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水泡にキス

                             月野星丸

 膝の上にまたがった鴨川さんはぼくの胸に埋まっている。匂いをかいでいるのか、それとも顔のどこかが痒いのか、もぞもぞ動いて顔をこすりつけている。コアラみたいな格好でしがみついているものだから、ぼくの身体の自由は限られている。唯一拘束を逃れているのは両手だけだが、糸が切れたマリオネットのように肩からだらりと垂れさがっている(背中は安アパート特有の薄い壁に預けているし、ベッドに伸ばした両足は彼女の質量を一手に引き受けている)。
 ぼくたちは特に合意形成もなく身体を密着させていた。というのも、この程度の身体接触に際して相手の意志を尋ねる必要はない関係だからだ。
 数分前、鴨川さんは髪を乾かしているぼくの背中のシャツを引っ張り、ぼくはされるがままにその方向に移動した。宇宙空間に浮かんだ物体のようにぼくは彼女の引力に忠実だった。そうやってぼくはマットレスの上に落ち着いた。人形みたいに肢体を投げ出しているぼくの身体の上に乗る。そして彼女はコアラになった。ここまで合意形成はない。また、彼女は口を開くことすらなかった。ぼくが受け入れることを彼女は知っているからだ。
 ぼくたちは常識を逸脱しない程度の身体接触を許容する包括的な契約を結んでいる。その契約には、時間・空間を共有すること、時間帯を問わず相手の連絡にはできるだけ瞬時に答えること、異性と二人になるときは必ず事前に連絡する事、など様々な契約が含まれている(含まれているとはいっても契約の詳細は明文化されておらず、いつの間にか追加されていたり削除されている項目があるので注意が必要だ)。例外はいくらでもあるが、一般的にこの契約が長く続くと結婚という名称で知られる新たな契約(これは先の契約と異なり、国家に保証される契約なので詳細はあらかじめ明文化されている)に発展する場合が多い。
 もちろんこの種の包括的な双務契約が一般に何と表現されるかぼくは知っているが、契約が成立してから一年たった今でも、その言葉通りの意味を正確に理解できないでいる。
 多くの人はこの契約を肯定的にとらえる。聞いていないのに報告してくるやつもいる。中には、契約によって自分の価値が上がったと感じる人もいる。つまり、連帯債務や保証債務などと違って、この種の契約は公言することで社会的立場を高めるような効果があるらしい。あいにくだが、ぼくにそういった感覚はない。
 契約を結んで、鴨川さんとぼくは以前よりも距離が近くなった。というより、接触しているのが正常で、離れているのが異常になった。この状況を幸福に感じることもあるし、あまりにも面倒だと嘆くこともある。契約とはそういうものだ。利益には責任が付随する。結構なことだ。
 だけど、利益っていったい何のことなのか。いったい何のため契約を結ぶのだろうか。
 もちろん鴨川さんと契約を結んだことで得られたものは沢山ある。しかし、そのいずれかの利益ために契約を結んだといえるものは浮かばなかった。ぼくの契約書にはあまりにも空白が目立ち過ぎていた。
 その疑問に対するぼくの周囲にいる人たちの意見はこうだ(ぼくの生活範囲は狭く、それ故に親交のある人は限られる。なのでこれらの意見が一般論という認識はない。しかし、一般論をそれほど逸脱しているとも思わない)。
 ある人は「いつでも相手の身体にアクセスできる権利」といった(何か悟ったような口ぶりで)。
 ある人は「常日頃から自分を想ってくれる存在が人生に潤いをもたらすのよ」といった(人生を何周もしてきたかのような確信をもって)。
 ある人は「A・T・M! A・T・M!」と叫んだ(国会前に響くシュプレヒコールみたいに)。
 いずれにせよ、ぼくにはそれらの利益が月額支払いのサブスク契約と何ら変わらないものだと思えた。つまり、契約期間が終わるまでは相手のサービスを好きなだけ受け取れる契約。もっと短期的なものだと、九〇分の焼肉食べ放題と同じ契約。結構なことだ。
 鴨川さんは顔を埋めたまま、ぼくの手を取り、そのまま彼女の頭にのせた。
 ぼくは黙って撫でる。しっとりした髪が指の隙間をすり抜けていく。ぼくはあごを引いて、目下でもぞもぞしている彼女をみた。
 小さな頭から、まだ乾ききっていない長い黒髪が伸びている。天井から差す薄い橙色の明かりを反射して、彼女の髪が僅かに光っていた。そのちいさな、すぐに忘れてしまいそうなかがやきは、彼女が動くたびに少しずつ形を変えてしまう。月に照らされた水面で、波に揺られて形を変える光のようだった。
「苦しくないですか」鴨川さんは埋もれた顔を少し引いて、鼻から下が見えないようにぼくを見上げる。
「大丈夫です」嘘はつかなかった。
「きょうは地球の重力が少し強めなので我慢してください」彼女はそういうと、マットレスに膝立ちになってぼくに覆いかぶさった。
 鴨川さんはぼくの首を囲むように抱く。シャワーを浴びたばかりでも、いつもの彼女の匂いがした。
 肩にのせた顔から、囁くような呼吸が聞こえる。その音の波はぼくの耳を通じて全身に伝わるように響く。
 ぼくは腕の下を通して彼女を抱いた。背中に垂れた髪も一緒にして、そっと抱きしめる。
 肉体的なつながりや精神的なつながり(または経済的なつながり)を求めて契約を結んだのなら、彼女は十分にその責任を果たしていると思う。だけど、ぼくはどうだろう。
「ちゃんと抱きしめて」耳元に彼女の息遣いを感じると、ほとんど反射的に腕の力を強くする。鈴を鳴らすだけでよだれを垂らすようになった犬を連想した。
 できるだけ彼女の要求には従うようにしている。頭の上に手を持っていかれたら撫でる。力加減に注文があればすぐに調整する。でも、それで自分の義務を果たせているとは感じられない。そんなのは訓練された犬でもできることだ。
 彼女は眠ったように動かない。だけど背中を通して生き物の温かさを感じる。彼女にはちゃんと中身があって、生きていることに十分な根拠があった。
 ぼくの身体はどうだろう。血は通っているだろうか。少しは温かいだろうか。中身があるように思われているだろうか。

