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運命

                             今田 拓見



 大東京、東京のどこかと申しませぬが、大金持ちの御夫妻がいたのであります。何をもって大金持ちといえるのかと申しますと、このご夫婦の家はとても大きい。四階建てのビルディングで、尚且つ、エレベーター付き。勤勉な旦那様に献身たる奥方。いやあ、とても羨ましい。
 奥方はおっしゃった。
「あたくし、孫に会いたいわ」
 旦那様はお答えになる。
「おお、そうか。」
 それから以下のような会話が続きます。
「おおそうか。行って良いぞ。」
「あなた、何かうれしそうで御座いますね。」
「へえ、そうかい。」
「そうですわね。こちらの、スマートフォンというのでしょうか。答えはそこに書いてそうですね。」
「何を失礼な(語気を強めに)。」
「まあ良いわン。それなら、あたくし、息子んとこに行っときます。」
 こうして、奥様は息子さんのところに行くことになりました。途中まで旦那様が付き添い、車の運転は執事の山田に任せると。さあ、これから家を出よう。
 そうなろうとしたところに、奥様の携帯の着メロが鳴り出したのでございます。
「ジャジャジャジャーン」
 「ジャジャジャジャーン」だけじゃあ分かんないですか。この曲の名は交響曲第五番一楽章、わが国では一般に「運命」と呼ばれているのであります。よくコマーシャルで使われ、テレビのバラエティー番組でもよく耳にすると思われます。奥様は何故か自分の運命を感じるからと、この曲を着メロにしたわけでございます。
「何ですか(語気を強めに)、あなた」
「大変だ(慌てている)。お前。エスカレーター、エスカレーターが壊れているんだ」
「はア(あきれた調子で)。エスカレーターとな。そんな物、内にありましたか」
「嗚呼、違う、違う、違う。エレベーターが壊れてるんだ。助けてくれ。頼む。業者をお願いする」
「階段で下りれば」
「それどころじゃないんだ(語気を強め)。あっ、(プツン)」
「あら、携帯切れたらしいわね。時間がないわ、早く行きましょう」
 その時、山田が言った。嗚呼、これぞ運命の分かれ道。
「奥様、旦那様を置いて行っていいのですか」
 しかし、奥様は冷たく言いました。
「何を言うのよ。あの人は、あたしがいない間に、一号さん、二号さんの所に行っているのよ。知ったこっちゃない」
 もう一回言うようでありますが、奥様は運命を感じるからと着メロを「運命」にしたのでございます。奥様は普段、固定電話しか使いません。そして、この「運命」という曲は奥様にとって人生で運命的な、またはとても強い印象に残る出来事が起きる前に、奥様の耳に入るのでございます。ということは普通、奥様の耳には入らないのです。私は奥様からそういう話を幾つか聞いております。
 奥様は女子高生だったとき、音楽が超一流だったそうでございます。それである時、音楽の授業で例の「運命」という曲を聴かされました。するとですね、奥様のおじい様が車にカコーンとはねられて意識不明の重体、そのまま植物人間に。
 またある時、その時は大学生だったらしい。奥様は一人のイケメンと付き合っていたらしいです。そんなときに喫茶店だったのか忘れましたが、また例の曲を彼氏と聴いてしまったのです。その彼氏は彼女に分厚い本なんか持ってきて、「自由だ、正義だ、どうちゃらこうちゃら」なんて話していましたが、なんか変なことして仲間と御用になったのでございます。変な事とは何かというと、最近の安保なんとかみたいな、私にはむつかしい話は分かりません。
 その後、奥様は旦那様と出会われました。
それはレコードを聴いてた時でございます。ちょうどその時、野球ボールがポーンと奥様の部屋に直撃した模様でございます。その野球ボールの持ち主のお兄さんがなんと今の旦那様とのことでございます。
