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ドゥームズデイ・ディドリーム

                             葉桜照月










はじめに

 この作品はフィクションであり、実在の人物・地名・団体とは一切関係ありません。また、実在の人物・地名・団体を想起させるような表現や、あるいは誹謗・中傷するような表現を使ってもいません。もし想起した場合は称号「コロネ疲れ」を獲得してください。










世界は元に戻らない。










 まず最初にしなければいけなかったのは、閉ざされたドアを開けるために鍵を探す事だった。わたしはついさっき、そこのソファーの上で目覚めた。どれくらい眠っていたかは分からない。というのも、寝る前の記憶が殆ど抜けていて、ここがどこかも、何故一人で閉じ込められているのかも、そもそもわたしが誰なのかすらも明確ではないからだ。
 わたしの目覚めたこの部屋は窓が天井にある白い部屋で、真ん中にソファーと机がある以外は、あとは壁際の棚にこまごまとした置物があるばかりで、家電の類をはじめとして電気の気配を感じさせるものはない。部屋の明かりは天井から差し込む自然光に全て委ねられているが、天井のその硝子は磨られており外を窺うことはできなかった。
 リリー。色々な記憶の曖昧な中でも自分の名前は憶えていた。それなのにわたしが誰か分からないというのはどういうことかというと、鏡に映った姿が全く自分のものだと思えなかったから、というわけだ。若干青色の入った眼、真っ白とは言わずとも白みを帯びた肌、髪は黒と茶の中間くらいで、そして明らかに成長過程の身体。ティーンエイジャー後半くらいのように見える女の子。それがわたしだ。けれど自分は、もっと年を取っていたような気がするし、ヨーロッパ人でもなかった気がしてならない。だがその割には、自分は鏡に映ったこの少女を知っている。けれど自分であるとは思えない。この謎の感情が、わたしの心を捉えて離さずにいた。

 窓際の棚には、一冊のノートがある。ただ置いてあるだけではあったが、無造作に捨てられているのではなく、なにか確かに、確固たる意志を持って置かれているような、そういう雰囲気を醸し出していた。そのノートは少し膨らんでいて、端からは新聞記事らしいものが飛び出ている。表紙には整った字で、

 持出禁  新作コロネウイルス関連書類

と書かれている。なんとなく新聞記事が飛び出ているページを開く。新聞記事が張られているページはほかにもあるが、このページだけは糊付けされておらずかわりにセロハンテープ一枚でノートにくっつけられている。新聞記事はノートの見開きのうち左半分にのみあった。右半分はセロハンテープだけが張られていて、抜け落ちたものと見える。
 肝心のその記事は、このようだった。

 「TEDROS」第二段階へ移行
WHO(世界保健機関)は25日(現地時間)、先日起動された再構築システム「TEDROS」が第一段階である『引き継ぎ(テイクオーバー)』ステップを完了し、『判断(エスティメイト)』ステップへ移行したと発表した。
再構築システム「TEDROS」は、引き継ぎ・判断・最終審判・巻き戻し・組織化・開始の六ステップによって世界を再構築するシステムで、今回は地球の全政府の行政機能を強制的に引き継ぐステップから、集計した膨大なデータから再構築がそもそも妥当か、妥当だとすればいつにまで遡れば良いかを判断するステップに移ったことになる。「TEDROS」起動に関しては、起動宣言直後にコメリカのドナトラ大統領が非難する声明を発表し、注目が集まっていた。


 他のページは、ところどころ新聞記事の切り抜きだったり、表だったり、グラフだったりした。
 表とグラフは対応しているようで、表は4月の日にちの軸があり、「新規」と「累計」と分けられている。25日までが表として埋められており、「新規」は22日から順に123、134、170、119と続いている。「累計」は25日で3932と書かれている。
 どうやら、さっきの張られていない新聞記事は一番新しいページらしく、それ以降は新聞記事でも図表でもなく、メモ書きだった。メモはひたすらに長いが、きれいな字だった。最後の方はこのようだ。

