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中央アジア周遊記 Part2

Part1の続きです。まだご覧になっていない方は、そちらからご覧ください!

3日目 コチュコル【解決編】

Part1の最後で、コチュコルからソン・クル湖へのタクシーの手配という重要な問題を紹介したと思うので、まずはその解決編を記していこうと思う。
参考までに、直面している問題は以下の通り。

①現地タクシーを捕まえる
②タクシーの運ちゃんと値段を交渉する
③ちゃんと山頂で待ってもらい、帰りも送ってもらう

さて、コチュコルのレストランで夜ご飯を食べながら、翌日どの様にしてソン・クル湖まで良心的な値段で連れて行ってくれるタクシーを手配するかについて私は頭を悩ませていた。

ふと、隣の卓に座っているドイツ人の婦人が同じように頭を悩ませている姿が目に映った。彼女は店員に対して我々と全く同じような悩み、すなわち翌日どのようにしてソン・クル湖まで行けばいいのかという悩みを吐露していた。
聞くところによると、彼女は我々のすぐ近くのホステルに泊まっていて、そのホステルが提携しているタクシーで湖まで行く予定を立てているそうだが、一人でタクシーを使うと高くついてしまうのでもう少し安く行ける手段がないかを探しているとのことであった。我々にとって、これは千載一遇のチャンスであったことは言うまでもない。
彼女はすでに湖に行くことが約束されているタクシーを持っていて、それに我々が(文字通り)乗らない手はない。彼女にとっても、我々とともにタクシーに乗ることでタクシー代を割り勘することができ、結果的により安い値段で湖に行けることになるのだから、乗らない手はないだろう。かくして、我々とドイツ人婦人は翌日一緒にタクシーに乗り湖に行くことで合意した。

悩みながら食らった肉とマントゥ

レストランを後にし、彼女とともに彼女のホステルに向かった。その宿のスタッフに我々がタクシーに同乗することを伝えるため、そして彼女と共にタクシー代を値切るためだ。
タクシー運転手との電話越しでの交渉は白熱した。向こうも生活が懸かっているので簡単には値下げに応じてはくれない。20~30分ほど平行線の状態が続いた。彼女はそこで本性を現した。彼女はもともとドイツでLawyerをしていたのである。ひとり5000円と引き下がらないタクシー運転手に対して、彼女は持ち前の話術と契約を結ぶ力を遺憾なく発揮した。値切ってもいいか上に確かめるので一度電話を切らせてほしいと言うタクシー運転手に対して、彼女は「今すぐ決めなさい。Yes or Noで答えなさい。」と付け入る隙を与えなかった。
かくして、我々は本来の7割ほどの値段でタクシーを手配することに成功した。弁護士の気迫と能力に畏怖の念を抱きながら、同時に弁護士であるのにも関わらず我々日本人大学生をも凌駕する倹約家ぶりに困惑したのを覚えている。でも、とりあえず一件落着。我々のホステルに戻り、床に就いた。

4日目【ソン・クル湖⇒タラズへ】

我々がコチュコルで宿泊したホステルは、ユルト(ゲルのようなもの)と呼ばれるキルギス伝統の移動式住所が朝食会場になっていた。ユルトで朝食を取り、湖に行くための英気を養った。

ユルトの屋根
キルギス国旗の中央に描かれている絵は
ユルトの屋根をモチーフにしている

タクシーは彼女のホステルに午前8時半に着く手筈になっていたので、所定の時間に彼女と合流した。ほどなくして、タクシーも到着し、湖へと出発した。昨夜の一件があったのでタクシー運転手が気分を悪くしていないかが不安だったが、それは杞憂であった。車内は昨夜の値引き戦争を終え、雨降って地固まるとでも言うべきか、穏やかな雰囲気であった。湖までの道のりは長く、何より舗装されていなかったので頑丈な三菱のSUVでなかったらどれほど辛かっただろうか。途中途中で運転手が絶景スポットで車を停めてくれ、降りて写真を撮らせてくれた。
湖に着いたのは12時過ぎごろであった。運転手には2時間後に出発したいことを伝え、我々は乗馬を楽しむことにした。馬に乗った経験なんて片手に収まる程度しかなく、ましてや中央アジアで馬に乗るのは初めてだ。馬を操るためのガイドは追加料金がかかったので、己の馬を操る天性の能力に賭けてインストラクションなしで乗馬することにした。
ある程度予想していたことだが、馬は私の言うことを全然聞いてくれなかった。そもそも、私が言っていることが何かも分からないはずなので当然と言えば当然であるが。とはいっても45分間馬を借りることになっていたので途中で辞めるのも無駄と考え、結局馬から降り手綱をひいて馬を散歩させた。もっとも、散歩させられていたのは私の方かもしれない。