 その後、他にもいろいろなエピソードがありますが、これで最後にしておきましょう。奥様は今の旦那様と結婚をし、旦那様は見えないところで支えました。その結果、旦那様は順調に出世し、独立して一国一城の主となり、今のお家を建てたのでございます。そんなある日、奥様は聴いてしまったのですね、「ジャジャジャジャーン」を。それでも奥様は普段通りの生活を楽しんでおりましたが、旦那様の浮気を知ってしまったのですね。愛人一号、二号がいたんだとか。この時、奥様の理性は吹っ飛んだらしいですね。
 元に戻りましょうか。奥様は車の前のほうに座りました。運転するのは執事の山田です。車の中では、さだまさしの精霊流しが流れています。まあ、何でしょうか。何とも言えぬ、悲しくとも素敵なメロディーです。
 奥様は焦っておいででございます。車が混んでいるのです。
「まだなの。まだっ」
「大丈夫です。間に合わせます」
 彼女は苛々してキーキー言っております。思わず「このハゲー」と言ってしまいそうな勢いです。そうです山田はハゲなのです。
 それでも山田は冷静に車をさばいていました。そんなときに、また
「ジャジャジャジャーン」
 嫌な音でございます。奥様はすかさず携帯をとり、耳に当て通話をなされるのでございます。
 執事の山田はこの「ジャジャジャジャーン」が嫌いでした。なぜならば、この音を聴くと、なぜか山田の身に不幸が起きるのでございます。山田の手は震えていましたが、何とか運転していたのでございます。
奥様は話します。
「えーっと、まだ羽田に着かないのヨ。時間は刻刻と過ぎているのに。遅れるかもしれないわ」
「キーッ(車のブレーキ音)」
「また山田、事故にあいそう」
 執事の山田は裏道を見つけました。最早この道を通らなければ間に合わないでしょう。山田はこの道を何とか通過しました。
 執事の山田の懸命の努力により、無事、時間に間に合いました。奥様はお子様に携帯で連絡して、携帯の電源を切りました。
 移動は飛行機でおよそ三時間。最近の飛行機は素晴らしい。あの耳障りの悪いキーンという音が聞こえないのです。奥様はイヤホンをつけて音楽を聴きながら、スヤスヤと寝ていました。気になることと言いますは、例の「ジャジャジャジャーン」というのも流れていたのですね。
 奥様は息子様と目的地の空港の前で待ち合わせ。そして親孝行の息子様が、奥様を車に乗せて、自分の家に案内するという算段でございます。息子様は言われた。
「最近どうなんだい。親父は」
「ああ、元気よ、馬鹿馬鹿しいくらい。エレベーターに閉じ込められて餓死すればいいのに。」
「ああ、そっか。最近エレベーターを取り付けたんだった。」
「ジャジャジャジャーン。」
「このテレビ番組、面白いわね。」
「ああ、最近始まったんだ。」
 息子宅に着く。何年ぶりでしょうか。可愛い孫達との再会。奥様はもう一生不幸になってもいいと思いました。
「おばあちゃま。ありがとう。」
 お孫様は可愛らしくこう言いました。この孫は三番目でしょうか。一番上のお孫様は女子大学生で留学しています。二番目は男子中学生、三番目は幼稚園に入ったばかりの男の子。四番目は生まれたばかりの乳飲み子です。
 奥様は可愛らしい孫に囲まれ、生きていて良かったとしみじみと思っていました。
 ひと月とちょっと、奥様は息子様の家にいました。奥様は幸せの絶頂でした。四番目のお孫様が初めて立ったのです。そして思いました。
「そろそろ家に帰ってもいいわね。」
 奥様は携帯の電源を切りっぱなしでした。久しぶりに携帯の電源を付けました。
「あたしそろそろ帰るわ。あれ、でない。」
 何故か知らないけれども旦那様は返事しませんでした。するとまた着メロが鳴ったのです。
