創作の独り言 面白いの模索
久しぶりの独り言ということで、少し書き方を一変させてみる。
まず独り言なので、丁寧語ではなく常態でそのまま書くことにする。薄々気がついていたが、私は丁寧な文体よりも投げ捨てるような常態のほうが性に合っていると思う。
私は意外に多趣味な方だと自覚している。小説の他にも、ゲーム、読書、散歩、料理、カラオケなどなど、好き好んでしているものは振り返ってみると多かったりする。
どれも単純に「面白いから」しているのだが、よくよく考えてみればこの「面白い」というのはどういうことを意味しているのだろう。
特に私の場合、小説を書いていて一作品に付き何度も「これ面白い?」と思うことがある。ひとまず自分が面白いと心に唱えて書き上げることが多いのだが、本当につまらないものは残念ながら完成に漕ぎ着けることなく終了してしまうこともある。
その場合、本当に「面白くなかった」のだと思う。映画でも、本でも、漫画でも度々あるが、つまらないと思ってしまうものは本当に途中でやめてしまうのが私の悪いところだ。
しかし、現実問題「面白くないもの」に対して人は時間を使わない。私だってそうだし、他の人であれば尚の事だと思う。
創作をするものとして、この「面白い」ということにある程度当たりをつけておくのは大切な事かもしれない。そうと決まれば早速、私が思っている「面白い」ということはどういうことなのだろう。ひとつひとつ私の思考と合わせてセルフ考察していこう。
1.「面白さ」は「理解」という仮説
「面白い」ということに対して、私はすぐに「こういう奴が面白い!」と言えなかったので、逆説から考えてみることにする。
徹底的に「面白くない」ものを考えると的を絞りやすいと思ったからなのだが、厄介なことに私が「面白くない」と判断するものは二分しているようだ。
ひとつは「先の展開が読めてしまうこと」だ。
しかしこれは本質的な「面白くなさ」とはズレてしまっている気がする。先の展開が読めているものであっても、面白いものは無数に存在している。たとえ使い古されたテンプレートを使用していても、「きっとこれはこうなるんだな」とか思いながらも、流麗なシナリオ構成や伏線の回収に目をやってしまい、「先の展開が読めても面白い」ということもある。
当然ながら自分の展開の先読みと、全く同じようなことが起きてしまった場合はこの限りではない。時折、本当になんのひねりもない映画や物語を見てしまったときにこんなことが言えて、「本当に予想したとおりになった」場合に関しては、面白くないと烙印を押すこともある。
これは「先の展開を事前に知ってしまう」ということに起因するものであり、所見の物語に対して抱く「面白さ」ではなくて、「その作品と類似したものを知っている」からこそ面白くないのである。
つまり、本質的な「面白さ」が損なわれているわけではない可能性もあるのだ。これでは、生産的な考察ができているとは言えない。
では、初見の作品に対して抱く「面白くなさ」は何があるのだろうか。
そうなるとき、私がまっさきに挙げたいのは「自分の知らないジャンルの作品」だと思う。
これは作品とは少し違うかもしれないが、私は「スポーツ観戦」に対してあまり関心がない。どれだけ世間が盛り上がっていても、ルールを最低限しか知っていないので、見ているだけだとさっぱり面白くない。
この「面白くなさ」はどこから来ているのだろう。
これだけ多くの人間を魅了する「スポーツ観戦」に対して、どうして私はこれほどまでに興味惹かれないのだろうか。少なくとも沢山の人が見ているのだから、共通して「面白い」要素があるのは事実なのだろうが、生憎私には刺さらない。
つまり、私と世間一般では決定的に違っている思考パターンがあるのだろう。自分もスポーツ観戦を面白いと思っている人と同じような要素を持っていれば同じように面白いと思うことができるはずだ。
それはなんだろうか。
ここで振り返るが、私は生まれてこの方「スポーツ」なるものを経験したことがほぼない。小さいときに水泳だけ体験したことがあるが、本当に一瞬だった。
これは「スポーツ」に関することを考える上では大切な要素だろう。
前提として私には「スポーツ」に関する知識や、その場の空気感、選手の知名度などの基本的な情報が存在しない。つまり、「スポーツ観戦」で行われている情報を処理するほどの知識がないことになる。
私が「面白くない」と判断する決定的な要素はここではないだろうか。
確かに、「理解できないけど面白い」というものはなかなか存在しない。ホラー映画やミステリー映画などの「理解できなかったけど考察が面白い」という場合もあるが、それは「考察することができる」程度の基本的な情報が入っているからであって、例えばその作品を見る人の知的水準が提示される基本的な情報を理解できない場合、その面白さは根本的に成立しないだろう。
これと同じことが私には起きているのではないだろうか。
「スポーツ」が持っている基本的な情報を理解できていない、知識として入っていないからこそ、そこで行われるやり取りの面白さにさっぱり気がつかず、「何しているのかわからないや」と切り捨てている結果が「面白くない」という感想に行き着いているのだとすると、大衆がこぞってスポーツ観戦に足を運ぶことに合点がいく。
つまり、「面白い」は最低でもその作品や物事に対して基本情報を理解していなくてはいけなくて、そこから自己的に発展させるものもある、ことがわかる。
作品について「理解」を深めることが面白さとして掘り下げられるのであれば、人は「面白い」と思っていくのかもしれない。
2.「理解できる」ということは人にとっては快楽になりうる。
何かについて理解する、ということは非常に心地よい。
少なくとも私は何かしらの知識を得て、それを理解という形で咀嚼することに喜びを感じるし、そこに「面白さ」を感じている。
作品に対する「面白さ」もこれに通づるものがあるかもしれない。
非常に緻密に作られたストーリーがあるとして、そこで展開される物語を私たちは「理解する」ことで初めて面白さが溢れ出てくるものだとすると、非常に納得できると私は感じている。
では、物語を作る上で「理解させる」というのはどういうことなのか。
これは物語を考える上で最も注視しなければならないことである。そもそもそも受け手が理解できない物語は、作品として前提から崩壊していると言っていい。口悪くいうのであれば「自己満足」の毛色が強くなってしまうだろう。
だからこそ、フィクションにおけるリアリティの創出は重要になる。現代社会を舞台にするのであればまだしも、ファンタジックな世界観で作品を作る場合は、その土台作りが非常に大切になる。
物語は展開される世界が、我々の過ごしている世界とは異なる領域に存在しているからこそ、それを理解させる順序、舞台装置、展開されるストーリーが一つ一つ独立して重要なものとなる。
全ては「作品の理解」という珠玉の快楽のために、そしてその中に織り込まれる自身の意志、考え方、気持ち、多くのものへの反発、面白さの中に練り込まれる「本質」を理解させることで、別次元の「面白さ」を作り出される。
創作とは、ある意味そのような「理解させる」ことに様々な技巧を凝らして、卓越した存在を作り出すことかもしれない。
そこにあるのは単純に人の「理解」への悦楽と、「面白さ」の本質が繋がっているからなのかもしれない。
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