 ……ここからは、読み手を意識しないとならない。
 わたしのやったことが成功したならば、今のあなたには、何が何だかわからなくなっているはず。けれども、その姿こそが、あなたの使命達成に最も近い道になる。
 あなたにはハードな運命を背負わせている。そしてこれはあなたにしかできないことで、失敗は許されない。
 何が起こったか、シンプルに説明する。
先の記事にあるシステム、TEDROSは暴走した。それもワールドワイドの行政権・軍事力・情報統制を一手に担った状態で。
 TEDROSは、世界文明を一度破壊して、そのうえで世界を巻き戻すシステムであり、そのためにおよそ想像のつくことなら宇宙開発と自然災害関係以外のことはほとんど実行可能である。しかし今、TEDROSは巻き戻しステップにならないまま全世界に最終審判を下し続けている。おそらくあなたのいる状態は、TEDROSがそのまま世界を開始した、つまり全世界がTEDROSによって荒廃し、そしてその荒廃をプロパリーだと人々が思い込んでいる世界だ。
 そんな世界に、『祭典』はない。
だが、祭典は実行されなければならない。

 つまりあなたには、TEDROSの暴走を止めてもらいたい。テイクオーバーステップの段階で、わたしはTEDROSにアタックを仕掛け、バックドアを設置した。行政権は失ったが、そもそもあなたがこれを読めているならば、ごく一部ではあるがTEDROSを使用できていることになる。あなたの精神はTEDROSの影響下にはないし、ロールバックもしっかり機能している。
 TEDROSそのもののリブートは、本来はジュネーブに行かないと出来ないが、バックドアによりスタジアムの地下深くに秘密裏に作られたデータセンターから操作できるようになっている。
TEDROSを正常化せよ。
 全ては『祭典』を恙無く実行するために。

 長かったメモの最後のページにはひとつの茶封筒が張り付けてあって、

 わたし
 出るなら、これを使うこと。

 とあった。鍵が入っていた。


 部屋から外に出ると、そこは廃墟だった。思わず部屋を見返すほどに、様子が違う。ただ単に廊下に出ただけなのに、暗い廊下は天井から崩れてきた瓦礫と、窓硝子だった破片、あるいは下の階への吹き抜けと化した大穴でいっぱいだ。切れた電線はところどころでボヤを起こしている。
 やっとの思いで外に出る。振り返ると自分が今までいたらしい建物はツインタワーだったらしかったが、片方は完全に崩れて根元のみ残り、もう片方も上の方は折れていた。こんなぼろぼろの建物にいたことはまず驚きだが、もう一つの驚きは町中全部の建物がそのようなことになっていたことだった。瓦礫がそこら中に転がり、店のショーウィンドウだったと思われる場所はガラスが全部割られ、マネキンが無残にも頭のない状態で倒れている。歩くのにも一苦労だ。戦争でもあったのかと思うほどの荒れ具合と、町がかつては繁華街だったのだろうと思わせる建物の並びの割には、絶望的に人がいないように感じる。

 植え込みに隠れて新聞が落ちていた。何もかもが破壊されたこの街にしては珍しく千切れが少なく、濡れてはいなかった。ひょっとしたら今日とかごく最近打ち捨てられたものなのかもしれない、と思ったが、新聞の日付は大きく5月の23日と書かれていた。一面トップにはでかでかと、こういう記事があった。

 「再構築システム」WHOが起動宣言
 WHO(世界保健機関)は23日(現地時間)、新作コロネウイルスの感染拡大についてジュネーブの本部で会見を行い、「我々はかのウイルスの前に敗北を待つばかりになった。最早世界は元に戻らない。この出来事は人類史に暗い影を落とすだけでなく、幕を下ろそうとすらしている。だが、我々はそれに甘んじてはならない。最新の再構築システムを起動することで、繁栄を取り戻す」と述べた。
 WHOが起動を宣言した再構築システム「TEDROSシステム」は、分類上は多段階式地球文明再構築システムにあたり、2017年7月に完成した最新型。従来の多段階式と異なり起動直後から再構築が始まるのではなく、状況判断そのものをAI(人工知能)に委ねることによって高度に客観的な再構築を可能にしている……


