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海辺の廃墟

                             高畑実奈

 別に、飢餓で苦しんでいるわけじゃない。綺麗な水が飲めないわけでもないし、自由を拘束されているわけでもない。
 それでも私は、どちらかと言えば不幸な人間だと思う。
 昼休みのカフェテリア。中学部と高校部の生徒がごった返す中、どうにか窓際の四人席を見つけることができた。
 しかし、ハルカとマナミは私の存在など忘れてしまった様子で、さっき買ったばかりの学食に手もつけず、楽しそうに話している。昨日放送された連続ドラマについてだ。話についていけない私は、ひたすらにお弁当の卵焼きを咀嚼し続けるしかなかった。
「ていうか、ユウリはどうして転校したわけ?」
「え?」
「N女学院の中等部にいたんでしょ?なんでこんなフツーの私立中学に転校したのー?」
 ハルカは首を傾げながら、学食のクリームソースオムライスを口に放り込む。栗色のポニーテールが初夏の日差しに透けて、ますます明るい髪色に見えた。
 一方マナミは、コンビニで買ったおにぎりの包装を器用に開けている。途中、顔にかかる長い黒髪をうっとおしそうに払い除けた。マナミの切れ長の瞳が鋭く光った気がして、私は思わず目を伏せた。しかし彼女はそんな私を気にする様子もない。
「へえー、N女だったんだ。お嬢様じゃん」
「いや、お嬢様なんかじゃ……」
「なんで転校しちゃったの?親の仕事の都合?」
 いじめられていたから、なんて言えない。
「校風が合わなかったの」
「えー、ほんとお?」
 ハルカの甲高く甘ったるい声が頭に響く。
「絶対嘘でしょ。普通の親ならやめさせないよね、あんな頭良いお嬢様学校」
 マナミの決めつけるような口調に、私は愛想笑いするしかなかった。
「嘘じゃ、ないんだけど……」
「てかさ、ユウリの親って、何してる人?」
「……父は弁護士で、母は専業主婦」
「わー、やっぱカネモチって感じー」
「さすがN女」
 彼女達に悪気がないことは分かっている。
 でも、すごく、疲れる。
「N女ってさ、体育にあんまり力入れてないの?」
「あー、気になる。ユウリは体育できないもんね」
「ねー。今日のテニスなんか、ユウリのサーブの動きが面白すぎて笑っちゃった」
「あれはマジで面白かった。一体どうやったらあんな動きになるのって感じ」
 けらけらと笑い転げる二人に、私が口を挟む隙はなかった。
 お弁当箱に詰められたウインナーを見つめる。中学二年でこの学校に転校するまで、このお弁当を完食できた日は一日たりともなかった。たいてい、中身だけごっそりと中庭の花壇に捨てられていた。体操服や文房具も、何度買い換えたか分からない。
 あの日々に比べれば、まだマシ。
 二人は再びドラマ出演していた俳優の話を始めた。私をちらちらと横目で見ながら、でも話題を振ることはしない。
 私は心の中を空っぽにして、母の作ってくれたお弁当を口に運び続けることにした。あの日々み比べればまだマシ、そう呟きながら。

