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僕が裁判を傍聴するようになった理由

 仕事柄、平日が休みになることが多いので僕はよく裁判所に傍聴に行きます。その中で印象に残った裁判をnoteにコラムとして記録していこうと思いますが、そもそもなぜ僕が裁判傍聴にハマったかということを自己紹介に代えて記したいと思います。同時に、少し興味はあるけれど、まだ傍聴をしたことがないという方に、事前の知識やルールなど少しでも参考になるような記事も書いていければと思います。


裁判傍聴との出会い

 僕が裁判傍聴に初めて行ったのは確か7年ほど前になると思いますが、当時付き合っていた彼女が法廷画(裁判のニュースなどに出てくる法廷内を描いた絵)を描いていて、その事も付き合ってしばらく経ってから知ったのだけれど、それが彼女の職業というわけではなく趣味で裁判所に通い、その様子を絵に描いているとのこと。

 「裁判傍聴」という言葉は知っていたけれど、人が裁かれている様を当事者の家族や知人でもないまったくの第三者が覗き見に行くという違和感というか申し訳なさというか罪悪感というか、うまく表現できないがその類の感情で敬遠していて、「今日はよく晴れたのでちょっと傍聴にでも行こうかな」という感覚は持ち合わせていませんでした。

 彼女との共通の趣味は飲み歩きや旅行くらいしかなく、いい機会だと思い裁判所についていくことにしたというのが僕が傍聴を始めるきっかけでした。

 今思えばその時はまさに「今日はよく晴れたのでちょっと傍聴にでも行こうかな」というノリでついて行ってしまったのだと思いますが、心中はそこまで気楽なものではなく、これから裁かれる赤の他人を背後から覗きに行くという緊張感がありました。もちろん被告人の親族や被害者の関係者も同じ傍聴人席の空間にいるだろう事を考えると、冷やかしに来ていると思われるんじゃないかという気まずい感情もありました。

傍聴席には被害者や被告の家族がいることも

 少し話は逸れますが、実際に傍聴人席には、被告人の家族や親、被害者の関係者がいることも少なくなく、証人として裁判所に呼ばれた関係者も証言台に立つまでの間は傍聴人席に座っています。詳しくは今後記事として書いていこうと思いますが、痴漢で起訴された若い新婚男性の妻が傍聴人席にいることもありましたし、万引きを繰り返して捕まった若い女性の母親がいることもあります。暴力団関連の裁判の場合は組員が大勢傍聴人席に詰めかけていることも珍しいことではありません。

 関係者から注がれる「面白がって冷やかしできてんじゃねーよ感」満載の視線を痛いほど感じるそのような環境の中で平然と法廷画を描き続ける彼女のメンタルには、被り物禁止の法廷内で文字通り脱帽したものでした。ちなみに被告人が保釈されている場合には、帰りのエレベーターで偶然被告人と一緒になってしまうことがあるので相当気まずい時間が過ごせます。

 そんなこともまだ知らない僕はノリで彼女にくっついて初めての裁判傍聴の為に東京地方裁判所に足を踏み入れたのでした。

ドラマやゲームでの描かれ方とは違う実際の裁判

 いくつかの刑事事件の裁判を傍聴して感じたのは、実際の裁判はドラマやゲームで見るものとは大きく違う点がたくさんあるということ。全く違うと思う方もいるかもしれません。これについても後日詳しく記事に書く予定ですが、例えば傍聴席からヤジが飛ばされることはほぼありませんし、検察と被告の弁護士が声を荒げて喧嘩するようなこともありません。

僕が裁判傍聴をするようになったひとつめの理由

 そしてここからが僕が裁判傍聴に通うようになった理由なのですが、ざっくり挙げると二つあります。まず一つ目は、裁判(法廷)は正義を争うものではなく、法や前例と照らし合わせて有罪か無罪かを判断し、有罪ならばどのくらいの量刑を課すことが妥当なのかを審理する場ということ。その過程や流れがとても興味深いと思ったからです。

 これは表現に語弊がるかもしれませんが、裁判が正義を無視しているわけではなく、入り込む余地がないとまでは言いませんが、感情で有罪無罪や量刑が決まるものではないということ。もちろん罪を犯したのであればそれを償うべきではありますが、裁判は「推定無罪の原則」というものがあり、要するに「怪しきは罰せず」ということなのですが、裁判で有罪が確定するまでは無罪であり、検察が有罪に足りうるだけの証拠を集められなければ、どんなにその罪人(と思われる人)が怪しくても犯罪者として扱われないという原則に則って裁かれるというものです。もちろんその結果、正義が勝てればいいよねということになります。あくまで裁判所(裁判官)は冷静です。

