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創作の独り言 文は評価が難しい

 創作活動をしている、という人はこのご時世において結構多いだろう。特に文章は、非常に簡易に自分の思っていることを伝えることができる手段であり、情報社会の現在よりも前から「手紙」「短歌」「俳句」など様々な媒体で楽しまれている。

 他に自分が思い描いている情報を伝達する方法として何が挙げられるだろうか。「写真」「絵」「動画」、いわゆる視覚的な情報に頼るコンテンツがここでは挙げられるかもしれない。より自分が思っていることを直感的に伝えるのに非常に有効なものであるが、これらの媒体を使用して何かを発信しようとすると恐ろしいほど時間がかかる。

 それに対して文章は簡易であり、そして速い。
 私の場合、noteに記事投稿をする際、「2000文字以上」を一つ規定として設けているのだが、大体の場合30分ほどでベースが出来上がってしまう。勿論これは個人の文章構築やタイピング速度などにも依存しているが、私の場合はおおよそそのくらいの時間で一つの記事が出来あがる。
 この時間は正直ムラこそあるが、ある程度安定している。当然ながら、記事を作成している最中は集中力を持続する必要があり、30分もパソコンの前でブルーライトを浴びつつ、これらの記事を構築するのは今までの下地があるからであり、noteにこれから記事を投稿する人ができることではないかもしれない。
 しかしながら、「一つの記事が大体30分くらいでベースができる」というのは一つ事実としてあり、その速さ、簡便さはとても魅力的である。

 小説の場合はまた違うのだが、文章として媒体は非常に広域な解釈ができるし、しかも簡便かつ素早いと良い事尽くしのように思えるが、実は最大にして最悪の難点があると私は常々思っている。

 それは「文章」としての評価が極めて難しいという点である。これは客観的に判断するのも、自分自身で判断するのもどちらでも起こることであり、特に自分自身で「クオリティ」を客観視することがかなり困難であるということが重要である。

 以前の記事で「文章の価値」について言及したときがあったが、その時の結論としては「価値のある文章とは、明確に価値基準はなく、その時々で変化する」としていたが、それはあくまでも「価値の有無」であり、質については言及していない。

当然ながら質の良い文章、悪い文章は存在する。価値こそその都度で変わるかもしれないが、文章としての出来が悪いというのはある。
 具体的に質の定義は、私が考える上では下記の通りである。

 文章の質とは、解釈の幅がありつつも基本的な情報を齟齬なく伝えられる最小文字数の文章である。

 これが私の考える「質の良い」文章だ。これに対しては異論として様々な意見があって然るべきであるため、この記事を読んで「いやいや違うよ」というものはあればあるほどに良いと思う。
 しかし、ここでは一つの主語の定義として、「質の良い」とはこのようなことを示す一つの例としてこれを上げておく。

 まず文章というのは二つの側面がある。一つは、「自分自身が伝えたい基本情報」で、ある意味文章そのものの本来の意味に当たる。
 例えば、自分が「お腹が空いている」という情報を伝える文章であれば、「〇〇だからお腹が空いている」や「このお腹の空き方は〇〇だ」のように、表現は多数あれど、根底の意味合いである「お腹が空いている」という意味は変わらない。
 表現に幅があるのは、どのようにその状態を形容しているかとか、前後の事柄で強調したい部分が別にあるなど、多くのことが考えられるが、その実最も根本的な意味合いは変わらない。

 文章において、これが変わることは最もいただけないことである。と言いながら、これは今のように「雑記」として書いているとよく起こることである。いつのまにか主語が変わってしまっているということは、私の記事において何度もあるし、それが振り返りの習慣がないことに起因しているのは間違いないが、基本的に筆が赴くままに文章を書けば高確率でこれが発生すると思っていい。
 その根底の意味を変えずに、表現の幅を利かせるのはある意味文章を書く人にとっては技能のパラメータになるのだが、実際文章を書き始めるとこのような「どこか駄目なのか」ということすらわからないことが多い。

 これが「絵」となれば話は別だ。上手い人と下手な人では雲泥の差があるし、素人目からみてもどこが変であるかはある程度判断がつく。
 だが文章は、それが見えづらい。正直十年近く文章と毎日接している私でも、どこを評価点として据えるかわからなくなるときがある。それほどに文章において質は曖昧なもので、判断が難しい。

 そこで、私はもう一つわかりやすい指標として「最小文字数」を推奨したい。
 一連の物事を伝える上で最も少ない文字数で表現すること。それが文章の質として定義することで、よりシャープな印象を与えることができるようにする。
 私の文章は特に冗長になりやすいので、これらの点について日々気をつけているのだが、手を抜けばすぐに文章は冗長になる。先程と同じように、見直しや推敲がなければ、長ったらしいだけで生産性のない文章になることは間違いない。
 大切なのは、「本当にこの表現が、根底の意味において必要なのか? 必要であるのなら理由を説明できるか?」と考えることだ。文章は基本的に、意味を変えない上で削るのは良いことしかない。表現の幅が利かなくなるのは間違いないかもしれないが、それは「表現のため」という理由付けで残しておけば良い。
 このように判断して、私は「質」について、時折再考するようにしているのだが、多くの文と向き合う人たちはどのように解釈しているのか。それを語らう場があるのであれば、ぜひとも話を聞きたいところだ。

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