 自分で言うのも変だけど、私は内気な人間だ。運動や勉強が抜群にできるわけじゃないし、何が秀でているところがあるわけでもない。その代わり、誰かに意地悪をしたり傷つけたりしたこともない。つまり、影が薄いのだ。
 そのせいか、私はよく周りの人間のサンドバッグにされるか、少なくとも軽く扱われることが多い。彼女達に自覚があろうとなかろうと。
 これは私の生来の性質のようなもので、きっとこの先も変わらない。たぶん、一生このまま。
 ハルカとマナミは、狭い廊下では必ず私を後ろに除ける。二人組を作るように指示された時は申し訳なさそうな顔をして「ユウリ、ごめんね」と言う。帰りのホームルームの後、同じ吹奏楽部の二人は、帰宅部の私に挨拶もせず音楽室へ向かう。
 別にいいじゃん、いじめられているわけでもないし。そう気丈に振る舞えたのは、春のうちだけだった。
 衣替えで夏服が解禁されてから数週間もした頃、ハルカとマナミの傍若無人ぶりが顕著になり始めた。どこからか私の父のプロフィールを得て出身校を品評したり、授業参観に来た母の靴のブランドをクラス中に言って回ったり。自動車のブランドにまで言及された時には流石にうんざりしてしまった。
「いいなー、ユウリん家はオカネモチで」
 そんな言葉で締め括られるのが関の山の、たいして面白くもない品定め。おかげで、ハルカとマナミ以外のクラスメイトと話す時もなんとなく壁を感じる。私はもう限界だった。
「鮎川さんのお父さんは弁護士で、今夜のテレビに出るそうですよ。皆さんも見てみてくださいね」
 その日は、よりによって担任の大橋先生が引き金を引いた。若い女性の先生だ。大きなバレッタでまとめられた綺麗な黒髪が特徴的な、いつも膝上丈のスカートを履いている美人の先生。優しいと評判の先生だが、私は出会った当初からなんとなく苦手だった。
 へー、すげー、有名人、カネモチじゃん。父のことなど一ミリも知らないクラスメイト達の薄い歓声に、思わず耳を塞ぎたくなる。
しかしそれよりも、私の承諾も得ず発表した大橋先生に対して、憎しみにも近い感情が湧き上がった。
 ハルカとマナミにとっての私は、最早昼食を共に食べるだけの人間に成り下がっていた。そんな中、二人はいつものように私の父のことを話に出した。
「さすが、鮎川弁護士は優秀ですねえ」
「ユウリも弁護士になっちゃえば?」
「ユウリが弁護士って大丈夫?従業員に金庫盗まれて、秒で廃業しそう」
「あっははは。それ、ありえそう」
 マナミの垂れ下がった目には、微かな悪意が感じられる。私は転校して初めて、二人の会話に介入した。
「ねえ、私の家のことはもういいでしょう」
「へ? どゆこと?」
 きょとんと不思議そうに私を見るハルカの顔が、今となっては無性に煩わしい。
「あんまり、そういう話をしないでほしいの」
「なんで? あたしたち、ほめてるんだよ?」
「そうだよ。ユウリって自意識過剰すぎ。そんなんじゃ生きていけないよ?世間知らずのお嬢様」
「だから、そういうのをやめてって言ってるの!」
 思いの外大きくなってしまった声は、カフェテリアならば大して問題じゃなかったに違いない。ところが今日に限って、授業が長引いたからと、教室で昼食を食べることにしたのだった。
 しんと静まり返った教室で、いつも以上の圧迫感が私を襲ってくる。
「なあに? ユウリちゃんって、情緒不安定すぎて怖いよ」
「一旦落ち着きなよ、ユウリ」
 二人の声をきっかけに、教室には再びざわめきが広がっていく。
 私の手は、目で見て分かるほどに震えていた。そして、その手のひらの痺れから、自分が大声を出すと同時に机を叩いていたことに今更気づいた。
 唾を飲み込もうとするが、口の中が乾燥していて上手くいかない。焼けるような喉から、声をなんとか絞り出す。
「……もう、そういうのやめてよ」
「ていうかさー、大橋のやつ、マジうざくない?昨日、掃除サボったら顧問にチクられたんだけど」
 ほら、私の声は、尽く無視される。
 席を立った。昼休みが終わるまで、図書館で本を読んでいよう。食欲も失せてしまったし。
 ……数十分後教室に戻ると、皆すでに午後の授業に向けて準備していた。そんな中、私の机だけは直されないまま、不格好に反対側を向いている。
「鮎川さーん。早く机直しなさい。もう昼休憩は終わりよ!」
 大橋先生の不機嫌そうな叱責が飛んでくる。私は「すみません」と呟きながら机を移動させた。斜め後ろに座っているハルカが、甘ったるい声で話しかけてきた。
「あたしが直しておけばよかったかも。ごめんねえ」
「いいの。気にしないで」
 精一杯、そっけない返事を返す。
 馬鹿じゃないの。
「はい、じゃあ号令かけてー」
 私は制服のリボンを整えた。ハルカの嘲笑するような視線を背中に感じながら。