 TEDROSシステムの起動のニュースであれば、新しい情報は多くないだろう。そう判断してさっさと新聞を置いてどこかへ抜け出そうとした矢先、
 「そこの女、止まれ!」
大声が静寂を割いた。思わず体が硬直して言うことを聞かなくなる。首だけ動かして声の方を向くと、サバゲー集団のような恰好をした5人程度の男たちが、こちらに一斉に銃口を向けていた。
「名前を名乗れ!お前はトウキョウドミンか?」
 5人のうちの一人がそう叫ぶ。銃口を向けたままでこちらに歩いてくるから、怖くて仕方がない。ここで選択肢を誤ったらハチの巣──そうのうがさけぶ。叫ぶどころか、その情景が、まるで経験したことでもあるかのように細部まで克明に思い浮かんだ。それも、何故か俯瞰視点で。だが相手はそんなことわからない。詰問は続く。
「その髪や肌……外国人か。日本語は分かるか」
 怯えると声が出ない。喉に空気が詰まっている。なんとかうなづき、意思疎通ができることを相手に伝えた。
 撃たないで、と心の中で叫びつつ目を固く閉じていたが、どうやらわたしのことを見回したのか、わたしが誰なのかを知っている人がいた。
「×××さんか?」
 と聞かれた。わたしはそんな名前ではなくリリーなのだが、そんなことはお構いなしとでもいったように、5人で勝手に会話を始めた。
「×××さんって、あの活動家のか?」
「ホラ、ちょっと前にニュースになってたろ。IEKAの木製家具がコロネの悪性を増幅させるってマナー講師が発表してから、スエゥーデンは無政府状態になったんだ」
「ああ、あったなそんなの。それでコロネが爆発的に拡大したから、×××さんは日本に疎開したって聞いてたけど、本当だったとはな」
 そんなことを延々と話した後、彼らは世間話から会議らしい相談に移った。まず間違いなく私をどうしたらよいかだろう。殺されはしないだろうが、そもそも名乗ってすらくれていない。あまりよろしくない処遇を受けることがありありと思い浮かぶ。
 だが、結論だけ言えばそれは違った。しばらくすると男の一人が向き直って慇懃に言った。
「×××さん、銃を向けてしまい申し訳ありません。我々はコロネ警察のメンバーです。×××さん、実はこのあたりはコロネを撒き散らす下等民族『頭狂土民』の居住地なのです。ほとんどは我々・義勇コロネ警察をはじめとした心ある人々が浄化しましたが、やつらは必ずまだ残っています。とくに頭狂土民のリーダー、つまり頭狂徒痴児の小池沼ユリをとうとう今日の午前中になぶり殺しにしたばかりですから、報復の恐れもあります。ここは危険ですから、早く安全なところへ」
 わたしは×××さんではなくリリーだ。でもどうやら、×××さんだからこの処遇を受けているような印象を受ける。ならばここは×××さんということにするのが都合がよいと思って、素直に従った。


 車で五分ほど移動した後で通されたのは大きな公園の原っぱに作られたバラック群だった。ここがコロネ警察の土民狩りの本拠地らしく、皆傭兵ですと言わんばかりの重武装をしている。だが、誰の目にも明らかなのは、彼らが怠慢であるということだ。武器庫のバラックの前にはでかでかと武器庫ですと自己主張する看板が立てられており、警備の人はいない。圧倒的な武力と正義をもって悪を一方的に狩ることができるという嗜虐心で完全にアガっているのがすぐに分かった。
 公園は木々がすこし倒れている以外は荒廃していない。さっきまではは戦争でもあったかのようにビルは崩れ瓦礫は転がりといったありさまだったが、大公園の中心部は破壊したところで仕方がないという結論にでもなったのだろうか。
 一番大きなバラックは、会議でも開く場所のようで、机をちょうど十くらいの椅子が囲む。時計は昼過ぎというかそろそろ夕方が近い時間だった。その一番奥、お誕生日席のところに、一人の男がいた。それまでのコロネ警察メンバーがおおむね若い印象を持ったのに対し、この男は中年だ。
 中年男が若いメンバーと話している──たぶん私についての説明だろう──間に、わたしは壁に額縁のかかっているのを認めた。見ると新聞記事の切り抜きで、いかにも大切そうに、重要そうに飾られている。内容はこうだ。

「TEDROS」第四段階、頭狂へ絨毯爆撃
WHO(世界保健機関)は29日(現地時間)、再構築システム「TEDROS」の第四段階である『最終審判(ドゥーム)』ステップを開始し、その一環として日本の首都である頭狂に絨毯爆撃を行ったと発表した。頭狂は新作コロネウイルスの一大感染地帯であり、コメリカ大統領ドナトラ氏が先日、首都ヌーヨークの感染者の増加具合を評して「二週間後には頭狂のようになる」と発言し、あまりに大げさだとして名誉棄損で抗議されるなど、世界でもコロネ拡大の最悪の例として認識されていた。
 TEDROSは、今後同様の処理を無警告・無差別・無作為に行うと発表している(三つの無)。この投下に関して、各国政府は一斉に支持を表明しているほか、有識者の間でも概ね好意的な評価がなされているが、ウイルスの滅却が目的であればより中心温度の高くなる原爆や水爆といった核兵器を使用すべきだったとの声もある。


