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百害あって一利あり

一人の人間が習慣的に大量の煙草を吸うようになるには様々な理由がある。理由は様々だが、結果は大抵同じだ。

煙草というものは、実に不思議な存在である。体に悪いということは、百も承知している。その煙は、肺を黒く塗りつぶし、枯れ枝のごとく血管を細め、寿命を淡々と、ゆっくりと縮める。百害あって一利なしである。

また、そのパッケージには「喫煙は、様々な疾病になる危険性を高め、あなたの健康寿命を短くするおそれがあります」などと仰々しく書いてあるが、これを見て「ああ、煙草というの体に悪いのか、やはり遠慮しておこう」と言うような聡明叡智な喫煙者など、この世に存在しない。そもそも、このような文言は、喫煙者の目に入ってすらおらず、我々がパッケージ上で、興味のあるものといえば、せいぜい、ニコチンの含有量くらいである。

しかし、私にとって ──あるいは私のような人間にとって── 煙草というのは、隠れ蓑のようなものである。不安に追われ、もうどうにもならぬという時、ふと煙草に火をつけると、一時の安静を得ることができる。心に渦巻く、不安や焦燥も、煙とともに、ふわりと消え去るように錯覚する。もちろん、それが錯覚であることくらい、十分に分かっている。それでも、やがて消えるその煙は、私にとっては、苦しい現実に垂らされた、蜘蛛の糸なのである。

世間は煙草を嫌うが、その百害こそ、私にとっては救いそのものなのである。自分の体を、少しずつ蝕むその行為は、自傷であると同時に、自己肯定でもあるのだ。どうせ、人生なんてのは儚くて、最後は皆惨めに散っていく。それならせめて、自分の選んだ方法で、自ら終わりへと近づいてやろう、という気概である。

そうして、ここまで書き終えた私は、三本目の煙草に火をつけた。


雪は莟を持つた沈丁花の下に都会の煤煙によごれてゐた。それは何か僕の心に傷ましさを与へる眺めだつた。僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考へてゐた。

── 「歯車」 芥川龍之介


*喫煙は、様々な疾病になる危険性を高め、あなたの健康寿命を短くするおそれがあります

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