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覚醒前夜

                            風海 想詞郎


***

 スタジアムは勝利の熱気に包まれていた。選手たちのロッカールームも例に漏れず、勝利後の良い雰囲気が流れていた。
 その中で、義明は一人複雑な心境でいた。勝ったことはもちろんいいことだ。しかし個人としては物足りない、このままではいけない気がする……。


 義明は今日の試合、リードした展開で8回からレフトの守備固めとして出場し、義明が打席に立つことなく試合は終了した。
 義明は大卒でプロ野球団、広島トラウトに入団し今年で二年目になる。一年目はケガで出遅れたが、シーズン後半で一軍に昇格し、俊足を武器に守備や走塁で存在感を示した。ブレイクを狙う今年は、シーズン序盤から一軍にこそ定着はしているものの、出場の大半は代走や守備固めで、本来売り出したい打撃の機会になかなか恵まれずにいた。
 義明には自信があった。自分はたくさん打席に立つことで打撃が良くなっていく。スタメンで出してもらえれば、率を残せる。自分が塁に出ることで相手バッテリーを消耗させることもできる、と。
 自分はもっとできる。けれど、チャンスが来ない。打撃ではベンチに信頼してもらえてない。
 そのことが悔しくて、義明はロッカーの自席に座り、唇を噛んでいた。


「おや、ヨシ。浮かない顔をしてどうしたんだい?」
 悔しさのせいか、ずっと座り込んでなかなか引き上げない義明に声をかけたのは、チームメイトのグラッド・エルグランドだった。グラッドは今年で入団五年目になる助っ人外国人野手で、主砲としてトラウト打線を牽引している。優しい性格や気迫あるプレーから義明ら若手に慕われ、チームメイトやファンから愛されている。
「ああグラッド、俺浮かない顔してた?」
 首脳陣への不満はチームの士気を下げる。入団してまだ二年目の若手の義明が抱くものなど尚更だ。
 義明は咄嗟に口元を緩め、グラッドに笑顔を向ける。
「悩んでるように見えたけど、大丈夫かい?」
「えっと、うん……」
 義明はさらに笑顔を作ろうとしたが、微妙にひきつってしまった。
「その顔は何かあるね。ヨゥシ、グラッドがお好み焼きをおごってあげよう。本通の方に、我が家の行きつけの店があるんだ」
「え? グラッド……?」
「トラウトの未来のリードオフマンの悩み、グラッドが斬ってあげるよ」
「いや、でも明日もあるし……」
「イコイコ、ハヤクハヤク」
 取り繕うとした義明を意に介さず、グラッドは義明の背中を軽く叩き、ロッカールームを出ようとしていた。
 義明は慌てて荷物をまとめ、グラッドに続いた。


***

 グラッドの行きつけのお好み焼き屋に二人が着くと、グラッドは「テンチョ―、イカソバモチソバヒトツズツ」と注文した。その慣れた様と親し気な店長の態度に、本当に行きつけなんだな、と義明は思った。それにしても。
「すごかったね、グラッドへの出待ち」
 スタジアムを出た時、グラッドを出待ちする多くのファンがいた。出待ち自体はプロ野球ではよくあるが、義明が驚いたのは一人一人のファンに丁寧に対応していることだ。
「今日は多かったね、ありがたいよ、本当に」
「試合前ならともかく試合後の対応って、軽く会釈してさらっと通っちゃうものでしょ。あんなに丁寧に対応する選手初めて見たよ」
「ファンへの感謝を直接伝えられる機会だからね。これでも足りないくらいさ。スタジアムのお客さん全員に直接伝えたいね」
 シーズン中の疲れている試合後でもファンサービスを怠らないグラッドの人間性。それは義明がグラッドを尊敬する理由の一つだった。
「ヨシのユニフォームを着ている人もいたね」
「ああ、うん。嬉しかった」
「きっと素晴らしい野球観の持ち主だよ。ヨシは将来トラウトを背負って立つ男だからね」
「うん……」
 義明の表情が少し曇った。
グラッドはこのように言ってくれるが、このままスタメンになれなければ、自分はここから上に行けない。大卒は即戦力として求められる。今の実績はまだまだ足りない。
「また暗い顔をしている。どうしたんだ? まさか、僕の言葉が、プレッシャーになってしまってるかい?」
「いや、違うんだ。グラッドにはそう言ってもらって、いつも励まされてる。だけど……」
「ダケド?」
「このままじゃダメだなって……。このままの代走と守備固め要員だと上のレベルに行けないなって……。打席に立てば塁に出る自信はあるし、塁に出れば足も生かせる。スタメンで使ってもらえれば、先発をかき回して消耗させられる」
 グラッドはウンウンと頷きながら聞いていた。
「あ、もちろん使ってもらえるだけありがたいんだけど……それに他の代走や守備固めやってる人に失礼かもしれない。もちろん、グラッドはじめスタメンの先輩たちに敵わないのも分かってる。でもやっぱり、野手である以上スタメンは狙っていきたくて……」
「失礼じゃないさ、野手なら当然だ」
「うん、それで現状とのギャップが悔しくて焦ってた……」
「なるほどね。よく分かった」
 グラッドは腕を組み大きく頷いた。
「僕も思うことがあるから、ヨシの焦りを断ち切りたいのが山々だけど……」
「はいグラッド、おまちどおさま」
 グラッドと仲の良い店長がお好み焼きを運んできた。
「アリガトテンチョ―」
 グラッドは店長にそう言うと、義明に向き直った。
「ヨシ、悩みは三つの方法で解決される。一つ目に打ち明けること、二つ目は芸術に触れること、三つ目は食べること、だ。サ、クエクエ」
英語と日本語を交えながら、グラッドは茶目っ気のある笑顔を見せた。
 二人はお好み焼きをつつき始めた。