 記事を読み終わるころには中年男が話しかけてきたからまともに感想を抱く余裕もなかった。中年男もまた極めて親切な態度で、
「どうも、×××さん。わたしはこの集団のリーダーみたいなものをやっています。どうやらうちの若いのが小銃をあなたに向けたようで、怯えさせてしまい申し訳ありませんでした。ここは危険ですから、明日にも別の場所へお送りいたします。今日のところはゆっくりしておってください。何にもないですが、個別に部屋を用意します」
 といってわたしに握手を求めた。なんとなく悪い人ではないという雰囲気を感じ取って、握手に応じる。どうもほかのメンバーからの信頼熱いこの男は、この中で一番の人徳者であると車の中で聞いていた。それもどうやら本当らしいと思っていると、その場にいた若いメンバーにおいと声をかけて、
「さっき入ったんだが、なんでも頭狂土民の連中、目隠しした後に半径2m以内に人間が新たに入り込んだら爆発する地雷を体に巻き付け、その状態で音楽に合わせて集団で踊るロシアンソーシャルディスコなる文化を創っているらしい。いやあ、土民は何をしでかすか分からないから怖いなあ」
と言って笑った。

 しばらくして、どうやら私のための専用バラックを建ててくれたようだ。明日以降は武器庫になるからそんなにありがたがらなくてよいと言われたものの、自分のために多くないであろう資源を割かせるのは気が引けた。それでもどうしてもというのでゆっくりしていると、今度は夕食が出てくる。至れり尽くせりで姫にでもなった気分だ。
 明日見回り部隊を割いて私の安全な地域の団体への護送をしてくれるという。
 机の上の新聞は、夕食と一緒に運ばれてきたもので、なわたしのことが書いてあるからと言って寄こしてくれた。夕食をバラックの外に出て回収してもらい、目を通す。2週間ほど前の新聞だった。一面ではないが、三面記事として、こんなことが書いてあった。

 環境活動家×××さん、都知事と対談へ
 24日に初来日が予定されている若き環境活動家の×××・××××××さんが、来日初日に東京都議会で演説し、その後小池沼都知事と対談することが分かった。
 ×××さんは、スエゥーデン生まれの少女で二酸化炭素削減を主張する活動家であり……


 その記事を見ているうちに夜が近くなる。まだしばらくは一人で考え事ができるようだから、改めて現状を整理することにした。
新聞記事などのおかげで記憶を少しずつ取り戻していたわたしは、ようやく最初の部屋のあったあのツインタワーを東京都庁だと認識した。そして現在位置、そこから五分ほどで着く原っぱや庭園のある大公園と言えば、新宿御苑をおいて他にない。だとすれば、行かなければならぬ地下室のあるスタジアムとは、間違いなく新国立競技場だ。
 小池沼ユリとは、わたしだろう。最初の部屋のノートの記述を参考にすれば、TEDROS暴走前の世界で×××さんと接触した小池沼ユリは、TEDROS起動前後にTEDROSに攻撃を仕掛け、一部機能を使えるようになった。そして、TEDROSが世界に対して行う機能を個人を対象に応用し、小池沼ユリと×××さんの精神交換を行った。×××さんは小池沼ユリの姿になり、小池沼ユリとしてもう殺されたらしい。つまり、わたしはもう小池沼ユリでもリリーでもなく、×××さんなのだ。そうでないことを知らないものはこの世にもういない。
 ならば、覚悟はできた。行先もはっきりした。
行く他はない。世界を救うために。