その日の夜は、久々に夢を見た。
 エメラルドグリーンの海。白く輝く砂浜。そして、かつては団地だったらしい、黒ずんだ廃墟。
 私は、N女学院の制服を着て砂浜に突っ立っている。地域でも可愛いと評判だった制服。もう二度と着ない制服。
「綺麗なトコでしょう」
 話しかけてきた女性は、赤みがかった美しい茶髪を腰まで伸ばし、シフォン生地をふんだんに使った白いワンピースを着ていた。年齢は二十代後半か、三十代にも見える。薄い茶色の瞳が夏の日差しに照らされ、かすかに潤んでいた。
「綺麗ですね」
「ここに人が来るのは、久しぶり」
 砂浜に足をとられながら、私は彼女の側に寄った。彼女が敵ではないことだけは、なぜか確信できた。
 波打ち際で、彼女と並び座る。横に座ると、彼女の髪の匂いが潮風に乗って鼻腔をくすぐった。横目で見る彼女は、女神のように穏やかな表情で、目の前に広がる海を眺めていた。
「ここに住んでいるんですか?」
「ええ、あそこに」
 彼女は後方を振り返って廃墟を指差した。
「……あの建物、まだ住めるんですか?」
「ええ。住んでいるのはわたしだけだけど。行ってみる?」
「いいんですか?」
 それから廃墟の探検が始まった。潮風が廃墟を通り抜ける音が少し不気味だったが、女性はそっと私の手を取ってくれた。
 廃墟の中は薄暗く、ひんやりしている。狭いエントランスはそこら中に埃が舞っていた。一階の端から部屋を覗いていく。どの部屋も床がめくり上がり、壁はぼろぼろだったが、元住人の痕跡をかすかに残していた。
 中には、セーラー服が壁のハンガーに掛けっぱなしだったり、玄関先でベビーカーが横転している部屋もあった。
「ここは、家族三人で住んでいた部屋。向かい側は、年配の女性が一人で暮らしていて……ほら、あそこに女性の絵が見えるでしょ。若い頃に描いてもらったんですって」
 彼女は、まるで住人に会ったことがあるかのように、それぞれの部屋のストーリーを教えてくれた。
「じゃあ、次は屋上ね。わたしのお気に入りの場所なの。海がすごく綺麗に見えるのよ」
 彼女の笑顔には不思議な力があった。ここが夢であることを忘れてしまいそうなほど、彼女は人間味に溢れている。
 彼女だけじゃない。海も、空も、砂浜も、廃墟も、そして今ここにいる私も、全て現実のように思えて仕方がない。
 この夢の中では、現実世界と変わらないほど五感が鋭くなっているようだ。
 女性の鈴のような声と、温かい手。
 腐りかけたドアを開ける時の、埃っぽい匂い。
 錆びた鉄の階段を上る時の、足裏がざらつく感じ。
 屋上で、日差しがじりじりと肌を焼いていく感覚。
 私は屋上の柵に寄りかかって、下方に広がる海を見つめた。
「ここにいた人達はね、今は現実世界に帰っちゃったの。でも、きっとうまくやってると思うわ」
「会ったことがあるんですか? ここの住人達に」
「ええ。あの頃は楽しかった。皆で一緒に空を飛んだの」
「空を飛ぶ?」
「そう。ほら、こんなふうに」
 彼女は屋上の縁から足を踏み出した。私が短い悲鳴をあげると、いたずらが成功した子供みたいにくすくす笑った。
「見て。落ちてないでしょ? わたし」
 空中でくるくると舞う彼女は、やはり女神のようだ。
「私もやってみたい」
「いいわよ! やり方を教えてあげる。……あら、でも、あなたはもう帰らなきゃいけないんじゃない?」
「え?」
 次の瞬間、目が覚めた。
 まだ夜明け前らしい。月明かりが部屋に差し込み、白で統一された部屋全体を淡いブルーに染め上げている。
 ベッドで寝返りを打った。あと数時間以内に、学校へ行く準備をしなければならない。その事実がとてつもなく重荷に感じる。
 ずっと、夢の中でいいのに。
 私は、夢で出会った女性を思い出した。彼女みたいに優しい人が、現実世界にもいればいいのに。
 カラン、とグラスの氷が溶ける音がした。私は窓際の小さなローテーブルを見遣った。結露だらけのグラスがぽつんと置いてある。母が昨晩用意してくれたらしい。コースターには「お疲れなのね。ゆっくり休んでください」とメッセージカードが挟み込まれていた。
 時刻は朝四時半。六時には家を出なければならないから、そうそうゆっくりもしていられない。
 洗面所の鏡には疲れた女が写っている。痩せぎすの体。乱れたショートヘア。厚ぼったく腫れた目。不満げな口。にこっと笑顔を作ってみたつもりが、さらに顔の歪んだ不気味な容貌にしかならなかった。
 気持ち悪い女。
 夢の中の女性は、もっと自然で綺麗な人だった。髪もさらさらで、所作も指先まで美しかった。
 夢など、私の頭の中で出来上がった妄想の産物だ。分かってはいるけれど、どうしても彼女にもう一度会いたい。そして一緒に空中を歩いてみたい。あの映画のような風景と一緒に。