「ジャジャジャジャーン」
「あっ、もしもし。ええ、主人が行方不明ですって。ひと月も。それは大変ですわ。分かりました。すぐに帰ります。」
 奥様は帰りの支度をして、急いで帰りました。そしてエレベーターで上にあがろうとすると、
「あらーん。壊れてるわね。なんてポンコツなんでしょう。業者さんでも呼びましょうか。」
 業者さんが来たのはいいとして、まさか警察がくるなんて。そして奥様はある事情でこのビルディングを出て行くのでございます。
 ええと、ヴェートーベンは素晴らしいですね。巡査さん話は以上です。



 大東京、東京のどことは知らないが、大きなビルディングが立っていて、そこにご主人、奥様、そして複数ものお手伝いさんが住んでいた。というところで、そこの家に移る少し前の話をしよう。
 何よりそこの旦那は人使いが荒く、あまりお手伝いさんに好かれてはいなかった。
 また、旦那は人間不信で数多くのカギを持っていた。
 旦那は音楽を好んでおり、普段は自分の部屋で、クラシックやジャズの音楽を聴いていた。
 そんなある日、音楽を聴いていると「ジャジャジャジャーン」と聞こえた。
「おい、下田。なぜこんな不吉な曲を選択する。俺はいつもジャズを聴いているだろう。特に十二番街のラグを」
「あっ、すいません」
 というときに、ふと、旦那の頭の中に「運命」という二文字が思い浮かんだ。
「ちょうどあそこの土地の値が安くなってきている。これはチャンスに違いない。これは運命だ」
 下田も何かチャンスというものを感じていた。何をするチャンスなのかはあえて触れないでおこう。ただ言えるのは下田が旦那を深く恨んでいたということである。
「旦那様、どのようなものになさいましょうか」
「四階建てがいいな。そして、エレベーター付き」
「わかりましたが、その他は」
「それは業者に相談して決めよう」
 その後、業者に依頼して、設計図なるものを見ることになる。嗚呼、これは素晴らしいということで一応決定となった。
「えーっと、この邸宅ができるのに半年はかかりますがいかがでしょうか」
業者は言った。
「大丈夫だ、問題ない。」
 旦那は答える。
 土地を購入し、一応段取りは整った。
 業者は下田に色々と相談した。下田はその都度、指示を出す。
 ある時下田は建物の設計図なるものを見た。それを見た下田はコソコソといろいろと小細工するのであった。
 その後の設計図を見ると、元々無かった、地下一階があって、エレベーターが下まで伸びているという風になっている。その他にも細工を施しているが、細かいところはわからない。
 この頃、夫婦の間に不協和音が鳴り響いていた。
 下田は言う。
「奥様、探偵を雇ってみたらどうでしょうか」
「探偵ね」
「意外とあっさりと証拠が出てきたりして」
「かもしれないわね。わかったわ」
 ということで奥様は探偵を雇うことにした。一方、下田は常日頃の仕事に従事しつつ、旦那の粗を探していた。
そんなある日、例の着メロが、
「ジャジャジャジャーン」
「もしもし」
「私、あなたの探偵ですが」
「まさか」
「そのまさかですよ」
 奥様は探偵事務所に出向き、事の真相を知る。成程、下田の言うとおりだ。
 さらに下田は旦那の机を探った。
まあ、そうしたら証拠写真が出てくること出てくること。奥様の頭がキーキーするわけだ。
 奥様は旦那に問い詰めた。
「あなた、浮気をしたんじゃないの」
「証拠は」
「これ」
「・・・・・」
 旦那逃げる。逃げた後は十二番街のラグをレコードでとにかく聴き続けた。
 時間は過ぎゆく。建物の完成は近い。夫妻の中はますます険悪になる。半年近くたって奥様は孫に会いたくなるのであった。
「息子のとこはどうしてるのでしょうかねえ」
「上手くやってると聞いたぞ」
「遊びに来たいものですねえ」
「まあ、いずれ時が来るだろ」