 朝、ぼくはベッドをこっそりぬけだして、食事を用意するために冷蔵庫を開いた。中は調味料と飲み物ばかりで、およそ朝食の準備ができるような食材はなかった。奥の方に買い置きしていた卵のパックを見つけたものの、無視できないくらい消費期限を過ぎていた。
 最近は自炊をせずにコンビニやスーパーの惣菜で済ませていたので、冷蔵庫を開くのは飲み物を取り出すときと、夏の暑さと湿気に弱いお菓子をしまうときくらいだった。エナジードリンクが立ち並ぶ隙間に、何日か前に一口だけ食べたショコラの袋があった。
 ぼくはスマートフォンにその光景を保存した。画像を見ると、思わず口元が斜めになる。
 やたら種類だけはある調味料。綺麗にラベルが見えるよう、隊列を揃えたエナジードリンク。そして食べかけのお菓子の袋。すべてを胃に詰め込んだとしても、きっと腹が膨れることはないだろう。
 冷蔵庫の中身はその人の本質を表す鏡だと思う。今度から自己紹介をするときはこの写真を見せればいいかもしれない。「ぼくはこういう人間なんです」「へぇ、人生楽しくなさそうですね」結構なことだ。
「なんでにやにやしてるんですか」
 とつぜん耳元に声がしたものだから、驚いてスマートフォンを落としてしまった。横を向くと、鴨川さんが半分閉じたまぶたを擦りながら顔をこちらに向けていた。大学構内や街では決して見せない少し荒れた肌と、普段より立体感が欠ける顔があらわになっている。
 ぼくの奇妙な姿に何を思ったのだろうか、彼女は何の感情も読み取れない、暗い穴を連想させる目でこちらを見ている。
「朝ご飯を作ろうとしたんですけど」
「はい」機械音声のような返事だった。
「でも、食材がないからちょっと困っちゃって」
「へぇ」彼女は無感情の声でそういうと、床に転がったスマートフォンをじっと見下ろしていた。
 咎められているわけでもないのに、ぼくと彼女の周りは取調べ室のように空気が張り詰めていた。
 蝉が鳴く音がかすかに聞こえる。閉めきった窓の向こう側はうだるような熱気が漂っている。今年は冷夏といわれていたが、八月になると例年通りの暑さになり、涼しかったはずの七月は既に遠い過去のものになっていた。
 鴨川さんはぼくが拾うよりも先に、寝起きとは思えない俊敏な動作でスマートフォンを回収した。競技かるたの選手みたいに床に落ちた端末を片手でさらった。
 液晶に表示された画像を一瞥すると、頭を傾げて画面をこちらに向けてきた。「ツイッターに投稿するんですか?」
「なんとなく撮っただけ。ちょっと面白い光景だったから」無理のある弁解だと思いつつ、声の調子に動揺が表れないように話した。
「そうですか」彼女はそういうと、無機質な冷蔵庫の画像に再び向き直った。しばらくすると、鴨川さんは僅かに口元を緩めた。「確かに面白いかも。モンスターしかない冷蔵庫ってなんかウケますね」
 彼女はぼくの要領を得ない返答に満足したのか、スマートフォンを素直に返してくれた。しかし、彼女の細い指からそれを引き抜くとき、ほんの少しだけ抵抗を感じた。
「いたずらがバレたときの犬みたいだったから、ちょっと気になりました」鴨川さんは片手で口元を隠して欠伸をする。薄いまぶたの向こうに潤いが戻る。ついさっきまで空洞のようだった隙間に、暖かい光が灯った。
「コンビニで何か買ってきましょうか」ぼくは何事もなかったようにいった。スマートフォンは後ろ手に電源を切った。スリープ状態ではロックされないが、電源を起動するときは暗証番号を要求される。彼女はおそらく知らない(はずだ)。
「朝はあまり食べないんですよ。飲み物とか軽いやつだけ」
「じゃあコーヒーでも飲みますか」キッチンと一体化した棚の引き出しを引くと、開封していないインスタントコーヒーがあった。
「飲みます」そう答えると、電気ポットに水を用意しているぼくの背後に立った。彼女は腹部を囲うように腕を回すと、身体を押し付けるようにしてぼくを抱きしめた。
 水道水がポットに溜まるまでのほんの少しの間、ぼくは自分の身体を固く締め付けている腕を撫でていた。寝起きにしては強い力だったものだから、なんだかシートベルトを装着しているような気分になった。
 白い肌を指がつたっていく。骨と皮の間にはほんの少ししか肉がない。折れそうなくらい細い手首。ぼくが絡ませた指に応えてくれる柔らかい手。彼女は繊細なパーツでできているようだった。