 以来、私は女性の夢をよく見るようになった。学校で殊更辛い目に遭った時ほど、彼女は優しい瞳で私を迎え入れてくれた。
 彼女と出会って五回目になる頃、つい口が滑った。波打ち際で足を遊ばせていた時のことだ。
「学校に友達がいないんです。クラス全員に無視される」
「それって、いじめ?」
「いじめじゃないんです。でも、ちょっと浮いちゃってるっていうか……」
 浮いてる。そう、この表現が一番しっくりくる。
「好きなだけ、ここにいればいいわ。目が覚めるまで」
 彼女は、ここが私の夢の中だということを知っているようだった。ふと気になって、聞いてみる。
「あなたの名前は何ですか?」
「コン。今と書いてコンと読むの。でもわたし、この名前嫌いなのよ」
 彼女は透き通るように色白く温かい手で、私の頭を撫でた。
「いつまでも、ここにいていいのよ」
「でも、もうすぐ目が覚めちゃうし……」
「現実を夢だと思えばいいじゃない。この世界こそが現実なのよ」
 彼女は眩しそうに空を仰ぎ、両手を大きく広げた。同時に潮風が吹いて、彼女の白いワンピースがはためく。
 女神が、笑っている。
「ここが現実世界ならいいのに」
 呟いた瞬間、目が覚める。
 潮風のかおりはまだ、鼻の奥に残っていた。

 教室で空気のように扱われていた私が、夏休みを直前にして、少し変わった。と言っても、悪い方向に。
 まず、ノートが頻繁に無くなるようになった。学校中を探すと、全く関係ない女子更衣室や男子トイレの前の廊下に捨てられている。ノートだけじゃない、体操服や筆箱、ロッカーに入れておいた細かな備品まで。
 クラスのグループラインから必要な連絡事項が伝わってこず、私だけ調理実習に参加できないこともあった。
 そんな私を見て、クラスメイトはやはり無関心を装うだけだった。しかし、そのうちの数人は、お喋りする振りをしながら私の様子を盗み見て、含み笑いを繰り返している。その中にはハルカとマナミもいた。
 これじゃ、N女学院の時と同じじゃない。
 夢の中で、海を眺めながら呟く。
「いじめ?」
「そうです。今までは無視されるくらいだったのに」
「ひどいことをする子もいるのね」
「ひどい子ばっかりです」
 彼女は困ったように微笑む。
「もうすぐ夏休みよ。それまで頑張るの」
「……」
「ほら、顔を上げて」
 暖かい手が私の顔を包み込み、涙を拭う。
「……ふふ」
 それが照れ笑いなのか失笑なのか、自分でも分からなかった。
 最近は、悲しくても辛くても涙は出ない。むしろ、嬉しい時とか安心した時に、うっすらと目に滲む。
 彼女の手はわずかに汗ばんでいて、頬にぺたりと吸い付いた。夢とは思えないほどリアルな質感。
 そっと目を閉じる。次に目を開いた時にはもう、現実世界に戻っているだろう。それでも、この時間が永遠に続くことを願わずにはいられなかった。