 そうしているうちに一応新居は完成した。何と言おうか、とても立派である。ところがどうもエレベーターの調子がおかしいと見えて、まだエレベーターにおいての作業は続いていた。
 奥様と旦那はこの時ばかりは仲が良かった。
 まあ、それからこの邸宅で何日もいつもと同じように過ごしていた。まあ、下田も山田も同じように働いており、その他のお手伝いさんもあいも変わらずといった感じである。
 旦那の書斎には携帯電話の充電器があった。充電器は旦那の机の上に置いてあり、机の後ろのほうの、手を伸ばしにくいコンセントにつながっていた。下田はそれを引っこ抜いた。
 それに旦那はそこまで充電するような人間でもなかったため気づかなかった。
 そして、やっとエレベーターも完成した。
その時に下田は奥様にこう言った。
「お孫様に会いとう、御座いませんか」
「会いたいわねえ」
「飛行機の予約でも致しましょうか」
「それはありがたいわ」
 下田はすぐに飛行機の予約を行ったのであった。
 そして、奥方はおっしゃった。
「あたくし、孫に会いたいわ」
 旦那様はお答えになる。
「おお、そうか。」
 それから以下のような会話が続きます。
「おおそうか。行って良いぞ。」
「あなた、何かうれしそうで御座いますね。」
「へえ、そうかい。」
「そうですわね。こちらの、スマートフォンというのでしょうか。答えはそこに書いてそうですね。」
「何を失礼な(語気を強めに)。」
「まあ良いわン。それなら、あたくし、息子んとこに行っときます。」
 旦那は機嫌よく、奥様を送っていこうと考えた。その時すでに奥様はエレベーターで降りていた。
 旦那は下田に連れられ四回のエレベーターの入り口に立たされた。
下田は言う
「私は階段で降りますので、旦那様はエレベーターでお降りください」
「おー、分かった」
 旦那はエレベーターで降りることになった。すると旦那の乗っているエレベーターは何故か地下一階のほうに降りていくのであった。そして、下田はこの家のお手伝いさん全員に
「一月とちょっと休みでございます。おっと、下村は留守番」
と言ったため、大勢のお手伝いさんは帰っていった。
 その後、下田は付き添いで奥さんについていき、山田は車の運転をすることとなる。
 そうなろうとしていた時に、
「ジャジャジャジャーン」
「うるさいわねえ」
 そう言って奥様は電話する。
「何ですか(語気を強めに)、あなた」
「大変だ(慌てている)。お前。エスカレーター、エスカレーターが壊れているんだ」
「はア(あきれた調子で)。エスカレーターとな。そんな物、内にありましたか」
「嗚呼、違う、違う、違う。エレベーターが壊れてるんだ。助けてくれ。頼む。業者をお願いする」
「階段で下りれば」
「それどころじゃないんだ(語気を強め)。あっ、(プツン)」
旦那の携帯のバッテリーは充電不足だったのだろう。すぐに切れてしまった。その時に奥様は時間に間に合わないのではと焦っていた。
「あら、携帯切れたらしいわね。時間がないわ、早く行きましょう」
 山田は下田をジッと見た。何かを感づいていたらしい。
「奥様、旦那様を置いて行っていいのですか。」
 奥様は冷たく言った
「何を言うのよ。あの人は、あたしがいない間に、一号さん、二号さんの所に行っているのよ。知ったこっちゃない」
 その後羽田に着き、奥様と下田は降りて飛行機に乗る。行先は九州。
 それから一月ちょっとして帰ると、奥様はエレベーターが壊れているのを不審がった。そこで業者さんを呼んだ。
 するとまあ、誰かさんが死んでいるではありませんか。エレベーターの内部には、
「下田、妻」
 なんて書いているため、警察がやって来て、容疑者として二人を御用にしたとのこと。


「ジャジャジャジャーン」
 突然奥様の携帯に着メロが流れた。奥様は苛々しながら電話に出る。私、山田は思わず手が震えました。
