学の研究者だった著者が予備知識のない人でも経済学のロジックを直観的に理解できるように書いた本であるようです。文系的なフワッとした話でなく本質を正確に理解したいが、数式を使わずに全体像を知りたいという要望に答えようとするものようです。説明内容はマクロ経済学を中心にしておりオーソドックスな経済学の入門書とは違う独自の構成になっています。

2.資本主義はなぜ止まれないのか

この章では資金循環と金利について説明しているようです。まず歴史の話をします。第一次世界大戦が総力戦となったのは鉄道網の発達により兵員と武器弾薬の大量輸送が可能になったからといいます。次に中世のキリスト教カトリック社会とイスラム社会を対比して、ともに利息を禁じていたがキリスト教では余剰のお金が寄付として教会に集められ、結局、金融につかわれていたがイスラム社会では喜捨により金持ちが直接的に貧しい人々にお金を配るからお金が一か所に集中しずらくなっていたという認識が示されます。

次に貯金のないシンプルな資金循環のモデルを示します。1つの町を考えます。中心部にお店=職場があり、そこと鉄道で結ばれたベッドタウンがあります。ベッドタウンに店はないものとします。旦那が店で仕事をして給料をもらいます。給料は日払いです。家に帰って奥さんに渡すと奥さんが翌日鉄道に乗ってお店で全額消費します。仮に上空からお金だけが見えるとします。1日の物理的なお金の流れみるとベッドタウンから鉄道に乗ってお金が移動し、お金が空っぽの中心部に移動します。そこでお店に渡ったお金が閉店時に旦那に給料として渡され鉄道に乗ってベッドタウンに戻ります。同じことが毎日繰り返されます。これが貯金がないときの家計と企業の資金循環のモデルになります。

ここで奥さん達が貯金を始めるとします。毎日、旦那の給料の1割を貯金します。このモデルには銀行がないので庭に穴を掘って埋めます。例えばこの街の1日の給与総額が100万円とします。1割が庭に埋まるので鉄道に乗って中心部に行くのは90万円になります。するとお店は売り上げが減るので旦那達の給料も90万円に減ります。ここでまだ1割貯金を続けると翌日鉄道に乗って移動するお金は81万に減ります。旦那さんは不景気のせいでクビになってしまうかもしれません。

つまり個人がお金持ちになりたくて貯金すると社会が貧しくなるという逆説が生じます。ここで説明されていないミクロ経済では神の見えざる手といって市場経済は自律的に安定化するといいますが、資金循環を基礎とするマクロ経済学では個人としては合理的な行動を足し合わせると社会全体では不合理になることがあり得るとします。なお筆者は中世イスラム社会の喜捨はこれを避けるための仕組みだったという認識を示します。

ここで銀行が登場します。銀行はお金を預かると利息をつけてくれます。埋めるよりおトクなので奥さん達は銀行に貯金します。銀行は貯金の利息より高い利子を取ってお店にお金を貸します。翌日は銀行の貸付金も鉄道に乗って中心部に移動しますから退蔵することなく100万円が中心部に移動します。

例えばお店がパン屋とします。パン屋は銀行からお金を借りて焼き窯を買います。なおパン屋は将来売り上げを増やして銀行に利子をつけてお金を返さなければならなくなります。これが設備投資のモデルになります。他方、その日のお金の動きについては設備工場がパン屋に焼き窯を売るのでそこでお給料も払われ、ベッドタウンに100万円が戻ります。

話はこれで終わりません。銀行に利子をつけてお金を返すためには売り上げを伸ばさなければなりません。つまり経済成長が宿命づけられているのです。お金が血液のように鉄道で循環し、設備工場が武器である資本財を生産し、銀行は弾薬であるお金を企業に提供します。著者は、資本主義は総力戦のようだといいます。しかも貯金がさらに続くなら企業はどんどん設備を更新しなければ資金循環は回りません。そうなると社会はさらに経済成長を加速しないといけないのです。

これが現代資本主義経済のモデルになります。ここでのポイントは、経済全体でみると貯蓄と投資が一致するということで、マクロ経済の基本になります。現代社会のエコノミストが設備投資に注目するのはこれが経済成長の決め手となっているからです。また政策的にみると設備投資は金利を下げることによって増やせるだろうとわかります。企業の投資の意思決定は将来の成長の見込みと現在の金利を比較して行われることになるからです。

ところで銀行がお金を貸すのは将来経済成長すると信じているからです。もし経済成長が止まってお金が帰ってこないならシステムは機能しなくなり、貯金が社会を貧しくするあの状態に戻ってしまいます。資本主義は経済成長を前提としたシステムであり、自身の飛ぶ力で揚力をえる飛行機のように失速すれば墜落するから止まることができないのです。

現代の日本ではGDPの20%程度が設備投資であり、著者は、これは常軌を逸したことではないかといいます。他方、所得の2割を貯金すると聞くとそれほど違和感を感じないともいい、貯蓄を当たり前と思う感覚が間違っているのではないかといいます。

資本主義は金利の公認によって貯蓄というジェット燃料を得ました。これは歴史的にみるとプロテスタントのうちカルヴィン派に起源があるといいます。その教義は予定説といって天国に行ける者はあらかじめ決まっているとされます。そうであれば他人に施しをする必要もないし、貯蓄に励むことが自分が神に選ばれていることの証明になるとされたようです。中世社会にあった商業、金融業あるいはお金に対する罪悪感をなくしてしまったのです。

こうした考えは個人主義と結びつきます。他人との結びつきを失った個人はますます貯蓄に励みます。逆に、例えば江戸時代の長屋の町人には貯蓄の習慣はほとんどなかったといいます。相互扶助が当たり前だったから貯蓄するという考えがなかったのです。

著者は、国家レベルでは資本主義の必要性に3つの要素があるといいます。1つは軍事力の基盤を確保することで、かつては軍艦の建造基盤が軍事力の決め手でした。またソビエト連邦が崩壊したのは半導体産業を構築できなかったからだといいます。2つめはアメリカン・ドリームの舞台だといいます。3つ目は他国の資本主義から自国を守るためといいます。明治の日本、あるいは現代の日本でも資本主義を駆動しているのは地位を失うことへの不安だといいます。

さらに資本主義は、その外見とは裏腹に、実は最も原始的な社会経済システムなのであり、それ以上壊れようがないからこそ生き残ってきたのではないだろうかといいます。金利を禁止し、お金の力を抑え込もうとした中世の社会やイスラム教はむしろ高度な文明だといいます。

なお経済モデルの説明以降に披露された経済史的見解及び価値判断は経済学理論から導かれるものではなく著者個人の見解でしょうし、私は賛成できません。宗教改革や政治体制のような上部構造の話より、テクノロジーの進歩に起因する生産力と人口の飛躍的増大が近代を動かした主要な要因だと思います。

3.農業経済はなぜ敗退するのか

産業構造が1次産業から次第に2次産業、さらに3次産業へ移行していくことをぺティ・クラークの法則というそうです。著者は、農業文明がハイテク兵器を持たないという点を忘れて純粋に経済的に競争したとしても、農業は商工業に敗退するといいます。

著者は、江戸幕府は農業文明が商業文明に上に覆いかぶさってねじ伏せようとした世界の中でも稀有な例だといいます。武士階級の所得が石高で表され、米本位制ともいわれる特異な体制をとっていたとしますが、結局、商品を購入するためには金銭が必要で、武士は領地から取れる米を売って金銭を得ていました。しかし米の値段が次第に低下し武士階級が困窮していきました。著者は、幕府のやり方が悪かったのではなく、洋の東西を問わず農産物の価格は次第に低下するものであるとします。そうなる理由は産業としての機動力の差にあるといいます。