 刑事裁判では起訴されて裁判になれば、無罪になることはほぼなく(有罪率は99.9%といわれています)、その多くは量刑をなるべく軽くするために被告側の弁護人が情状証人等を使い奮闘するという流れが多いです。

 感情のみに左右されず、事件そのものを見て判断するという裁判の仕組みに僕は興味を持ちました。

裁判員裁判にもし選ばれたら…。

 現在は裁判員裁判も行われていて、自分にその役目が来ることもあるかもしれません。可能性は低いとは思いますが、もしそうなった時、「あの人は人相が悪いからきっと殺(や)っている、死刑!」というように、人の命を裁く上で見た目や感情、先入観だけに任せて審理をするということがあってはならないと思います。裁判では、法廷ではどのようなことが行われているのか、人を裁くとはどういうことなのか、ジャッジする根拠や基準とは何なのか。それらを少しでも勉強しておく、裁判というものに触れておきたいという思いで傍聴を始めたのがひとつ目。

僕が裁判傍聴をするようになった二つ目の理由

 もう一つの理由は、法廷での被告人、一人一人に様々な事情や人間模様があるということです。これも詳しい事件(裁判)ごとの内容は今後記事にしていこうと思いますが、例えばクレプトマニア(盗癖)という病気で万引きを繰り返してしまう主婦だったり、痴漢現場に落としてしまった、転職祝いに奥様からプレゼントされた腕時計を取りに帰って逮捕された男性だったり、生活の為に怪しいおっさんから100円で仕入れたエロDVDを早朝の公園で200円で売っていたおっさんだったり、小さな事件にもいろいろな人間模様があり、中にはやむを得ない事情で犯してしまう罪もあります(止むに止まれぬ事情があれば罪を犯していいと言っているわけではありません)。

 法廷には私たちが座る傍聴席と、被告人席や証言台の間は柵で仕切られています。云わば日常と非日常の境界線、此岸と彼岸を分ける三途の川がその柵なのです。前述したように、まだ裁判の時点では被告人が有罪と決定したわけではないので柵の向こう側を彼岸と表現するのはいささか乱暴ではありますが、低い柵を挟んだその向こう側には明らかに日常とは違う光景や空気があります。

 しかし、裁判の中で被告人の生い立ちやその時の状況等を聞いていると、もし自分がこの被告と同じ境遇だったら、罪を犯さずに済んだのだろうか、と思うことが度々あります。

もし自分が被告人と同じ境遇だったら…。

 例えば「覚せい剤で逮捕された被告が、同類の前科があったので執行猶予がつかず実刑を食らった。」と新聞に掲載されていても、「何度も何度もクスリやってんじゃねーよ」くらいにしか感じないと思うが、実際の法廷では
冒頭に検察が被告人の現住所や学歴、職歴、前科、前歴、犯行時の場所や行動、生い立ちに至るまでの資料を読み上げます。被告と同条件の人生を歩んでいたら、絶対に罪を犯さないと言い切れるだろうか。自分も柵の向こう側にいた可能性もあるのかもしれないと、怖さを感じることがあります。傍聴席と証言台を隔てている低い柵は、普段は日常と非日常を分かつ分厚い壁に感じるが、ふとしたきっかけで見えなくなってしまうような曖昧な境界線だと感じることがよくあります。ある時、簡単に渡れてしまうように見えたその境界線を越えて被告人席に座るようなことにならないよう、日々生きていこうと思う今日この頃です。

 少し長くなりましたが、以上が僕が裁判傍聴に通うようになった理由です。阿曽山大噴火氏のように通勤定期で通うほどは行けませんが、これからも暇を見つけて裁判所に通い、その中で繰り広げられる人間模様や、審理、判決を通して自分の暮らしの中で活かせたらいいなと思います。

ーーー追記ーーー

 今回の記事は刑事裁判の、さらに言うと毎日新件が行われ、次回期日には判決が出るような小さな事件について書いています。なぜなら僕は普段ほとんど刑事裁判しか傍聴しませんし、その中でも殺人事件や、双方の言い分が拗れていて何回も審理を重ねるものもよほど興味がない限りは追いかけません。ですので上記の内容は大きな刑事裁判や民事裁判には当てはまらない点も多い思います。理由については今後書くこともあるかもしれませんが、忘れるかもしれません。


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