 二人の野球選手はあっという間にお好み焼きを食べ尽くした。
「美味しいだろう? ここのお好み焼きは」
「うん。驚いた」
「ウチの娘も『ウマイウマイ』といって一皿平らげてしまうんだ。まだ小学三年生だぞ」
「はは、さすがグラッドの子だ」
「ここのお店は集めている素材がよくて店長も真面目で性格が良いんだ。やっぱり、持っているものと取り組む姿勢がマッチすると良いものができるのは、野球もお好み焼きも同じだね……」
 グラッドは意味ありげに表情を緩め、息を吐いた。
 持っているものと取り組む姿勢。
 強力なパワーあふれるバッティングに加え、守備や走塁にも全力プレーのグラッド。
 義明は考える。
 自分が持っているもの。バットコントロール。選球眼。走塁。肩。守備範囲の広さ。
 姿勢。……どうだろう。グラッドのように、走塁に守備に全てを出せていると胸を張って言えるだろうか。
「ヨシの葛藤を聞いて、僕も思い出したよ。僕の――何もかもうまく行かず、空回りばかりしていたころ」
「グラッドにもそういう時期があったの……?」
「そりゃああるさ。誰にだってあるだろう。3Aでもメジャーでも日本でも、最初は散々醜態をさらしたさ。ヨシ、まず初めに僕自身の話を聞いてもらってもいいかい?」
「全然想像つかないな……。うん、お願い」
 グラッドは頷き、少し呼吸を整えてからかつての苦悩を語り出した。
「日本に来た当初の僕はまぁひどかったさ。落ちる球ばっかりに手を出して、打てないものだから苛立って守備にも身が入らなくて。一年目はほとんど二軍暮らしだったんだ」
「そうだったんだ……」
 義明はプロに入る前から当然プロ野球は見ていたが、選手としてグラッドの存在をはっきりと認識していたのはグラッドのブレイク後からだった。
「メジャーである程度の実績があって、トラウトに移籍した時に少し騒がれて調子に乗ってたのさ。それで、一年目は自分のスタイルを貫こうとしてろくに日本の野球に馴染もうとしなかったんだ。その結果、三振とエラーだけ重ねてそれからはヤマグチで二軍に定住さ」
 グラッドは自嘲気味に笑った。
「高い年棒だけもらって、ろくに働きもしない。シュナがいなければ、僕はトラウトのお荷物で終わるところだった」
「……西村監督?」
 グラッドは頷く。
 広島トラウトの前監督、西村俊。愛称シュナ。契約更改時に戦力外リスト内にあったグラッドを、フロントを説得し契約を延長させた、グラッドの恩人だという。西村監督の選手のマネジメントに定評があるのは、義明も聞いたことがあった。
「シュナが僕の解雇を止めてくれた。この選手は調子を取り戻せば化ける、って。シュナはそれだけじゃなくて、日本のピッチャーの攻め方とか癖とか、外の球の逆らわない打ち方を教えてくれたんだ。散々チームに迷惑をかけた僕をそれでも期待してくれてる。やらなきゃな、って思わされたね。僕のことをここまで評価してくれる、大切にしてくれる監督を絶対に優勝監督にするんだ、僕が打って優勝させるんだってね」
 実際、二年目からグラッドは活躍し、西村監督の見込みは的中し後に英断として語られる。
「そんな話があったのは、知らなかったよ。でも、そこから切り替えて結果を残したグラッドが一番すごいね」
「シーズン中もシュナのサポートがあったからね。チームを勝たせるためには、大きい当たりだけではなく確実な軽打も狙う。ヒットを打つと、仲間もファンも喜んでくれる。すると自分も気分がいいから守備でも張り切る。いいプレーをするとまた周囲が反応で示してくれる。いつしかスタジアムで僕の名前が呼ばれると歓声すら起こるようになった。それがまた嬉しかった。チームを勝たせるために、ファンに笑顔で帰ってもらえるようにってプレーしたら、自然と結果がついてきたんだ」
「チームとファンのため……」
「もちろんそれだけじゃなくて、自分のためでもあるよ。僕の場合は外国籍枠があるからね。気の抜いたプレーをすると枠から外れてしまうし次のシーズン契約してもらえるか分からない。だからプレーの一瞬一瞬を全力でやるしかない。バッティングだけじゃなく、守備も走塁も。応援してくれるファンにも直接伝えられる時はアリガトウを伝える」
 グラッドがチームメイトやファンから深く愛される理由が義明は分かった気がした。
 グラッドは一つのプレーに全力を惜しまない、スラッガーが軽視しがちな守備や走塁も。
 内野ゴロでも全力疾走し、抜けそうな打球には飛びつく。ファンへの感謝を忘れない。外国人選手としての立場も理解し、危機感と覚悟を持って試合に臨む。
 だからグラッドは愛されるのだ。
「そっか……グラッドがそんなに頑張ってるなら、俺はもっと頑張らないとな……」
 グラッドは満足げに頷く。
「持っているものと姿勢がマッチしてそれで初めて結果がついてくる。僕はそれに気付くのが遅かったんだ。まだ若いヨシには、今からそれを知ってて欲しい。ヨシには僕にはないものがたくさんある。謙虚で真面目でチームプレーに徹することもできる。だから僕は、君が明日のトラウトの大黒柱になることを信じて疑わないんだ」
 義明は黙ってグラッドに耳を傾けていた。
 勝ちたい、チームを勝たせたい、という思い。自分の内容や成績以前に必要なのはそこではないか。
 グラッドは続ける。
「ヨシが焦るのももっともだ。でも、チャンスが来ないなんてことはない。シーズンを通して変わらない戦力で戦えることはない。怪我人が出る、連戦が増える、総力戦になってくる。絶対にヨシのバッティングが必要になる時が来る。その時に持ち味を出せるかどうかは今に懸かっているんだ。今、その時のための準備ができているか、君のセンスを研ぎ澄ませているかなんだ」
 義明は、自分は打席に立てば打てる、塁に出られると思っていた。
でもそうじゃない。
巡ってきたチャンスを生かすことができるかは準備次第、今の自分次第なのだ。
 自分をここまで評価し期待してくれているグラッドとともに優勝したい。そのためには、どんな仕事だろうとまずは自分の役割を全力で全うするしかない。その先にチャンスがやって来る。そう信じて今はやっていくしかない。
「――ありがとう、グラッド」
 義明はまっすぐグラッドを見据えた。
 焦りはもうない。来たる好機に備えて、今できることをやるだけ。
「俺、やるよ」
「お、その顔はもう大丈夫そうだね」
「……代走も守備固めも……チームを勝たせるプレーをする。チャンスが来るまで振りこんで、チャンスが来たら……絶対逃さない」
「そうだその意気だ」
 グラッドは義明の背中を叩いた。