 彼女の身体は小さく華奢だ。それでもその姿から弱弱しさとか危うさを感じることはなかった。身体の中心から、どうやっても折れない芯のような、硬くてブレることのない柱のようなものを感じた。
 ポットに水が溜まると、ぼくは手を放して湯を沸かす準備をした。
 片手で持つには少し重くなったポットを台にセットしてスイッチを入れる。カップやスプーンを用意するためにキッチンの周囲を動き回る。天井のすぐ下に備え付けられた棚に手を伸ばして、小分けにされたコーヒーシュガーを取り出す。どこにしまったのか忘れてしまったコーヒーソーサーを探す。
 ぼくが作業している間、鴨川さんは断固として離れようとしなかった。背中に抱き着いた彼女はぼくの動きに合わせてキッチンをたどたどしく歩いた。また、ぼくが物を取り出したりしまったりしている間、いつでも手や指を身体に這わせていた。身体を点検するみたいに、絶えずどこかを撫でたり揉んだり引っ張ったりと、忙しなく動いていた。その子供じみた行為はぼくが二人分のコーヒーを淹れるまで続いた。
 温かいコーヒーがなみなみと注がれたカップを二つ持つと、さすがに彼女も遠慮をしたのか、ぼくをきつく締めていた両腕を解いて一歩後ろに引いた。
「食べ物が無いのが少し寂しいけど……」ぼくがいい終わらないうちに振り向くと、鴨川さんは冷蔵庫を開いて中を覗き込んでいた。冷蔵庫のライトが顔を照らしていた。「何もないですよ」
「ありますよ。食べ物」彼女はかがんで冷蔵庫の奥に手を突っ込むと、小さなお菓子の袋を取り出した。それは何日か前にコンビニで買った、一口食べてそれっきりのチョコだった。
「食べかけのやつだよ」
「それにしては美味しいですね」彼女は既に食べ始めていた。
 鴨川さんはしゃがんだままぼくを見上げている。口の中を動かして、満足げに微笑んでいる。冷蔵庫の明かりに照らされている彼女の顔を見ると、ぼくは胸の奥に疼くような痛みを感じた。
「こっちで飲みましょう」ぼくは口元を緩めてそういった。仮面みたいな笑顔にならないように、できるだけ自然に見える表情を作った。
 そっと立ち上がる鴨川さん。片手に袋を持ったままこちらにやって来る。妙にいたずらっぽい笑顔を浮かべているので何か企んでいるのだろうと思ったが、両手はコーヒーカップでふさがっていて、背後の扉は閉じていたので対処しようがなかった。
 彼女は袋からチョコを取り出すと、それを半分だけ咥えてこちらを見た。そして袋をキッチンに置くと、再びぼくの身体に腕を回してきた。シャツにチョコの染みがつかないように、胸のあたりに顎を置いてぼくを見上げている。
 口をもごもごさせて何か喋ろうとしているが、唇の間に物が挟まった状態では判然とした言葉は聞き取れない。だが、何をいったのか聞き取れなくても、だいたいの意図はわかる。
 ぼくは顔を下に向けて彼女のチョコを受取ろうとした。両手がふさがっているのでおかしな格好になったが、それでもなんとか口を近づけてチョコを迎えることができた。
 ほんの少しだけ彼女の唇に触れた。ぼくはチョコを受け取るとすぐに口を引っ込めてしまったので、その柔らかい感覚はすぐに消えてしまった。
 ぼくがもぐもぐと口を動かしている姿に満足したようで、鴨川さんはくすくす笑っていた。華奢な身体を震わせて、歯が見えないように片手で口を覆いながら、本当に楽しそうに笑っていた。
 これでいい、とぼくは思った。このやり取りがあれば、それだけで関係が続けられるだろうと思った。心の底からそう信じていた。
 彼女がドアを開けてくれたので、ぼくはベッドのそばに置かれた小さなテーブルにコーヒーを用意することができた。両手が解放されて一息つくと、半分開いているドアの間に鴨川さんが見えた。彼女はちょうどチョコの袋を冷蔵庫に入れたところだった。一緒に飲みましょう、と声をかけようとした。
 鴨川さんは冷蔵庫の中をじっと覗いている。さっきまでの笑顔は姿を潜めて、あの空洞のような目で明かりの中を見つめていた。
 ぼくはどうしても声をかけることができなかった。
 胸の奥がまたひりつくような痛みを発していた。

――了

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