「何ですか(語気を強めに)、あなた」
 どうも旦那様からみたいです。
「はア(あきれた調子で)。エスカレーターとな。そんな物、内にありましたか」
 旦那様に何か大変なことがあったのでは。
「階段で下りれば」
 その後旦那様の携帯が切れます。
「あら、携帯切れたらしいわね。時間がないわ、早く行きましょう」
 山田はその時、まさか旦那様に大事があるのではと思って奥様に言いました。そして、この日の下田の顔はとても気味が悪かったのです。
「奥様、旦那様を置いて行っていいのですか」
 しかし、奥様は冷たく言いました。
「何を言うのよ。あの人は、あたしがいない間に、一号さん、二号さんの所に行っているのよ。知ったこっちゃない」
 奥様のあまりの迫力にびっくりして、私はやむなく車の運転運転することになりました。後ろには薄気味悪い下田がいます。彼は何故かイヤホンを耳につけていました。いつもはしないのに。
 私は車の運転に困っていました。この日は車が異常に多かった。交通渋滞が何故か多発していたのです。
 奥様は苛々して私に「このハゲー」と今にも最近の流行語大賞にノミネートされそうな言葉を言いそうでした。なぜならば見ての通り私はハゲだからです。
 後ろでは下田が気色悪い笑顔でイヤホンなんかを聴いています。何の音楽でしょうかね。謎です。
 私は高速道路なんか使っていましたけど、どうも高速道路の役目を果たしてないな、と思いました。
 それで私は高速道路を降りました。確かに普通の道のほうが空いてはいました。しかし、それでも車の数が多い。これでは空港に間に合わないのではないかと思いました。
 そんな時に
「ジャジャジャジャーン」
 この曲は本当に嫌いです。いいことがないのです。この曲が耳に入るときはいつも。
「はい、もしもし。あっ均(息子の名)ね。まだ空港に着かないのよ。どれもこれもハゲの山田のお蔭よ。全く。切るわ」
 また、奥様は苛々してキーキー。私は裏道を通ることにしました。とても狭い道でした。しかし、近道です。私は途中で何度も事故に遭いそうになりながら、何とかこの道を通り抜けました。
 その後はすんなりと運転することができ、奥様と下田を送り届けることができました。
 山田はその後、ゆっくりと正規の道を通って、旦那様の家に戻りました。
 そして車を車庫に入れて、あの家のエレベーターのもとに向かおうとしたときに携帯電話から十二番街のラグが聞こえるのであります。山田の着信メロディーです。山田は電話に出ました。
「おお、信子(山田の娘)か。どうしたんだ。」
「お母さんが、お母さんが…」
「お母さんがどうしたんだ」
「死んだの」
「噓だ。こないだ退院間近と言っていただろう」
「それがね、病気がまた再発しちゃって、そして…、ううん」
「そんなー。救いがない。酷過ぎる」
 山田は急いで、我が家に帰りました。すると私の嫁が白装束を着て眠っているではありませんか。
 山田はその姿を見て大泣き、大号泣しました。
 それから葬式は数日続きました。大勢の人たちが参加してくれてありがたかったです。
 それで喪主としていろいろな仕事をこなし。私は疲れ果てました。
それでも沢山の人たちが参加してくれて。
 やがて私は火葬場の前に立っていた。すべてを見通して、私はぐったりした。
 ぐったりして、起き上がると、二週間もたっておりまして、そのあと倒れて入院しました。
 そして、ちょうど一月して退院したら、まさかあんな事があったなんて。本当にどうしようもないですね。
 ただ、あいつ(下田)の気色悪さは忘れられません。


 旦那は携帯をコートのポケットに入れ、外に出る準備をした。何故かその時、コートの懐に小さな懐中電灯が入っていた。
「わしはエレベーターで降りようと思うが、お前はどうする」