 店を出た二人は帰路に就く。歩く二人の背中に初夏の風がそっと吹き付けた。
「僕は、ヨシが球界に名を馳せる選手になったら、自慢するんだ。あのヨシにお好み焼きをおごったんだって」
「そう遠くない将来、実現させるよ」
「マッテル、ハハ」
 グラッドは右手拳を突き出すと、義明は力強く拳を合わせた。
「明日のヨシのプレーが楽しみだ」
 グラッドは嬉しそうに夜空を見上げた。


***

 それから二週間後のこと。


 延長10回裏トラウトの攻撃、一死一二塁で、代走から途中出場の義明に打順が回る。
 追い込まれてからファウルで粘り、カウント2-2で迎えた7球目、義明は低めの変化球を捉えると、打球はセカンドの頭上を越えセンター前に落ちる。セカンドランナーが生還するや否や、選手やコーチが一塁ベンチから飛び出してくる。
 真っ先に義明に駆け寄ったのはグラッドだった。
「やったぞ、ヨシ! ビューティフルヒットだ!」
 グラッドが義明に抱きつくと、義明は喜びに任せて抱き返した。
 興奮で言葉にならないが、義明はグラッドに感謝を示したかった。
 本当にチャンスが来た。グラッドのお陰で、打撃機会が少ない中でこの好機に備えることができた。その感謝を込めて、義明はぎゅっとグラッドを抱き返した。
 抱擁する二人を待ち受けていたのは大量の水と手荒い祝福だった。

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