価格は需要と供給の関係で決まるとします。土地のように量が一定のものや貴金属のように量がそんなに増えないものは価格が安定するといいます。反対に工業製品は儲かるとなれば我も我もと増産してたちまち供給過剰になります。しかし工業製品は広告で売り上げを伸ばしたり別の商品に切り替えるといった機動力が高いので、ある商品が儲からないとなると別の手を打ちます。しかし農産物の方は全体の需要がそもそも伸びないのでそのような機動力がないのです。しかし技術は向上し生産量は増やせるため価格が下がってしまいます。このため産業構造も農業から商工業へ移っていくことになります。

著者は、江戸幕府は贅沢を禁止することで商業の発達を止めようとしたが江戸とその周辺では物資の自給ができなかったため海運を起点に商業が発達することを許してしまい農業と武士階級が衰退したとみます。

また著者は、農業だけでなく一次産品に一般に同じことがいえるとしアルゼンチンの衰退の例を挙げています。一次産品の価格が下がっていくなら工業国は有利になります。工業を持たない南の国はどうするかというと、比較優位ということで農産物や地下資源に特化しようとして結局ますます衰退することになったといいます。

著者は、唯一の反撃例は石油だといいます。石油は他の一次産品と異なり産業が発展すると消費量が比例するように伸びるという特性があります。さらに産油国の所在地域に偏りがあり、これが中東戦争を契機に団結してカルテルを結成できたのです。

しかし著者は、工業製品も歴史をみれば過剰供給に悩まされてきたのであり、それを乗り越えたのはイノベーションによるといいます。繊維産業から重工業への転換や、石炭文明から石油文明への転換などを挙げます。第1次、第2次世界大戦の頃は石炭文明化から石油文明への転換の境で停滞したが戦争を契機に転換したというような見方を示しています。石油文明が需要の飽和で停滞すると半導体文明が訪れたが需要が数年で飽和してしまい経済成長を長期に支えることはできなかったといいます。

経済発展に伴い一国の産業構造が高度化していく現象が普遍的にみられるのは間違いないところです。しかし農業と商工業の関係を文明の衝突と捉える枠組みは正直にいって面食らうところであり私には良く分からないです。産業構造の高度化の主要な原因は生活水準の向上に伴う人々の需要の変化にあると思うし、すべての先進国で農業が儲からなくなったわけではない(ただし儲かる場合でも産業の構成比率は低下する。)のでこの章の説明は個人的に疑問符です。経済は複雑系であり1つの現象には複数の要因がありスパッと割り切れるものではありませんが何が主要な要因であるかを実証的に見極めることが大切と思います。またイノベーション論は大切な話ですが、他方、石炭文明だとか石油文明だとかましてや半導体文明みたいな言葉の濫用は個人的に好きではないです。

4.インフレとデフレのメカニズム

歴史の話として第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレの例が挙げられます。著者は、ハイパーインフレの原因はパリ講和会議で天文学的賠償金を課せられた上、支払い遅滞に対してフランスによるルール占領を受けて返済のためにマルク紙幣を大量に刷ったからといいます。

ルール占領後のマルク紙幣増刷の経緯は必ずしも賠償金支払いのためとは言えない気がしますが細かいところはおいておきましょう。

次にインフレの図式を貨幣と物資の対応関係で示します。経済全体に貨幣が3単位あり、ある物資が3単位あるとします(ものすごい単純化ですが本質を直感的に掴むためです。)。このとき商品の価格は物資1単位に対して貨幣1単位とします。仮に貨幣だけが6単位に増えたとします。このとき物資3単位に対して貨幣が倍の6単位あるので物資1単位の価格も貨幣2単位と倍になります。逆に物だけが1単位に減ったとします。貨幣3単位に対して物資が1/3しかないので物資1単位の価格は貨幣3単位と3倍になります。つまり貨幣が増えるか物資が減るとインフレになります。したがって先の例ではマルク紙幣を増刷したからインフレになったというわけです。

物価がこれだけで決まるなら政府が通貨を乱発しない限りインフレは起こらないはずです。しかしながら著者は、実際には政府の通貨発行だけでインフレがコントロールされるといものではないといいます。それはインフレが次々波及していくからです。店頭の商品が値上げされたとします。理由を調べると鉄道運賃が上がっていました。さらに遡ると鉄道運賃値上げの原因は電気代の値上げで、電気代が上がったのは石油の値上げが原因だったという具合です。

今の話だと原因は外国にあることになりますが、著者は場合によっては国内で原因の連鎖が一巡して値上げが続くサイクルが形成される場合があるといいます。このようなサイクルはどこかに供給のボトルネックがある場合に起こるといいます。製品の売り上げが倍になったとき、原料供給量も同一価格で2倍にできればどの段階でも値上げは起こりません。しかし原料が希少な天然資源などで簡単に増やせなければ値上がりしてしまう場合がありそこから製品の価格やその先へ値上げが波及していくといいます。

経済学ではフィリップス曲線とよばれる考え方があり失業率とインフレ率が反比例の関係にあるとされます。景気が良くなると失業率は下がりますが、一方で製品の売り上げが増えると上記のボトルネックからのサイクルでインフレが生じるというわけです。

他方、インフレの始まりが好景気ではなく石油ショックのような形で始まった場合は不景気なのに物価が上がります。このような現象をインフレと区別してスタグフレーションと呼ぶこともあります。

このようにインフレには3つのパターンがあるといいます。①政府の紙幣発行量の増大、②何らかの原因による物品の供給減、③好景気に伴うボトルネックです。

こうした短期的なスパンの話とは別に歴史的にみると経済の発展過程において貨幣価値は低下していくといいます。しかしながら給料も同じように上がっていくのでこのような形のインフレは問題にならないといいます。物価と給料が同じ比率で上昇する場合は、インフレは実生活に影響のないただの数字の変化とみなされ、このような考え方を「貨幣の中立性」といいます。

長期的には貨幣は中立だとしても、インフレが短期的に実生活に影響を与える場合、誰が得をするのかを考えると機動力が高い人が得をし、動きの鈍い人が損をするといいます。起業家と資産家の関係を考えます。起業家が資産家から金を借りて事業をするとします。インフレが起こると借りた金の返済の重みが将来軽くなるので企業家は得をし、逆に資産家は返ってきたお金の価値が下がっているので損をします。次に企業家と労働者の関係をみます。物価が上がると労働者は賃上げを求めます。企業家もこれに応じはしますがその分を自社の製品価格に転化します。結局、他の企業家もそうするなら物価は上がり、また賃上げ交渉となります。このように物価と賃金がともに上がる場合、常に労働者の要求の方が1テンポ遅れるのです。逆に言えば企業家の値上げは給料の上昇に先んじているのでこの先行している部分が企業家の利益になります。このようなインフレが行き過ぎる場合は投資を抑える政策である金利の引き上げ、金融引き締めが行われます。

インフレとは逆に物価が下がっていくデフレが起こった場合はどうなるでしょうか。この場合は消費者が得をするといいます。さっきとは逆に企業の賃金カットは物価の低下に1テンポ遅れてしまうからです。逆に企業にとってデフレはダメージが大きいことが分かります。一見すると消費者=労働者に都合よく見えますが企業が立ち行かなくなると経済全体がより縮小してしまうのです。このためデフレが続くと社会全体が貧しくなってしまいます。

したがって著者は、軽いインフレを維持しようという政策は、労働者には良くないが企業家のことを考えれば国の経済をけん引するためにある程度のインフレはやむを得ないとする考え方とみています。