 学校にいる間も、夢が恋しいのだろうか、眠気が襲うようになっていた。数学や現代文などの退屈な授業時間はもちろん、体育で体を動かしている時でさえ、意識が飛ぶ。
 そういう時には決まって、彼女のくすくすと笑う声が頭に響く。たまに、「無理しないで」という囁き声も聞こえる。
 授業中に窓から外を見ると、校庭の桜の木の間に、彼女がいつも着ているドレッシーな白いワンピースがふわふわと揺れている気がする。
 廊下を歩いている時も、横に彼女がいる気配がする。見遣ると、一瞬だけ微笑む彼女が見えるが、やがて泡のように消えてしまう。
 私は疲れているのだろうか。だから彼女の幻影が見えるのだろうか。
 ならば、ずっとこのまま疲れていてもいい。現実世界でも彼女と会えるなら。

 夏休みまであと数日という日、担任の大橋先生に呼び出された。
「鮎川さん、最近どう?」
 やたらと馴れ馴れしく話しかけてくる。いや、媚びているのだろうか。若い先生にありがちだ。
「元気にやっています」
「部活にも入ってないし、よく物をなくすし。もう少し、気を引き締めていかないとね。成績も下がっているでしょう。夏休みは皆と差をつけられやすい時期よ」
「すみません」
「……ねえ、実際のところ、どうなの?」
 急に低くなった声に、私は半歩ほど引き下がった。
 大橋先生は、険しい顔をしていた。怒っているんじゃない。絶対に嘘を吐かないで、と懇願しているのだ。
 私は、職員室ではなく空き教室に呼び出された理由をなんとなく察した。
「何の話ですか?」
「もしいじめられているんだったら、しかるべき処置をするから。加害者の子達を許すわけにはいかない」
「いや……」
「正直に言いなさい」
 私はつい目をそらした。それはもう、肯定を意味するようなものだった。
 その日はそれで終わったが、詰問は連日続いた。それと同時に、ハルカやマナミ、リン、サキが職員室へ呼ばれ始めた。
「あのね、チクるとかありえないよ」
 マナミは私の頭をノートで叩いた。わりと強い力だ。首がぐらりと揺れて、目がちかちかする。
「根性腐ってるよね。生きてる意味無いんじゃない?」
 四、五人の女子が私の席を取り囲む。昼休み、他のクラスメイトは、私の様子など気にせずにお喋りを楽しんでいる。まるで異世界に送り込まれた気分だ。
「N女に帰れよ、世間知らずのお嬢様」
「あんたみたいな人間って、一番社会のゴミだよね。金さえあれば何でもできると思ってるんでしょ」
「大橋も大橋だよね。こんなゴミ女の言うことなんか信じちゃってさ」
「教師なんて狂ってる奴だらけだもん、仕方ないよ。でもあんたは確信犯だよね、ユウリ」
 サキが私の椅子を蹴る。
「ほんと、死んだ方がいいよ。自分で分かってるでしょ」
「そうそう。近いうちに死んじゃってくださーい」
 ハルカの声を最後に、四人はゆっくりと私の席を離れていく。
 死んじゃってくださーい。
 甲高い声が幾十にも折り重なり、頭の中で暴れる。
 私はしばらく顔を上げられなかった。
 ぐしゃぐしゃになった心の奥底で、誰かが狂ったように泣き叫んでいる。

