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「理解できない」を理解してみる

 私は夢に向かって努力している人を見ると、ついつい応援したくなる。あえてこんなことを明言する必要もないほどのことだと思っているのだが、中には、それに対して嘲笑を浴びせる者、頑張っている人に対して投げ銭などの応援を行うと「理解できない」と言い出す者、まさに人というのは十人十色だなと思えるようなことに出くわすことがある。

 正直そんな人を見ていると気分がいいものではないが、その人の人格が致命的に問題であると言い切ることもできないのが難しいところである。
 これを読んでいる人も少なからず「あの人のすることは理解できない」と思っている人がいるだろう。今日はその「理解できない」という感覚について考えてみたい。

 ここでは「理解できない」ということについて少し考えてみる。「理解できないからこそ文句を言う」、「頑張っている人を嘲笑する」、それはすべて行動に対しての理解が乏しいからであると私は考えている。ではその「理解できない」というものは何なのか。それを考えてみる。

 結論から言うと、「理解できない」という感覚は素直に経験・知識不足であると私は考えている。この世の多くの不愉快であると判断してしまうものは、大抵の場合「経験不足」に由来している。勿論この限りではないものもある。代表的なのが差別やいじめなどの、明らかな実害が生じているものがそれであり、その実害が「悪意」によって引き起こされたものとは限らない。
 下記に例を出そう。

 電車に乗っていて、赤ちゃんが大きな声で泣き出してしまう。泣き声はおよそ5分ほど継続し、それに対して「騒音だ、早く黙らせろ」と怒りを顕にした人がいた。

 これに対してどのような印象を抱くだろうか。同じような意見を持つ人もいれば、「なんて心が狭い人間なんだ」と憤る人もいるだろう。
 だが、これは単純に「子育てという経験がない」ということに起因していると考えられる。少なくとも私は、赤ちゃんの泣き声で怒りを顕にしている人間に「子育てを終えた人」を見たことがない。ここから先は私の主観であるが、大抵この手の怒鳴り声を上げているのは男性であり、子育てを経験したことがないようなビジネスマンである。
 では逆説的に、どうして子育てを経験した人はこれに対して不快な気持ちを抱くこともなく、ともすればあやしてくれるなどの対応に出るのだろうか。

 それは「子育て」とはどのようなものかを理解しているからだ。赤ちゃんの唯一のコミュニケーション手段が「泣くこと」なのだから、泣いていることは何かを訴えようとしていて、それが満たされていないから泣いているのだと言うことがわかっていて、あやしてくれるのは「精神的な不安」という一つの原因を予想して、それを解消させようとしている故の行動である。
 では、「子育て」に対して全く知らない人間が赤ちゃんの泣き声を聞いたらどう思うだろう。もしかしたら、知らない言語で延々と話されているかのような感覚を覚えるかもしれない。それはそれで不快な感覚であろうが、それに対して怒りを顕にするのは、もはや本人の問題である。

 私だって、疲れているときは甲高い赤ちゃんの声で耳鳴りが起こることがある。でもそれは、私自身の精神的な疲弊や肉体的な疲れが起因して起きていることだから、それをある程度コントロールできないと社会生活は営めない。
 論理的に考えても、赤ちゃんの泣き声に対して罵声を浴びせるのは全くもってお門違いである。ルールとして「赤ちゃんが利用可能」とされている場所は、文面以外にも「どのような状態で赤ちゃんが泣いても、他の利用者は受け入れた上で利用することを前提として利用する」ことが背景の意味として存在している。

 しかし、これは「理解できない」という背景に起因していることも忘れてはいけない。この場合、怒鳴った人も悪いが、本人が意図して行ったものではなく、しかもそれは「経験不足」という大きな理由が存在する。
 問題は、そのことを本人に理解させることが難しいということだろう。子育てを知らない人間に「赤ちゃんってこういうものだから」といっても、感覚的に理解させることは困難であるし、大体の場合は赤の他人にこんな論理立てて説明しない。
 だからもし、自分の知人でこのような人がいれば、それとなくこのような論理的な話をしてあげるのが良いかもしれない。それすらもしたくないというのなら、その人とはその程度の関係だったと思って、割り切って付き合うしかないだろう。

 きっと私だって、親しい間柄でなければこんなことを言うつもりはない。大切なのは「理解できない人」との距離感である。その人に変わってほしいならこういう論理的な切り口で、変わってほしくないのなら距離を置く。その程度で、心の気疲れというのは少し減るだろう。

 だが、いくら悪意がなくても「嘲笑する」という行動にまで繋がるのは正直気分が悪い。およそこちらも理解の乏しさからくるものである。
 こちらも例に出してみよう。

 路上ミュージシャンが、お世辞にも上手いとは言えない声でオリジナルの曲を歌っている。それを見た人が「絶対デビューなんてできないでしょ」と笑いながらやじを投げた。

 正直この例は説明には向かないのだが、これは実話である。私の経験したものであるのだが、あまりにもそれに対して嫌な気分になったのでここに書き連ねることとする。
 これも「オリジナルの曲を作り路上で歌う」という経験をしたことがないからである。明確な悪意を持ってそういう人もいるが、特に大きな感情もなくポツリという場合は確実に経験不足が起因している。

 私もこれについては経験がないのだが、「オリジナルのものを作りそれを公開する」という手続きは何度も経験しているため、ある程度その大変さを理解している。
 楽曲ともなれば、メロディや歌詞を作り、それを主旋律に乗せる、合わせる作業を行ったのち、楽曲そのもののメロディと歌詞を頭に叩き込み何度も研鑽を積む。細分化するとこれだけのプロセスが存在するが、それらを超えて路上で歌い上げる彼らを嘲笑するのは、明らかにその大変さを身にしみて理解していないからだ。

 言うなれば他人事で済んでしまう無頓着さがこれの原因である。同じような経験をしたことがある人間なら、少なからず同情の気持ちが生じてしまう。人間は共通点のある人間に対して親密感を抱きやすいからだ。
 同じ趣味があるだけでなんとなく親密になれる。そんな相手に対して、自らの努力の結晶を正当性も理由もなしにそのへんに落ちているゴミと同じだと判断するのは、明らかな悪意がないとなし得ない。
 突拍子もなくそんな感想が出てくるということが、経験の無さを物語っていると言えるだろう。

 どちらの例も、明確に経験や知識不足であるといえる。どちらかというと、自分で経験したことがないと理解できないということだから、「経験」の方が比重的に大きいかもしれない。
 しかしながらこの話は、あくまでも私が考えるものであり、エビデンスが担保されたものではない。一つの考え方として、ここに記すばかりだ。

 というご立派なことを言いながら、単純に前述の例でイラッとしていた気持ちを整理するために書いているのが大きいのであるが……。


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