ここで戦後日本の傾斜生産方式の話が出てきます。終戦直後のアメリカは日本の復興に手を貸すどころか日本経済に対する制約を強めており、海外から物資が思うように入手できず国内で回せる復興のために傾斜生産方式がとられたとされます。それは鉄鋼生産と石炭産業に資源を振り向け鉄鋼増産と石炭増産のサイクルを造る政策だったといいます。また復興のための資金は紙幣の増刷でまかなったためインフレになったとします。他方、庶民は耐乏を強いられることとなったといいます。筆者はこれをインフレをあえて選択することが正しかった例だとします。

筆者は一般論として政府が紙幣を刷って企業に届ける行為は資金循環の鉄道の例に例えると武器弾薬の補給にあたり、これが行き過ぎて弊害が生じるなら金融引き締めをすればいいといいます。

アベノミクスと傾斜生産方式を同類の政策だと匂わせるような記述になっており、ちょっとついていけないものを感じます。現在の日本に物資不足はなく状況はまるで違います。また現在の政府・日銀が実質賃金の引き下げを意図的に狙っているという見方に立っているようにも見えますが、少なくとも政策当事者にはそんな意図はないと思います。金融政策についても量的緩和は実体経済に働きかけるよりも金融経済と為替レートに強く影響を与える点が問題なので戦争経済の比喩で語るようなことなのだろうかとも思います。

5.貿易はなぜ拡大するのか

素朴に考えると国内で調達できない物を海外から調達するが貿易の目的と思われそうですが、著者は貿易は価格差で動くといいます。

鉄などが豊富に産出するが土地がやせている鉱業の島と農産物はよく実るが鉄などの資源がほとんど無い農業の島があったとします。それぞれの島で余っている産物はただ同然で取引きされ足りない産物は非常に高価になっているとします。ここに2つの島を行き来できる船団が現れ仲介貿易を行うと鉱業の島での農産物販売と農業の島での鉱物資源の販売はこの船団が独占してしまいます。各島で余っている産物はただ同然という前提によれば仕入れにほとんど金がかからないのに島を往復するだけで2島の総生産額に等しい巨額の利益が得られます。実際、過去の歴史をみると貿易は巨額の利益を生み出していました。

しかし貿易で巨額の利益を得られるのは情報が独占されている場合に限られます。暴利あることが分かると国家が関税をかけて貿易を管理するようになります。

さらに商業の側で自由競争が行われるなら関税をかけない方が良いとされます。世界中の誰もが一番安い品を選択できることにより貿易の利益が買い手企業や消費者に広く配布され世界全体は豊かになるといいます。現在、自由貿易が推奨されるのはこの考えによります。自由貿易により各買い手がコストを最小化することで得られる貿易上の利益の総額と工業の島と農業の島のモデルにおいて暴利を独占する貿易商の利益は理論的には一致するのだそうです。

それだけ聞くと自由貿易は良いことと思われますが、著者は自由貿易とは一番最初に2階に上がった者がはしごを引き上げてしまう制度であるといいます。産業競争力の強い国の製品が入ってきたら国内産業は育たず後続の国が追いつくことはかないません。このとき関税があれば防波堤の役割を果たしますが自由貿易とは関税を無くすことですから。

ここで産業と商業の違いの話になります。近代には商業から産業への流れがあったといいます。17世紀のヨーロッパではオランダが栄えていました。オスマントルコが黒海沿岸の穀倉地帯を支配するようになった後、西ヨーロッパではバルト海を通じた東欧との穀物貿易の重要性が増し、これを押さえたオランダが栄えたといいます。しかし西ヨーロッパで食糧生産が増えてくるとオランダは衰退しました。

当時の世界には自動車や家電などはないし家具などの耐久材は王侯貴族や一部の富裕層を除けば何世代も同じ物を大事に使っていました。そのような時代に食糧以外に一般人にもよく売れるものが衣料で、オランダ衰退後は毛織物を特産物としたイギリスが次第に栄えるようになったといいます。イギリスは国家的に毛織物産業を保護し官民一体でヨーロッパに毛織物を売りまくり他国の毛織物産業を圧倒していきました。これは歴史的に重商主義と呼ばれます。

しかし19世紀になるとそのイギリスで自由貿易の思想が現れてきました。なぜかというとイギリスの産業はすでに世界最強になり保護の必要がなくなったからです。イギリスは産業革命により毛織物に続き綿織物でも圧倒的な競争力を持っていました。世界に自由貿易を広めればイギリスの優位は動かなくなります。例えばインドの綿織物産業はイギリスが仕掛けた自由貿易により潰されたといいます。

著者は、競争力の強い国は自由貿易を求め、弱い国は保護主義を採用するといいます。アメリカの南北戦争はイギリスに比べてまだ競争力が弱い工業を抱える北部と黒人奴隷によって強い競争力を持つ南部の綿花農業の対立だったとします。ここでも著者流の工業文明と農業文明の対立の構図を見ています。北部が南部の独立を認めなかったのはイギリス経済圏の一部だった南部を北部の原料供給地として組み入れるためだったといいます。

ここから日本の話になります。開国後の日本は生糸を輸出品として保護育成しました。しかし当初は不平等条約のせいで産業保護に必要な関税自主権がありませんでした。著者は、関税自主権の回復は軍事力を背景にしてしか行えないのが現実だといいます。関税自主権回復後は綿織物に力を入れますが欧米と競争しても勝てないので輸出市場を確保するため中国に進出したのはやむを得ない選択だといいます。

生糸は十分差別化された貿易品ですし繊維産業は当時でも技術が枯れていて労賃が安い方が有利なのではないかと思うので、市場獲得のための植民地進出は欧米との競争上の必然という見方には全く賛成できません。

20世紀初頭は経済繁栄の結果、世界経済が飽和し、各国が自国の産業の保護のためブロック経済化したといいます。ブロックから締め出されたドイツと日本が第二次世界大戦を引き起こしたことから戦後は自由貿易が良いものとされましたが、著者は自由貿易はそもそも二面性があるのだといいます。

さらに著者は、日本が重工業化したのは戦後であり戦争のおかげで技術蓄積ができたみたいなことを言っています。

この説明には流石に???ですね。新日鉄の前身はいつできたのかって話ですし、戦前も新財閥などがあって植民地にも進出してましたよね。まあ植民地支配をやむを得ないとか言ってる時点で歴史の話とかいいながら勝手な解釈に過ぎないでしょう。

話を遡って中世のイスラム世界が繁栄したのは自由貿易によるとします。メッカへの巡礼義務があるので国境管理が成立しなかった等の話をしています。しかしイスラム社会には産業がなく商業しかなかったので貿易ルートの変更で衰退したといいます。中世イスラムの自由貿易は産業と結びつかなかったから凶悪にならなかったといいます。

貿易ルートの変更は大航海時代に起因するので商業文明vs産業文明みたいな話では全くないと思います。まあ、著者は西欧やアメリカは自由貿易を武器に使った、戦前の日本も被害者だ、みたいな歴史観の持ち主なんでしょうね。それ自体が一面的な意見に過ぎないけれど憎い相手を下げるために中世イスラム社会を持ち上げる心理は、やたら「江戸時代」を持ち上げる人々の心理にも共通するものを感じます。イスラムを持ってくるのが目新しさなんでしょうが感覚的評論の域を超えるものではないと思います。

このように自由貿易は国家間の格差を固定、拡大するといいます。しかし21世紀に入って情報技術が発達すると例えばインドのように先進国の企業と途上国の企業が直接繋がれるようになります。国境が素通りされ企業の内部過程が細分化されて途上国に外注されるようになり、先進国の大企業が多国籍を超えて無国籍化することで途上国の企業も発展の機会が得られるようになったといいます。また1980年代には日本の産業ロボットが輸出されて先進国の技術優位が損なわれたとします。日本は自分で自分の首を絞めたといいます。