 「事情聴取」は、おおごとになりつつあった。学年主任や生徒指導部長が顔を出すようになると、ついに家にまで連絡がきた。夏休みに入って一週間目のことだ。
「ユウリちゃん。今ね、大橋先生から連絡があってね」
 母の優しい、だけど無機質な声がドア越しに聞こえる。
「ユウリちゃんがいじめられてるって。本当なの?」
 本当だということくらい、母は知っているはずだ。ここ数ヶ月で体操服を何度買い替えたことか。それとも、中学一年生の頃から数え切れないほど買い替えているから、こういうものだと思っているのだろうか。
「本当なら、転校しましょ?」
 転校したって何も変わらないけどね。私は言葉を飲み込んでじっと息を潜め、母の動向を伺った。どうせ、母の意思に抗えるわけがない。
「……ユウリ。返事をしなさい」
 母は転校させたがっている。私を問題にして、父の関心を買おうとしている。夜が更けても帰ってこない父の家族愛を、母は未だに信じている。
 もう数ヶ月、父の顔を見ていない。別居しているわけでもないのに、だ。
「分かった。転校する」
 ドアに向かって声を絞り出した。自分でも驚くほどか細い声だった。
 母はため息を吐いて階下へ降りていく。
 しばらく、気が抜けたように体が動かなかった。
 頭痛を抑えながらなんとか立ち上がり、鍵付きの引き出しを開ける。蛇のようにとぐろを巻いている縄。
 これから数週間は地獄が続く。いじめっ子の女子達と、親を交えて「話し合い」する。母は泣き叫び、いじめっ子達は冷えた目線で私達親子を一瞥することだろう。
 ハルカやマナミのことは恨んでいる。でも、一番許せないのは傍観者達だ。知らんぷり。無視。無関心。まるで自分は清廉潔白な人間だとでも言いたげな、奢り昂った人間達。
 ソファのクッションに顔を埋めて、言葉にならない悲鳴をあげた。
 皆、消えてしまえばいい。
 私を空気扱いするのは構わない。でも、先生が勘づくほどのいじめを助長しないでほしい。まるで自分は関係ない、みたいな態度をとらないでほしい。一人でも「そういうのやめなよ」と言ってくれれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
「泣かないで」
 いつの間に寝てしまっていたらしい。夢の中でも私は泣いていた。
「また、転校するんです」
「あら、いじめっ子と離れられるじゃない」
「転校先でも、どうせまたいじめられる。私はそういう人間なんです。皆のために捧げられる生贄みたいなもの。私がいじめられていれば、いい退屈しのぎになる。次のいじめのターゲットには誰もなりたくないから、救われることもない。私みたいな人間はとりあえず最初にいじめておこうってなるんです。弱くて大人しくて、うざったいから」
「わたしはユウリのことを弱いとか大人しいとか、ましてやうざったいだなんて思ったこと無いわ」
「……」
 彼女はいつも、私の欲しい言葉を掛けてくれる。
「おいで。いいところに連れて行ってあげる」
 
 手を引かれて向かったのは廃墟の屋上だった。この世界で一番天に近い場所。
 彼女は屋上の柵を乗り越えて、ぎりぎりの縁に立った。
 彼女はそっと足を踏み出した。しかし彼女の体は重力に負けることなく、宙に浮いている。
 彼女は微笑する。
「ユウリもやってみてよ。前に言ってたじゃない。私も空を飛びたいって」
「怖い」
「大丈夫だよ。おいで」
 彼女の瞳は黒く澄んでいる。
「でも」
「いいから、おいで。弱い自分から脱したいのなら、これくらいできなきゃ」
 いつも穏やかな彼女に気圧されるのは、初めての経験だった。
 恐る恐る足下を覗き込む。思いのほか、地上との距離は遠いようだ。
 ぎゅっと目を瞑り、もうどうにでもなれ、と縁を蹴った。なるべく下を見ないように、空を仰ぎ見る。
 太陽が眩しく光を放っている。視界の端には、彼女の輝く笑顔がちらりと見えた。
「ほら、大丈夫でしょ」
 優しく穏やかな声が私を包む。視線をわずかに下へ落とすと、そこには青い海がどこまでも広がっていた。

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