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スマブラステージ【AD.1615.落城】

・戦国時代に至る経緯
 弥生時代(紀元前10世紀~紀元後3世紀頃)の日本列島は稲作が普及し、集落に定住する生活様式が広まり、集落が大規模化して富が集まるとともに集落同士の抗争が相次ぐようになりました。各地方の大規模集落から発展した豪族が勢力争いをしていましたが、6世紀頃に大王(後の天皇)の政権(朝廷)が西日本を勢力下に収め西暦701年に国号を日本国としました。このとき中国(唐王朝)を参考にした律令制によって国政が行われることになりました。

 律令制では豪族の土地の私有を原則禁止して、日本の全ての人民が天皇の臣下とし、人民一人一人が租税、労役、兵役の義務を負うとしました。

 律令制は始めの100年程度は機能していましたが、人民一人一人を把握するための戸籍の作成に膨大な手間がかかり、税の重い負担を逃れるために戸籍に登録しない者が増えて税収が低下したので、10世紀頃に人間ではなく土地(田畑)の収穫に対して課税することになりました。
 土地の有力者は税を納めた後の残りを自分のものにできたので、有力者同士による土地の奪い合いが常態化しましたが、朝廷が兵役をやめて常備軍が廃止されたため、朝廷は地方の紛争に介入しなくなり、地方では自分の身を自分で守らなければならなくなりました。このような状況下で武芸に長けた武士が台頭し、時代が降るごとに武士の影響力は強くなっていきました。

 こうした中でも武士達の元締めとして、征夷大将軍をトップとする幕府(武家政権)が紛争の仲介をし、幕府に敵対する勢力を武力で抑えていましたが、15世紀後半に足利幕府が内乱で弱体化すると、大規模の武力を持った戦国大名による領土の奪い合いが激化する戦国時代となりました。

・日本の城の歴史
 敵を防ぐ防衛拠点である城。日本においては弥生時代、外敵から田畑や作物を守るために堀や柵で集落を囲み、見張りのための物見櫓が建てられたものが最古の城だとされています。
 土地の奪い合いが激化した14世紀には、普段は住みやすい館に住み、戦争時には険しい山を土木工事で改造した山城で敵と戦うスタイルが主流でした。
 戦国時代、石垣をくみ上げることで平地でも防御力の高い城を作れるようになると、武力・国力をアピールするために石垣の上に豪華な天守閣を乗せた近世城郭が誕生しました。


 城郭は広い面積の敷地に様々な障害物を置いて侵入した敵が移動できる範囲を絞り、堀や傾斜などで動きにくくしたうえで、矢や鉄砲を浴びせて撃退していました。

・大坂の陣
 1591年に豊臣秀吉が天下人(日本最大の有力者)となり、戦国時代は一旦は終わりました。しかし、秀吉は各地の大名を戦いで滅ぼすのではなく、臣従を誓わせることによって自らの傘下としていたので、天下統一後も有力な大名達の兵力は温存されたままとなっていました。

 秀吉に次ぐ勢力を持っていた徳川家康は、秀吉の死後に伸長し、1600年に豊臣方の軍勢を関ケ原で破り、新たな天下人となりました。
 関ケ原で敗れた後も豊臣家は大きな勢力を持ち、江戸幕府に対して対決姿勢を見せたために、家康は豊臣家の本拠地である大坂城への攻撃を決定、1614年に大坂冬の陣が始まります。

 大坂城は当時において最大級の城で、巨大な水堀で敵の侵入を防ぎ、侵入した者も十字砲火を受けながら広大な二の丸、三の丸を進まなければならず、徳川軍は20万人の軍勢で包囲するも攻め落とすことができませんでした。
 しかし、豊臣軍に徳川軍を倒す戦力はなく、徳川軍による連日の大砲攻撃による心理的疲労もあって和議を余儀なくされ、停戦と引き換えに大坂城は二の丸、三の丸は破壊され水堀も埋め立てられることとなりました。
 こうなるといくら大坂城でも防御力は無いに等しくなり、翌年1615年の大坂夏の陣で再度攻撃を受けた大坂城はついに陥落。豊臣家の中心人物は自害し天守閣は炎上しました。

 大坂城は約40km離れた京の都から見えるほど激しく燃え上がり、大坂城が焼け崩れるとともに徳川に対抗できる勢力はなくなり、数百年に及ぶ日本の戦乱は遂に終わりを迎えることとなりました。

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