まずICTの効果を途上国成長の説明原理として1980年以降のNIES諸国や中国の発展を付け足しのように説明しているのは理解不能です。途上国の発展のメカニズムは自由貿易と資本の移動の自由と技術の移転がセットになることで日用品の工業生産の重心が先進国から途上国に移っていくことにあり、自由貿易こそが途上国を発展させたのです。このNIES諸国モデルが冷戦終結後に中国にも持ち込まれました。したがってICTの発展とは無関係であり、著者の説明は牽強付会に過ぎると思います。
なお途上国が先進国から工作機械を輸入するなんてことは当たり前の話であり明治の日本も技術の点ではヨーロッパの国々からとても助けてもらってます。技術の拡散を国家意思でコントロールするのが当然みたいな思考は冷戦時のココムが起源で植民地の搾取のような議論とは関係が薄いと思います。
途上国への投資機会の拡大は西側先進国の大企業の要請であり、アメリカと西欧が一貫した「国家意思」で「搾取」をしていて自由貿易はその武器だ、みたいな学生運動時代のマルクス主義史観のようなものが1980年代以降は現実の説明として全く無効化したものと考えます。むしろ先進国の資本は自由貿易を介して途上国の労働者と結託することによって先進国の労働者をスルーしたのです。技術的要素の方が付け足しでありI CTは道具に過ぎません。資本の国際的な展開の進展の方が事態としては先行しているのです。まあ、これも私の解釈なので判断はこのnoteを読んでいただいている方に委ねます。

6.ケインズ経済学とは何だったのか

ピラミッドは古代エジプトの失業対策だったという説があります。著者によるとケインズが冗談でいったことが始まりで研究が進んだようです。公共事業の経済効果について学問的な裏付けを与えたのがケインズ経済学です。

著者は、ここでポンプのモデルを示します。ポンプは油井からバケツで石油をくみ上げその石油を燃料タンクに入れます。ポンプはこれを燃料にして石油を汲み上げています。ポンプを動かすために消費する石油の量はポンプが汲み上げる石油の量と一致しているとします。そうするとこのポンプはいったん動き出すとずっと同じ量の石油を汲み上げ続けるでしょう。動いている途中に何らかの外的な理由でタンクの中の石油の量が減ってしまったとします。ポンプが汲み上げることができる石油は減ってしまった燃料と同量にまで減ってしまい自動的に元に戻ることはありません。

著者は、このポンプがケインズの考える経済のモデルであり、何らかの理由で縮小均衡に陥った経済は人間の手で石油をタンクに補充してやらなければ元に戻れないといいます。そして経済における石油とは貨幣だといいます。

政府が公共事業という形で貨幣を注ぎ込むと国民の所得が増えます。ただしポンプのモデルと違うのは消費がどれだけ増えるかは国民の貯蓄率に左右されます。貯蓄率が10%だと消費が増える効果はその年は注ぎ込んだ貨幣の90%にとどまり、翌年には81%に…というように政策の効果は年々縮小していきます。最終的に貯蓄率の逆数倍の効果になり、著者はこれを乗数効果といっています。

私の理解では乗数理論とは国民経済全体の循環過程に関する経年効果ではなく同じ年の国内での波及効果ではないかと思っていたのですが。ポンプのモデルでは産業の連関が表現できないから方便でそうしているのでしょうか。

他方、新古典派の理論だと失業が増えると賃金が下がるので、そうすると今度は企業の求人が増えて失業が解決するとされます。しかし著者は、そうなった場合、給料が減った家計は切り詰めて消費が減ってしまい経済全体では縮小均衡となってしまうといいます。

新古典派理論の問題点は、失業が解消しても縮小均衡になることより、実際には賃金が下がらず失業が解消しないこともあります。私が学生の頃に受けた講義だと失業が解消しない原因は最低賃金より賃金が下がらないからというのが標準的説明であった気がします。

国民全体が持っている購買力と購買の意思を有効需要といいます。著者は、有効需要が不足するのはお金(購買力)がないか、お金があっても貯蓄に回してしまう場合(意思の欠如)だといいます。だだし国民経済全体で言うと購買は消費だけではなく貯蓄は投資に回ることになっているので、ここでの問題は投資が消費より縮小しやすいことだといいます。そこで設備投資が何らかの理由で縮小した場合は政府が公共投資でお金をバケツに注ぎこまなければならないというのがケインズ経済学の考えだといいます。

他方著者は、大恐慌後に行われたアメリカのニューディール政策は実質的効果がなく、大恐慌を解決したのは第二次世界大戦だったといいます。軍事につぎ込まれた予算がケインズ経済学にいう公共投資に等しい効果を持ったといいます。ここで著者は、また中世イスラム社会の話を持ってきて、喜捨は消費性向の低い金持ちから消費性向の高い低所得者にお金を移動させるから貯蓄による経済の縮小の弊害を避けられたといいます。

著者は、国民経済全体でみて貯蓄率と同じかそれ以上の投資が行われることは成熟した経済では異常事態なので貯蓄それ自体が有効需要不足の根本原因だと主張しているようなのですが、理論的には貯蓄と投資のアンバランスに帰着する話なので、マクロ経済学で一般的に著者のように解釈するわけではないと思います。

さらに著者はケインズ経済学にもとづいて有効需要不足に取り組むと、結局は公共投資よりも所得移転(再分配)に向かうので、ケインズ自身にそういう志向はなかったものの必然的に福祉国家に向かったといいます。そしてこの政策は財政赤字とインフレの原因になりやすいといいます。ケインズ政策が効果を発揮するためには公共事業の財源を増税で賄ってはいけないからです。公共事業で所得が確保できても税金で持っていかれるなら消費は切り詰められるため縮小均衡から抜け出せないためです。必然的に国債=財政赤字で財源を賄うことになります。著者は、財政赤字は紙幣増刷ほど悪質ではないが広い意味で通貨膨張であり、ちょっと油断すればたちまちインフレを招いてしまうといいます。

1960年代以降はケインズ政策が西側先進国の主流になりました。著者は、ケインズ政策が恒常的になると乗数理論が覚せい剤のようにある程度の効果を保証してしまい、極端な話1人でも失業者がいれば完全雇用を目指して公共事業が行われるようになり、大して効果が上がらない割に支出が増える非効率な状態になったといいます。その結果、石油ショックが引き起こした不況に対して国債を財源にバケツに大量の資金を注ぎ込んだため慢性的なインフレになったといいます。

そうなるとアメリカ経済学界にマネタリストと呼ばれる人達が現れて自由放任を求めるようになりました。レーガン政権が誕生するとケインジアンの大きな政府と決別し、小さな政府を目指すようになりました。

他方著者は、ケインズのお膝元のイギリスでは状況が違っておりインフレを引き起こすことが好都合だったといいます。当時のイギリスは資本主義のトップを走っており、国内に余剰資金があるにも関わらず国内の企業は自己資金で投資を行い借入をあまりしなかったといいます。このためイギリスが米国債等を買い、その資金でアメリカで鉄道が建設されたりしていたといいます。イギリスが世界の工場であったときは機関車やレールがイギリス製なのでアメリカに貸した資金は工業製品の輸出としてイギリスに戻ってますがケインズの時代になるとアメリカが自前の工業力で製品を作るようになりイギリスの提供した資金はアメリカ国内でアメリカ産業を発展させながら回るだけでイギリスに戻ってこなくなります。そしてイギリスの産業はだんだん枯れて行ってしまったといいます。

投資家にとっては国内の企業がどうであっても自分の資産が増えればいいとなります。ここでインフレで誰が得をし、誰が損をするかの話を思い出すと、企業にとってインフレが望ましい状態になっていたといいます。また労働者にとってインフレ自体は望ましくないが失業が解消されるなら歓迎できるとなります。

