見出し画像

価値のある文章とは

 教科書に掲載されている数多の名著の数々を、実に多くの人が触れたことがあるだろう。夏目漱石、芥川龍之介、石川啄木、パッと思いつくものでも枚挙にいとまがないほどの著作物のフルコース。それが国語の教科書だ。

 この世には多くの小説、コラム、エッセイなどが溢れかえっている。インターネットを利用して個人が簡単に情報を発信できる時代で、それを代表する媒体が「文字」であり、そこから紡ぎ出されるのは当然ながら「文章」だ。
 私も曲がりなりにも文筆家を目指している手前、公募用の作品やnoteのような息抜き的に書くもの、趣味でニヤニヤしながら余暇に書くものなど、いくつもの文章を並走して書いている。そのため、例えば「評価されるような文章を書きたい」とか、「価値のある文章を書きたい」と思うことは常である。

 では、具体的に言うと何がその「価値のある文章」となるのか。これを端的に一言で表すのは非常に難しく、仮にそれができたとしても哲学的な要素を含んでしまうことだろう。
 私はおよそ10年近く、毎日何かしらの文章を書き、触れる生活をしている。他の人よりも少しばかりこの手の「文章」に対しては知見がある方だと自負しているが、そこで考えた最も納得のいくものがある。

 「文章」において明確な価値基準はない。ある程度論理的に「読みやすい」、「伝わりやすい」などはあれど、絶対的な価値基準はなく、どれほど多くの読み手が「価値がある」と判断するかが価値を左右する。

 若干酷薄というか、投げやりな考え方だと思う人も多いだろう。
 私自身、そう思う。しかしながら、これは決して「ひとまず受ける文章を作ろう」という話ではなくて、むしろその逆のことを念頭に置いている。

 私は自分の文章が好きだ。なんなら書き始めの稚拙極まりない文章、構成、物語、どれをとっても大好きと言い張れる。特に物語なんて「これ以上好きな物語はない」と断言できるほどの入れ込みっぷりである。
 はたから見れば自画自賛のナルシストなのだが、これほどまでに文章が飽和した世界では、実際その程度のほうが楽しい限りなのだと思う。

 確かに客観的に見て「価値のある文章」を作ることは大切だと思う。自分の気持ちを正確に伝えること、多くの人間が自分の主張を噛み砕いて咀嚼できるような文章はまさに価値のある文章だと思う。
 だけど、それが自分の中で楽しいかどうかと言うのはまた別の話だと思う。楽しくないことは決して長くは続かず、ともすれば「文章を書く」という行為を嫌いになってしまうことにもなるかもしれない。

 だから私は、お金を取らずに文章を書くときは必ず「自分がしたいように書く」ことにしている。無料でこの記事が閲覧できる以上、自分の思ったことを素直に書くし、それに対して読み手がどのように感じるのも自由だと思う。

 では、もし仮に「お金を取る」事になったらどうするのだろうか?
 ここにおいても基本的には意見は変わらない。自分の書きたいこと、表現したいこと、好きな物語を綴るだけ。ただ一つ注意したいのは、そこに一定のクオリティと責任を飲み込んだ上で表現すること、だろう。

 著作物として世の中に流通するということは、作家はその表現によって起こりうる多くの責任を負うことになる。その責任を全うすることができるのは、ある意味でプロの作家に与えられる一つの責務なのだろう。

 しかしそれがあったとしても、私は多くの作家が自らの好きに正直な文章を書いていて欲しい。
 文章とは好き嫌いの激しいものである。凝り固まった文学的表現が大好きという人もいれば、その逆に擬音やわかり易さに寄ったものが好きだという人も千差万別だ。それぞれに独立した価値があるものだと思う。どのように咀嚼するかはそれを受け取る人によって変わるだろう。文章における好き嫌いは、味覚のようなものである。好みに理由はない。自分が好きかどうかという極めてシンプルな問答だ。

 もし私の文章が世間的に見て「ゲテモノ」ならば、私はそのゲテモノを貫きたい。それこそがいつか価値になるものなら万々歳、そうでなくても楽しければそれで良い。
 いわば多くの人が判断する「価値あるもの」は大抵の場合、その時々の社会情勢に合致しているかということが大きいのだから。だから、もし仮に私の文章が世間的に認めらて、価値のあるものだと言われるようになっても決して勘違いしてはいけない。
 私の文章に対して与えられた「価値」は常に変化し、価値があると断定されているのはその時の価値観に合致しているだけなのだと。決して絶対的な価値がそこにあると思いこんではならない。

 自戒というよりかは厭世的な解釈の一つかもしれない。
 しかしこれは逆説的に言えば、絶対的に無価値と言える代物もないのだ。同じように作品に打ち込む人がいて、「自分がしていることはなんて無価値なんだろう」と打ちのめされる人がいても、そんなことを考える必要はない。
 我々の作品に価値を与えるのは、ひとえにその時々の流れであり、言ってしまえば「運」なのだから。無価値になることなどありえない。絶対的に価値があることもない。

 だから楽しみながら、そしていずれ価値がつくことを思い馳せて今を生きる。創作者としてできることは、それくらいしかないのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?