 下田に尋ねる。
 下田答える。
「私は階段で降りようと思います。旦那様はお先にどうぞ」
「分かった」
 旦那は言われるがまま、エレベーターに乗る。下田は自分の言ったように階段を降りる。彼はぼそりと言う。
「下村、あいつは馬鹿だから、時と場合によっては、あいつに罪をかぶせればいいだろう」
 エレベーターのドアは今にも閉まろうとしている。旦那は何も考えず「閉まる」のボタンを押す。そして、閉まった。
 すると何故か知らないが、エレベーターは下に降りる。落ちるという表現が正しいかもしれない。地下一階まで落ちた。
 旦那は混乱した。そして「開く」ボタンを押した。ドアは開かなかった。
 旦那は益々混乱した。まさかのエレベーターの故障である。驚くのも無理はない。
「そうだ。そのためのボタンがあるではないか」
 旦那はふと思いつき、「非常用」ボタンを押した。効かなかった。すると突然、エレベーターの電灯が消えた。
 旦那は自分の携帯を見た。バッテリーの容量は残り一パーセント。携帯が使えなくなるのも時間の問題である。彼は最後をこれに賭けることにした。
 一階の奥様の携帯に着メロが鳴る。
「ジャジャジャジャーン」
「何ですか(語気を強めに)、あなた」
「大変だ(慌てている)。お前。エスカレーター、エスカレーターが壊れているんだ」
「はア(あきれた調子で)。エスカレーターとな。そんな物、うちにありましたか」
「嗚呼、違う、違う、違う。エレベーターが壊れてるんだ。助けてくれ。頼む。業者をお願いする」
「階段で下りれば」
「それどころじゃないんだ(語気を強め)。あっ、(プツン)」
「あら、携帯切れたらしいわね。時間がないわ、早く行きましょう」
 その時に勘のいい山田は「旦那様を呼びましょうか」などと言う。
 すると奥様は答えた。
「何を言うのよ。あの人は、あたしがいない間に、一号さん、二号さんの所に行っているのよ。知ったこっちゃない」
 こうして最後の希望は途切れた。旦那は愕然としていた。暗闇の中、彼はエレベーターの絨毯をガサゴソとし始めた。すると「カチャカチャ」なんて機械のような音が聞こえる。
 その時、彼は思い出して自分のコートの中身を探る。すると懐中電灯があった。懐中電灯の光を照らすと、その機会の正体が分かってきた。なんと、それ盗聴器だったのである。彼はイヤホンをつけていた男の名を思い出した。そいつの名は下田だったのである。
 彼は怒りに震えていた。まさかあんなのにはめられるなんて。
 旦那は考えた、イヤホンを付けていたこの男は、盗聴気を通して、自分が慌てふためいた時の声を聴いていたのではないか。
 旦那は苛々しながら一日過ごすことになった。
 喉が渇く、腹は減る、など散々だった。
情報通信手段は全くであった。
 エレベーターの中は何故か熱がたまり、冬なのに夏のようになった。
 あまりの暑さで苦しみ、尚且つ喉の渇きもある。彼はヒーヒーもがき苦しんだ。
 二日もたつと、動く気力がなくなる。最早、死ぬのを待つしかないのだろう。
 旦那は二人を許せないと思った。そしてコートの中を一生懸命探した。
 すると懐中電灯のほかにマーカーが見つかった。
「ようし」
 旦那は懐中電灯をつけてマーカーで書いた。
「妻、下田」
 旦那はバタリと倒れた。もう動ききれなかった。
 旦那はそのままずっと同じ態勢でいた。もうすぐ天国ではないかと思いながら苦しんだ。
 人間、飲まず食わずの状態の限界は三日という俗説があるとのこと。旦那はおそらく一週間ほど持った。
 盗聴していた下田は死んだことに気が付いたのか、今度はイヤホンで「運命」を聴くのであった。
 その後、旦那が見つかるのは一月後のことである。

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