ここで著者は、投資家と企業と労働者のうちどの2者が結びつくかで政策が動くという見解を披露します。投資家と企業が資本家とされて同一視されていた時代がアダム・スミスの時代で、これに対抗するマルクス主義は労働者の立場でした。しかしケインズの時代には資本家が投資家と企業に分裂し、企業と労働者が結びついたのがケインズ経済学だといいます。ところが労働者の生活が向上すると消費者としての面が強くなり、消費者の志向と投資家の志向が結びつくとグローバリズム、新自由主義が盛んになります。3者のうち2者が同盟するゲームの勝者が政策を主導するといいます。

ケインズがわざと恒常的インフレ状態を作ろうとしたというのはちょっと陰謀論じみた話に思われます。大恐慌の時代はデフレの脅威が問題になっていたのでそれに対応しようとしただけでしょう。経済政策をインフレ・デフレの操作としてみる見方は政策がインフレやデフレをコントロールできるという前提に立っているのでしょうがアベノミクスの「成果」を見てもそんな簡単なこととは思えません。またこの見方だとアベノミクスが企業と労働者の同盟だという話になってしまいますが、私には政府、企業、労働組合ともそんな見解に立っているようには見えなかったのですが。

7.貨幣はなぜ増殖するのか

貨幣はかつては貴金属でした。著者は紙幣が誕生したことにより貨幣の増殖が始まったといいます。まず近代的紙幣の元祖と言われるイングランド銀行が紙幣の発行を始めた経緯の説明がされます。銀行券はもともと金細工師が発行する金地金の預かり証書だったといいます。昔は治安が悪かったので安全な預け場所として金細工師が選ばれ、証書を持っていけばいつでも金地金と交換できました。金との交換が保証され業者の信用が高まると一々金に交換されることなく証書が貨幣の代わりに流通するようになりました。これが本来の銀行券です。このように民間でバラバラに発行されていた銀行券がイングランド銀行に統一されたのは国王が戦費調達の見返りとして特許状を与えたのがきっかけといいます。特許状を得てただちに他の業者の銀行券の流通が禁止されたわけではなく時間をかけて法整備が進み、次第にイングランド銀行が発行するものだけが唯一の紙幣となりました。

国家主体の戦争の都合という歴史観はかなり一面的な見方です。始まりにそういう要素もあったのは事実ですが、中央銀行制度の確立までには当時のイギリスの経済学において銀行学派と通貨学派の論争があり、これが議会での政治闘争とつながって政治的に通貨学派が勝利したという経緯があります。

ここで著者は、貨幣が価値を帯びる過程は磁石が鉄を磁化するのに似ているといいます。紙幣は金と交換できることから金という貨幣に磁化されて貨幣になったといいます。

イングランド銀行に先立ち、世界最初の紙幣といわれるモンゴル帝国が発行した紙幣(交鈔)の話がでてきます。貴金属との兌換性は重要ではなくモンゴル帝国の軍隊の力と刑罰によって流通したといいます。著者は、イングランド銀行券が永久磁石でゆっくり磁化されたとすると交鈔は軍隊という電磁石で急速に磁化されたと言えるといいます。帝国が滅ぶと電力が切れ途端に紙切れになるといいます。他方、金と兌換できるイングランド銀行の紙幣は国家権力から自立しているとも考えられます。

磁化は紙幣だけでは止まりません。預金というのも帳簿だったり現在はコンピューターの中にある記録に過ぎないのに貨幣として磁化されているといいます。磁化がどこまで進むかというと、最初の紙幣から元の量の9割の磁化ができるとして、その磁化された預金通貨がさらに9割の磁化をするというように考えます。先にあった乗数理論と同じ計算ですが磁化率が9割なら元の紙幣の10倍まで磁化できます。著者は、これを信用創造だといいます。

標準的な信用創造の説明では磁化という良く分からない比喩ではなく、銀行が預かった紙幣のうち1割を準備預金として手元において残りを貸し出すという説明になります。銀行預金自体に決済機能があり、貸出しも銀行振込みの形で行われるとします。貸し出されたお金はどこかの銀行に預金として振り込まれるので銀行部門全体でどんどん預金が増えていきます。これが標準的な信用創造の説明ですが乗数の計算は著者の説明と同じになります。

著者は、現代の銀行も又貸しにより預金貨幣を増殖しているといいます。紙の証書がコンピューターの電磁的記録に置き換わっただけで本質は同じだといいます。また現実には1銀行の話ではなく銀行界全体と多数の企業の間で信用創造が行われます。預金者がA銀行に預けた預金はA銀行の原資となってA企業に貸し出されますがこれはA企業にとってA銀行への預金となります。しかしA企業はずっと預金しているわけではありません。次の日にはA企業はB企業への原材料購入代金の決済のためB企業が指定する口座に振り込みます。この口座がB銀行にあるとします。このときA銀行からB銀行に送金されます。B企業はこれをC企業への代金決済に充てるとします。C企業の口座はC銀行にあります。そうするとお金が銀行と企業の間を巡っていることがわかると思います。しかしここで振り込まれたお金はB銀行やC銀行にとっても預金なのです。したがって各銀行はこれを原資にして別の企業に貸出しができるのです。これを無限に続けると無限に貨幣が増やせるのですが貸出しにあたっては預かった預金の1割は預金の払い出し要求に備えて準備預金として中央銀行に預けるというルールがあるとします。そうすると貸し付けできる金額は元の預金の9割です。それがさらに又貸しされると貸付額ば元の81%になります。これを続けると銀行界全体で元の預金の10倍まで貸付けができることが分かります。

このお金は預金となって銀行と企業の間を巡ります。企業間の決済があっても全体の預金総額は変わりません。このようにして増殖した貨幣をマネー・ストックといい、中央銀行が発行している紙幣(現金)よりもはるかに多いのです。現代における抽象的な貨幣の量は、紙幣の発行額ではなくマネー・ストックの総額になります。

マネー・ストックは貸付があると増え、返済されない限り減りません。世の中全体の貸付けと返済の差額で全体の預金が増減します。これに労働者への給料の振込や家計の消費支出や住宅ローンなどの家計への貸付けを含めても同じです。マネー・ストックは現金、普通預金、定期預金の合計にいくつか付随的なものを付け加えたものとされており現在の日本では日銀が細かな定義をして統計をとっています。
また銀行の機能については又貸しではなく、原資が無くても貸付けだけで貨幣を創造できるという見方もあります。信用創造の過程が動き続けている限り最初の金地金なり紙幣なりを抜いてしまっても過程は回り続けると考えられるのでそういう見方も成りたち得るでしょう。

預金が磁化されて貨幣になるとしたら預金が何かを磁化してまた貨幣に変わるということは起こらないのでしょうか。著者は、ここまでが貨幣であるという線引きは「その価値がきちんと確定した数字になっていて変動せず、他のものの価値の指標として使える」ということだといいます。預金は元本額が変動することはないですが株は1株の価値が変動します。株のようなそれ自体の価値が変動する金融資産は貨幣になれないということになります。

銀行の信用創造が社会的に容認されているのはなぜでしょうか。著者は、貨幣の量を減らそうとするなら鉄道の町のモデルのように埋めてしまえばいいが貨幣を増やしたいときにどうすればいいのかという問題があるからといいます。景気が良くなって貨幣を増やしたいとなったとします。この時、増やしたい貨幣を全部、政府や中央銀行が紙幣で印刷するというようなことは行われません。

著者は絶対健全経済なる概念を持ち出します。そこでは誰も投資せず同じ経済活動を繰り返します。成長が無いから貨幣需要も変動しません。逆に言えば経済成長というのは誰かが将来の不確実な見込みよって投資をすることから始まるといいます。景気が良いから投資しようという人はある意味、不健全だというのです。そして彼に資金を提供する銀行が又貸しという不健全な行為を行うのも経済社会がそのようなものである以上必然性があり、銀行を禁止しても商売人たちは何らかの手段を編み出してしまうでしょう。