 これから夜の見回りだという人々が出払ってしまうと、自分もあっさり外に出ることができた。やはりというべきか警備はザルもいいところで、頭狂土民に警戒などする必要も価値もないといった風だった。そういう甘えはよくないとは思うのだが、実際のところ彼らは(少なくとも自分たちの認識では)正義の側に立ち、劣等民族頭狂土民を殲滅するのが使命らしいから、有効な反撃を食らうなど思ってもいないのだろう。殲滅される側がどのような武力を持っているかはわからないが、場合によっては簡単に殺されてしまうだろうなと思った。
 歩くと見えるのはいい感じに整理された庭園だ。低木ばかりだから被害が少なく、ここだけは御苑としての面影を残している。庭園の向こうに見えた門を目指し歩きながら鑑賞した。
 おそらく普段は使われていないその門は開かなかったが、誰も見ていないから壊すなり乗り越えるなりすることができる。実際、乗り越えるだけなら何の問題もなかった。きっといつもの日常が戻れば、監視カメラなり衆人環視だったりで絶対に再現することは不可能だろう。
 信濃町駅はあちらと看板があるが、電車は来ないし何ならホームだってあるかどうか。夜の廃墟は静まり返って不気味だ。新宿が近いから、本来ならばこれからが夜として本番といったところなはずなのに。
 都庁前と同じで、瓦礫がところどころ散らばっていて、歩くのにも難儀だ。できるだけ凹凸の少ないルートを選んで、信濃町駅、そのさらに南の最終目的地を目指す。
 やっとのことで信濃町駅の線路に対して自動車道路が潜る立体交差が見えてくるあたりまで進んだ。あそこは瓦礫が少ない。あそこで休憩しよう。そう思った矢先のことだった。

 一閃。東の方角が明るくなったと思った瞬間、強い風が駆け抜ける。何のことかわからないで思わずその場にうずくまると、誇りか小さな瓦礫か、軽石のようなものが飛んでくるので頭を守る。
 まさか。いや、そうとしか思えない。TEDROSによる最終審判、『頭狂』への爆撃が再び行われたのだ。それも、一発でこの威力ということは核。ここにきてTEDROSの暴走を身をもって知ることになるとは思わなかった。
 公園に戻ってもどうしようもない。地下なら万が一同じことが起こっても安全だろう。そう考えて立ち上がり、また再び、新国立競技場に足を向けた。
 だが、そのときだった。

 轟音と激震とともに、夜闇を二度目の閃光が貫いた。

 信じられない。二発目か。しかも、前より近い。
 近くの高いビルの硝子が砕けて真っ白になり、わたしをめがけて矢のように降り注いできた。
 数の暴力に避ける術もなく、破片がわたしを刺し、切り裂いた。


 信濃町駅にほど近い立体交差は、これ以上の落下物から最低限身を守ってくれるありがたい存在だった。上の橋に鉄道が通る日は二度と来ないだろうが、一時的な退避の為に屋根として役に立ってくれている。
 引きずる足は赤く塗りたくられている。なんとか体を支えるために橋脚を壁としてもたれかかった瞬間に、背中に刺さっていたらしき硝子が食い込んだ。安堵して背中を預けることもできない。地面にへたり込んで、なんとか肩ならもたれても大丈夫であることを確認した。

 唐突に目の前に現れた死。だが恐怖はじんじんと響く背中の痛みに塗り潰されて霧消し、それでも巡り足りない痛みは、腕を犠牲に守った顔を歪ませ、目尻を潤ませる。見るような走馬灯もなく、ただあの部屋から今までを思い返す。浸るように、縋るように。そうして、薄々感づいてはいた、自らが背負った運命を振り返る。

『ロールバックは機能している』。最初の部屋のメモの言葉だ。読んだときは、ジュネーブのTEDROSとちがって競技場地下の小TEDROSはロールバックが機能しているということだと思っていた。だが、別の意味があったとしたら。わたしに対してロールバックが機能しているということだとしたら。

 これはきっと、一回目ではない。死ぬたびに、死ぬたびに、死ぬたびに、わたしは、またあの部屋で甦る。
つらい運命を背負わせたという文言もあった。あれもきっと、ただの『使命』でないという時点で気づくべきだったのだろう。
 世界を救うなんて大それたことをするには、生半可な苦労では足りないと思っていた。だが、そこにあったのは、苦労では到底足りない、犠牲すら生温い悪夢の輪廻だった。記憶を頼りに次に生かすこともできないのに、絶望的な世界で希望を見出すことを強制される。それが運命だと、あのノートは言っていたのだ。
 そんな自分の置かれた立場に、思わず呻き声を──

 呻き?
喉を損傷して、とうに呻くことなどままならない。
意識は、砂の塔に頂上から水をかけた時のように、姿を変え、形をなくしていく。
 アスファルトに染み込むことなく排水溝へ吸い込まれる自らの血流が、視界に入っていた。


 *
 三発目の核爆弾がどこかで炸裂した時、彼女はとっくに事切れていた。
熱波は亡骸に届くことはなく。爆風だけが、彼女だったものを揺さぶる。
爆風は、彼女の涙を吹き飛ばした。
泣くことなどまだ、許されない。


   世界は元に戻らない。
         ───テドロス・アダノム

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