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熱量は話術じゃ埋められない


自分のことを、いわゆる“オタク”的な人間だと思っている。
物事に対する、極所的な熱中の仕方は“オタク”のそれに他ならないなと。

たまたま、ラノベや萌え系のアニメ、アイドル(今は日向坂が好きだが)に熱中しなかっただけで、自分の好きな漫画や深夜ラジオ、お笑い、陸上競技やMCバトルに対する熱の注ぎ方が“オタク”なのだと思う。


さっきから“オタク”という単語を用いているが、私にとっての“オタク”とはあるジャンルに対する局所的な熱中を指すと思っているし、勝手にそういった定義づけで話をさせていただきたい。




私感ではあるのだが、オタクってやつは自分がオタクなジャンルに関して、オタクでない人間と話すのに向いていないとつくづく感じることがある。
私で言うと、好きな深夜ラジオをリスナーでない人間に対して話すと、とんでもない不協和音を感じざるを得ない。どこかギコチなく、うまく話しが進まず、お互いにむず痒い時間が流れる。

逆の立場もまたしかりだ。相手の熱中するジャンルで自分は興味のない分野の話をされるとき、うまく会話を盛り上げることはできない。
話してる相手には興味があるし、相手の好きなことを知りたい気持ちもあるのだが、相手がグルーヴしない感じが申し訳ないように感じてしまう。

私自身にトーク力がないと言われてしまうとそれまでなのかもしれないが、ただ私は熱量は話術じゃ埋められないと思っている。
熱量に唯一、真正面から太刀打ちできるのは熱量以外に存在しないのだと。
オタクの気持ちをグルーヴさすことができるのは、同じ熱量を持つオタクしかいないのだ。

熱量ってやつは、それだけ特異なもので、偽造できないし代替できないのだ。

だからこそ、オタクはオタクを集めた独自のコミュニティを形成するのだろう。



何故、この内容の文章を今回記したかというと、私自身にいわゆるオタクの仲間がいないからだ。
重複になってしまうが、私のオタクなジャンルは漫画や深夜ラジオ、お笑い、陸上競技やMCバトルなのだが、これらのジャンルで同じ熱量を持つ知人がいないのだ、一人もだ。

なにを隠そう、これが非常に悲しい。
悲しさゆえに、友人をオタクの沼に引きずりこもうとしたが、失敗に終わってしまった、何故なら熱量は話術ではどうにもならないからだ。



今この瞬間、「なんでも欲しいものが手に入る」と言われたら、私が願うものは二択になるだろう。
オタクの友人か、熱量を上回る話術か、だ。




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