また銀行が貸付をすることで必要な貨幣が生み出されたり景気が悪くなれば回収されたり焦げ付いたりして貨幣が減るわけなので政府が一々紙幣を刷ったり埋めたりしなくてもいいわけです。

銀行制度は当初は金本位制をとっていたのですが金本位制は創造できる貨幣の量が金の保有量に対して一定までしか増やせません。金の量は経済成長に応じて自由に増やしたりできませんから成長する経済では支払い手段としての貨幣が不足してしまいます。そうすると信用の低い代用貨幣が裏で大量発生するといいます。代用貨幣はリスクが高いので高金利と同じように働き経済成長を妨げるといいます。経済成長とは社会に流通する物の量が増えることだとすると貨幣量が一定なら物価が下がっていけばいいだけという理屈も成り立ちますが、現実には短期的にスムーズにそうした調整がなされることはないので経済成長と貨幣の間に巨大な軋轢が生じてしまうのが金本位制度の弱点だといいます。

ここで著者は、マネーの虚と実という話をします。金貨や紙幣は実のマネーであり、信用創造で増やされる預金通貨は虚のマネーだといいます。そうすると最近はやりの仮想通貨などは紙幣の代替となるものであり実のマネーだといいます。

8.ドルはなぜ国際経済に君臨したのか

著者は、第2次世界大戦後、ドルが世界全体で使われる唯一の基軸通貨になったといいます。アメリカ以外の国同士の貿易、例えば日本とタイが貿易する場合でも、円でもバーツでもなくドルが決済に使われるのです。かつてはアメリカ政府が1ドルにつき35オンスの金との交換を保証していました。著者の言葉を用いれば金により磁化されていたということです。しかし現在ではドルと金との交換は行われません。著者は、モンゴル帝国の紙幣の話を振り返り、アメリカのドルは核兵器という電磁石で磁化されているといいます。

戦後間もない日本などは外貨準備が十分でなく、好景気になって輸入が盛んになると外貨準備が不足するため景気を冷え込ませなければならなかったといいます。真の世界通貨であれば世界中央銀行が責任をもって通貨を供給しなければならないでしょうが基軸通貨はそうではなく、アメリカが慈善事業でドルを与えてくれることはないからです。周辺国がドルを蓄えるためには自国の輸入を押さえてアメリカに輸出し貿易黒字を出さなければならないといいます。

逆に言えば基軸通貨であるためにアメリカは膨大な貿易赤字を抱えなければならないのです。1960年代になると各国のドル不足は解消され、むしろアメリカの貿易赤字が原因でドル不安が起こりました。各国のドルの必要量は各国の貿易全体量で決まります。著者は、アメリカ経済が圧倒的に大きかった頃ならともかく世界経済が発展するとアメリカは貨幣という経済の血液を抜かれ続けるような状態になったといいます。一国の通貨を世界全体で使うという事には無理があるといいます。

アメリカはジレンマを抱えきれなくなり金とドルの交換を停止し、ドルと固定レートで結ばれていた各国の通貨も変動相場制に移行しました。著者は、変動相場制の方が国際貨幣の自然状態だといいます。

著者は、貨幣というものは矛盾した要求を抱えるといいます。世の中の必要に答えるためには、貨幣は勝手に増やされてはいけない一方で経済の成長に合わせて増えていかなければならないのです。

著者は、金との引換えというよりどころを失ったドルは基軸通貨の地位を失うのが自然だったのにそうはならなかったといいます。この段階でドルはモンゴル帝国の貨幣と同じように軍事力に支えられるようになったといいます。それがどんな問題を抱えていようとも基軸通貨がないよりはあった方がましであるというのが共通した見解だといいます。国際通貨のジレンマは力で抑え込むほかないといいます。またソ連が崩壊してアメリカの覇権が確立したのもレーガン政権の軍拡によるとし、強いアメリカがドルの価値を支えたといいます。アメリカの究極の軍事力が核兵器だといいます。

核兵器はソ連も持っていたし、中国なども持っています。核があるだけでアメリカが覇権を握ったわけではないし、ソ連崩壊がレーガンの軍拡の成果だという見方もありますが、ソ連自体が内部矛盾を抑えきれず自壊したという見方もあるでしょう。私には結果論から牽強付会に結論を逆算しているように思われます。
国際的に商取引が行われる以上、通貨は必要であり、かつ統一されていた方が便利です。ドル基軸体制は戦後に政治的に作られたものですが、それを支える仕組みが放棄されたからといって急に基軸通貨を無くしてしまうのは周辺国にとっても合理的ではありません。代わりのものが現れるまで問題があってもドルを使おうというのはむしろ周辺国の要望なのであって、アメリカが力で押さえつけて無価値なものを無理やり使わせているわけではないのです。

しかし著者は、コンピューターネットワークが発展するとこれが核兵器の力を上回って状況が変化しているといいます。先に貿易の話で持ち出したICTで自国の業務を細分化して外国に出している云々の話から核兵器で他国を脅しても思わぬ形で自国に被害が及ぶ可能性が高まり脅しの力が弱まるといいます。円が安全通貨として買われたりする現象も核兵器の力の弱まりの現れだといいます。核兵器の力が弱まっても基軸通貨を支えているのは慣性質量の大きさだといいます。

この辺りになると技術論でも経済論でもないです。核兵器とコンピュータの関係にしても感覚的評論に過ぎないし、慣性質量というのも評価を含む比喩表現に過ぎません。著者は、ドルという実体価値のないものが力で押しつけられ、また力が弱まっても不自然に使われ続けているという見方をしたいのでしょうが、私はそれには与しません。貨幣なんてどの国の貨幣でも、金(ゴールド)であったとしても本来的に実体的価値のないものだし、使う側にとって便利だから好まれているという側面の方が大きいと思うからです。

また中世イスラムの貨幣制度を持ち上げたりした後、イギリスの地位がゆらいだ原因として、イギリスがアメリカとの間で貿易赤字を抱えるようになり、それは金本位制の下ではイギリスからアメリカへの金(ゴールド)の移動になるのでアメリカに金がたまることになった点を上げます。

ここで金本位制における貿易収支の回復のメカニズムの説明がなされます。金本位制では貿易赤字があると赤字国から黒字国に金(ゴールド)が移転しますがどちらの国も金本位制なら赤字国は貨幣が減って物価が下がり、黒字国は貨幣が増えて物価が上がります。貿易は価格差で動くという原理により赤字国の競争力が増して輸出が増え収支均衡に戻っていくことになります。このメカニズムを信じるのがアダム・スミス以来の古典派、新古典派であり、信じないのがケインズだといいます。アメリカでは歴史的に金本位制への愛好が強く、戦後ブレトン・ウッズ体制を作ったのですが、金本位制の理論的メカニズムは上手く働きませんでした。

著者は、この理論が上手く機能しないのは、赤字国が価格面で有利になっても輸出を増やすには原材料の輸入などの投資に貨幣が必要となるが、金の流出で貨幣が不足し投資ができなくなる点にあるといいます(ケインズ政策の解説にあった縮小均衡と本質的に同じメカニズムです。)。ブレトン・ウッズ会議でケインズが人為的に増やせる国際通貨「バンコール」を提唱したが受け入れられなかったそうです。

9.仮想通貨とブロックチェーン

この章では仮想通貨の技術的説明もしていますがその辺りはバッサリと割愛し、著者の結論だけいうとブロックチェーンには中・小型機タイプと大型機タイプがあるといいます。中・小型機タイプでは完全な分散意思決定ではなく参加者に関係性のある特定の範囲にとどまります。大型機タイプは完全分散処理で誰でも参加できる代わりに運営には柔軟性がなくなります。ビットコインは大型機タイプです。大型機タイプでは絶対に勝手に増やせないという性質は実現できます。これはデジタルで金(ゴールド)を作るものであり、それゆえビットコインは実の貨幣として金本位制と同じ弱点を持つことになります。このためビットコインが現在の通貨にとって代わることは難しいといえます。また誰でも参加できるシステムを動かすためマイニングといった大掛かりな仕掛けを持っていますがこれはある種の非効率性を生み出しています。

10.資本主義の将来はどこへ向かうのか

最近100年の石油の使用量をみると指数関数的に伸びており1970年代には資源の枯渇が予測されていましたがその後は石油使用量はそれほど伸びず現在では石油はむしろダブついているくらいです。

著者は資本主義的には縮退のメカニズムがあるといいます。縮退には作用マトリクスという数学を使うそうですが本書ではその解説はされず図が示されますので引用します。

画像1

まずAの状態があります。複雑な相互作用で各要素の均衡が保たれています。その均衡が崩れると特定の2要素間の相互作用が強まり他の要素は縮小します。これがBの状態であり著者のいう縮退です。

著者は、経済が縮退した状態とは超巨大業と超巨大機関投資家の2者だけで経済が回り末端には資金が回らなくなるような状態だといいます。著者は、偶然Aの状態が成立することは難しくて希少だといいます。Aの状態では多数の相互作用を互いに矛盾しない適正値にセットしなければならず、絶妙な組み合わせになるパターンは1通りか2通りしかありませんが、Bの状態はメインの2つ以外はランダムでいいので何千通りものパターンがあるからだそうです。縮退した状態も安定的であるので縮退してしまうとAの状態に戻らないといいます。

著者は、経済が縮退する過程で金銭的な富が引き出されているといいます。現代の超大企業は中小企業を絶滅させることで巨額の富をえているのだそうです。また家族の一家団らんがあった時代はテレビは茶の間に1台あれば十分でした。しかし家族がバラバラになってくると1人1部屋に1台のテレビが置かれテレビの売上が伸びます。これは家族関係が個人主義に縮退する過程で富が引き出されたのだといいます。

著者は、縮退が富を引き出す過程を水力発電の比喩で説明します。高い位置にあった水が落下し位置エネルギーを失う過程から電力が引き出されます。水は高きから低きに流れるものなので高い場所にあることは希少で、低い場所に移れば自然に高い場所に戻ることはないのです。物理学ではエントロピー増大の法則といって希少性が高い状態から低い状態に移行した場合はエネルギーを加えない限り元には戻せません。他方、エントロピーが増大する過程からエネルギーを引き出すことができるのです。石油などの火力発電でも原理は同じで石油というものは燃やされた後にできる水と二酸化炭素より希少性が高いのです。

著者は、人間の理想ともいうべき長期的願望と欲望ともいうべき短期的願望の間にも縮退があるといいます。長期的願望とは例えば健康のために禁煙しようというようなことで、短期的願望とはついタバコに手を伸ばしてしまうことだといいます。町の商店街がコンビニにとって変わるのもあらゆる情報がスマホに収まっていくのも短期的願望が長期的願望を駆逐しているのだといいます。人々の短期的願望にどんどん応えることによって富が引き出されます。単に巨大企業自体が活発化しているというより昔の時代からの伝統や習慣で長期的に整っていた社会生活のシステムが壊れて縮退していく過程で富が生まれているといいます。また著者は、近年石油の消費量が伸びなくなったのは縮退の主体が金融に移行したからと考えているようです。

著者の言を敷衍すれば、例えば洗濯機や冷蔵庫や電子レンジなどは人々の短期的願望に働きかけて普及し、家庭という良き伝統を破壊し社会を縮退させるが故に企業が儲かったという話になりかねないです。著者は、資本主義が家族という伝統の知恵が詰まった希少で良きものをぶっ壊して個人主義という縮退した悪いものに置き換えることにより企業が利益を得たと言いたいのでしょうか。
また著者は、石油の消費量がある時期から経済成長ほどは伸びなくなったことも縮退から富を引き出す資本主義の在り方に帰着しようとしますが牽強付会に過ぎると思います。豊かになった人々の需要の変化に対して産業技術が適応発展したと考えるだけで足りる話です。
ちなみに著者は、延命治療をスパゲティ症候群などと呼びこのようなものまでも縮退の一形態だなどと言っているのですが、これは私にはとても容認できない思想なので要約からは割愛しました。

著者は、縮退は放っておいても元に戻らないと言い、その戻らなくなった状態を「コラプサー」と呼んでいます。

著者は、現在の日本の政治状況を引き合いに出し「乱立は一強を招く」といいます。多様化を尊重すると逆に働くといい、多様化は短期的願望だといいます。泡沫的な多様性が増しても全体として縮退が進行するといいます。また「ごみ」も縮退が生み出すといいます。ネイティブ・アメリカンの社会にはごみがなかったが白人は社会をごみだらけにしたとか地球環境の問題も縮退やコラプサー化に帰着するといいます。

多様性自体が人権などの普遍的価値に関わる場合もあるので多様化イコール短期的願望という一面的な整理はどうなんでしょうか。多様化が短期的願望である場合も長期的願望である場合もあるでしょう。これを否定するなら長期的願望とは民族や国家意思などの超越的主体に個を同一化せよという話になりかねない危険性を生じるのではないでしょうか。

著者は、1990年代の世界経済において1日の投機取引が1兆ドルで貿易取引が130億ドルだったことを引き合いに出し、マネーが狭い金融の領域だけで回るようになったといいます。これを1強型のコラプサー化とみているようです。狭い領域ではマネーの回転速度が速くなるといいます(ひょっとすると角運動量保存則の比喩で言っているのかもしれませんが著作中にはそういう説明はないです。)。為替レートはかつては購買力平価で決まると思われていましたが現在では相対金利差で決まるようになっています。著者は、投資家等にとって購買力は重要ではなくマネーが一時的に置かれる国の金利だけが重要で、いわば鉄道で直結されたホテル(滞在している間、金利が付く)の中をお金がぐるぐる回っているだけなのだといいます。

著者がこれまでに戦争の比喩で説明した経済モデルでは鉄道なり血液なりに例えられたマネーの動きはあくまで実体経済のための補給だったはずなのにいつの間にか鉄道の方が主になってしまったといい、健全な常識からすれば狂気だといいます。

著者は、こんなことになってしまったのは部分の総和が全体に一致するという誤った仮定のせいだといいます。短期的願望を集めたら長期的願望に一致するということが教義となっていたといいます。しかし両者は同じではなく全体意思(短期的願望の総和)が社会を覆い、一般意志(万人に共通する長期的願望)が縮退したといいます。

著者は、短期的願望にはお金などが欲しいという願望だけでなく楽をしたいという願望があり、むしろそちらの方が強いといいます。もし健康を害さない麻薬が開発され、麻薬漬けになって仮想世界で生きるのが幸せだというなら究極のコラプサー化になるといいます。高度な文明とはエネルギーや情報を大量に消費する社会ではなく、社会のコラプサー化を阻止する制度などの体系(イスラムのような)こそが高度な文明というべきだといいます。

ここで著者は、コラプサーというのはブラックホールの前段階を表す言葉で恒星の温度調節機能が麻痺して際限なく熱が内部に溜まってしまう状態を表す天文学の用語だといいます。また古代ローマ時代の政体循環論を持ち出し古代人は縮退の原理を理解していたとし、西洋文明が縮退を考慮しなくなったのは天文学(機械論的な科学ということでしょうか。)の影響だという見方を示します。また古代ローマや中世西洋史を持ち出し戦争が縮退状態を回復させるといいます。しかし蛮族ではだめで蛮族がローマに侵入しても地中海の商業ネットワークに飲み込まれて縮退してしまうのでイスラムの台頭が必要だったといいます。逆に周囲に文明の敵がいない中国では社会は皇帝一強という形に縮退する一方だったとします。

核兵器の抑止力により大戦争が起きない現代で縮退からどうやって回復するかというのが著者の問題意識だそうです。ここで著者は、幸福は物を手に入れた後ではなく、手に入れる前の可能性の中にこそあるといいます。そのためには人間が想像力を持つことが必要だが縮退したアメリカ文明では想像力すらメディアから与えられ、果ては麻薬で想像力の空虚を満たすといいます。

そこで想像力の余地を呼吸口という比喩で表現し、囲碁において活路がある状態に喩えます。その次は囲碁の比喩を用いたまま人間関係のジョイントを論じます。碁石の配置図の比喩をもって垂直のジョイントと水平のジョイントの違いを論じます。垂直とは神、独裁者、カリスマとのつながりです。水平方向では反発力が働いて結合しないといいます。そこで縮退を止めるには「高い山」を作ることが必要になり、人間社会においては「大きな物語」が高い山の役割を持ちうるといいます。しかし民族主義程度のことでは金融の力に対抗し得ないといいます。

これまでの経済学は縮退を考慮していなかったので、今後は縮退した時に経済の「高度」のバランスを修正できる力学的理論が必要だといいます。そもそも縮退を完全になくすことはできないし短期的欲望が社会を発展させることもあるから縮退を無くすのではなくコントロールすべきということのようです。

11.雑感

マクロ経済学を本格的に勉強するつもりはないけど基本的な部分を知りたいということであれば資金循環から説明するというのは良いアイデアだと思いますし既存の経済学理論の説明の部分は直感的に分かりやすく書かれていると思います。しかし著者個人の経済史論が分離できない形で入り込んでいるので経済学を勉強したい人は普通の入門書から読んだ方がいいでしょうね。

著者の経済史観の各論部分で賛同しかねる点は既に要約に合わせて書き込んであります。全体として著者は、アメリカニズムを退廃としこれを憎んでいるように見えます。また資本主義の限界といったヨーロッパのおしゃれ知識人が言いそうな問題意識を当然に持っているようです。その辺が共感できない人(私もそうですが。)が読むと反感を覚えるかもしれません。この手の話をする方々はマルクス・レーニン主義の帝国主義論が世界史理解の下敷きになっていて思想的に反共であってもその枠組みを前提として異なる解釈を述べるという仕方で下敷きにしてるのではないかという気がします。

産業を英語でindustryといいます。industriousは勤勉という意味で使われます。これは私には産業というのは著者のいう短期的願望の象徴のような物ではないことを示すものと思われます。日本人の美徳といわれる勤勉、誠実というのは日本古来の伝統文化ではなく明治以降に作られた(江戸時代にも芽はあったでしょうが。)面が大きいのではないかと感じています。私の感覚では商業の方が短期的に人を騙そうとする傾向が強いと思います。アラブの商人というと法外なふっかけをするという印象があります。他方、産業というのは長期的な投資計画に基づいて薄利多売を旨とするのでむしろ長期的願望が育つ場となる面もあると思うのですがいかがでしょうか。

したがってアメリカニズムを下げるために中世イスラムを持ち上げるのには違和感しか感じませんでした。世界全体で見ても中世より現代の方が住んでいて住みやすいでしょう。もちろん現代社会にも無数の偽善がありますがそれでも中世イスラム社会の方が今より良かったという感覚が一般的に共感されるとは思えません。近代社会は戦争で人類史上かつてない被害を出しましたがそれは人口が飛躍的に増えたからです。古代史をみれば世界各地で1つの社会の人口の半分以上が失われる事件や文明が丸ごと滅ぶことすらあったのです。

近代とか産業主義というのは科学技術の発展に起因する生産力と人口の飛躍的増大という事態を抜きにしては語れないはずですが著者の経済史観にその話が全く出てこないことにも違和感があります。経済には国家や政治を超えてしまうダイナミズムがあり、産業革命以降の歴史では政治が経済を動かす度合いより経済が政治を動かす度合いの方がトータルで勝っていると思います。もちろん歴史が一直線に進化するわけではなくその時期ごとに様々な思想を持つ人々の政治闘争によって現実の政治が動くわけですし、国家間の覇権争いも現実にあったことでしょう。しかしこの世界にそんな状況を造り出した根本原因はテクノロジーの発展とその伝播だったのではないでしょうか。

本書の最終章に書かれる縮退に関する説は著者独自の説であって経済学の学説ではありません。経済というのは複雑系のシステムなので部分の総和が全体を意味しない点は私も同感です。しかし、作用マトリクスというのがどういうものか良く分からないので著者の理論の良し悪しは判別できないのですが、印象としては雑多な社会現象を縮退というキーワードで処理しようとしているようであり、そうであれば1つの数学モデルでそんなに応用が効くものかどうかという疑問が浮かびます。そもそも著者のいう縮退が数理モデル化できる単一の経済現象なのかも不明です。

私は資本主義の悪徳は産業や技術に起因するのではなく商業に起因するのではないかとみています。商取引とは共同体を超えて取引を行うことに起因し古代からありました。複数の古代国家または国家領域内のコミュニティを相手にする独立した集団が商人であって本質的に利己主義です。情報を独占、支配して相手からふんだくるのが基本だからです。社会階層が分化すると都市の中に商人階層ができますが行動原理は同じです。もちろん力が強く継続取引をしている相手は贔屓にします。贔屓というのはまさに縮退であって、縮退という概念を用いるならあらゆる縮退の根源は商業にあると思います。商業はコミュニティを離脱した境界で初めて成立するものだし、あらゆる良き伝統や道徳はコミュニティに根ざすものだからです。

他方、現代社会の問題の根源は、資本主義の問題というよりは種々の地縁・血縁コミュニティが消失していく過程にあるということだと思います。ただし資本主義に壊されてコミュニティが消失するわけではなく、必要が無くなったからなくなるだけなのです。テクノロジーが未発達で貧しい社会では生きていくだけでも助け合いが必要ですが、テクノロジーが発達して豊かになると経済上の助け合いは必要なくなるからです。

コミュニティが消失すると個人の生活のあらゆる面に商取引が入り込んできます。著者はこれを縮退とみるのですが私は豊かさの論理的帰結だと思います。現代の政治の混迷も不可避に進行するコミュニティの消失という過程に対して能動的に上手い対応方策を提示できていないことにあるのではないでしょうか。私には縮退というものが少数のパラメーターでコントロールできるような単純な経済現象とは思えません。また現状を変えていくのは戦争ではなくテクノロジーのさらなる発展でしょう。

著者の理論では、経済内的には縮退が進行する一方なので縮退前の良い状態は政治的意図で作られたという話にならざるを得ないし政治の究極として戦争を持ち出すことになるのでしょうが、私は経済は複雑系のシステムなのでテクノロジーの進歩のような擾乱を加えれば初期の自己組織化によって多様性が自発的に生まれると思うのです。もちろんテクノロジーの可能性がある程度汲みつくされると縮退というかシステムの集約整理が進むことになりますがそれも含めてシステム内的な動態であると思います。逆に言えばテクノロジーの連続的発展があれば資本主義は自走し続けることができるのです。これまでの発展の原理もまさにそうであり、社会の縮退から富を引き出したのではなくテクノロジーが社会に今までなかった富を生み出したことこそが資本主義の発展の本質だと思っています。

ただし、あらゆる問題をテクノロジーが解決できるという楽観論を述べるつもりはなく、新たな状況において様々な思想を持った人々が健全な政治闘争を経て社会に新たな安定をもたらすことのできる法律の整備をしていくことも必要になるでしょう。

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