広大な湖
ユルトが立ち並び、馬や羊が自由に放牧されている
私の相棒
とんでもなく言うことを聞かない

馬には苦労させられたが、馬からしたら急に現れた日本人に訳も分からない指示を出されて散歩させられているのだから、少し同情した。なんだかんだで湖を楽しみ、時間を過ぎているにもかかわらずユルトの中でのんきに友達とお昼ご飯を食べている運転手を急かし、湖をあとにした。
コチュコルへ戻り、そのままマルシュに乗り込み、18時過ぎには大都市ビシュケクへ戻ってくることが出来た。夕食を食べたレストランでは店員が気を利かせて東京の映像をテレビに流してくれた。
かくして四日目も終了。考えてみれば、標高3000mを超える湖に行き、そのままビシュケクまで戻ってきたのだから、移動尽くしの一日であった。

絵にかいたような東京の様子

5日目【タラズへ】

朝一番にビシュケクを去り、そのままマルシュでタラズ(カザフスタン)へ向かった。ちなみにキルギスタンのタラスとは全く別の場所である。例によって陸路で国境を越えたが、あのインドネシア人は元気でやっているだろうかと少し親心のようなものが芽生えてしまった。
日本人は珍しいのだろう。国境付近では現地人がよく絡んできた。絡んできたというと物騒なように聞こえるかもしれないが、彼らは友好的で、口々に「Jujutsu」「Karate」「Yakuza」などと知っている日本語を披露してくれた。文字に書いてみて思ったが、物騒な単語のオンパレードな気もする。家に招待しご馳走をふるまうと言ってくれたおばさんもいたが、先を急いでいたのでそのまま国境をあとにし、計5時間ほどバスに揺られてタラズに到着した。

ところで、タラス河畔の戦いをご存じだろうか。もしご存知でなければ調べてみると詳しいことが分かるだろうが、タラズはタラス河畔の戦いがあったとされている場所である(諸説あり)。簡単にいうと製紙技術が西洋諸国に広まるきっかけとなった、いわゆる歴史のターニングポイントとなる戦争の起こった重要な都市である。

タラズには日本のそれと引けを取らない大きなショッピングモールがあった。日本のららぽーとと言われても驚かないような大きなモールだ。たまには中央アジアらしからぬ西洋風の味が食べたくなるもので、KFCのハンバーガーを昼食にすることにした。日本のそれとの若干の味の違いを感じながら食べていると、中学生から高校生くらいの若い女子2人組が大層な一眼レフカメラを携えながらこちらにやってきた。案の定彼女たちはハンバーガを貪り食う我々を写真に収め、1000円を要求してきた。写真のクオリティは低くはなかったものの、勝手に取られた上に大金(彼女たちにとっての1000円は日本人にとっての1万円に相当するだろう)を払うのでは納得いかない。こちらも丁重にお断りしたが、彼女たちはうまくお小遣いを稼ぐ方法を知っているのだなと感心した。

夜はスーパーマーケットで100円ほどのメロンを購入しホテルでほじくって食べた。日本のメロンと比べてとても安いが、味はたいして変わらない。この地域はメロンが地味に美味しいことで有名である。メロンで満足してしまったので、夕食はとらずにそのまま就寝した。

タラズ河畔
小高い丘から見下ろしたタラズの街並み

6日目【シムケントを経てタシケントへ】

午前8時ごろにタラズ駅に向かい、そのままシムケントへ向かう列車に乗った。列車は前日に予約していたもので、日本の列車とは違い簡単な部屋に分かれた寝台列車である。1部屋には3段ベッドのようなものが2列存在し、計6人が収容できるサイズである。我々のほかに2人のウズベク人親子が乗っていて、日本人の物珍しさからだろうか、案の定我々に声をかけてきた。私の同行者が首からぶら下げていたデジカメに興味を示し、30分ほど様々な旅行先での写真に食い入っていた。やがて満足したのだろうか、ありがとうと感謝の言葉を述べながらカメラを返却し、そのまま押し入れで眠るドラえもんのごとく、上の段のベッドにもぞもぞと入り寝息を立て始めた。
列車が目的地に着くまでに4時間ほどあったので、我々も仮眠をとることにした。ご丁寧に駅員が全員分のブランケットや毛布を配ってくれるので、寝心地はなかなか良かった。

寝台列車の様子
上の段でドラえもんが眠っている

列車が到着したシムケントには1時間ほどしか滞在せず、簡単な昼食だけ取り、そのままマルシュでタシケント(ウズベキスタン)に向かうことにした。シムケントとタシケントは名前が似ているが、それぞれカザフスタンとウズベキスタンの都市で、当然いつものように陸路で国境を超える必要がある。幸い我々はインドネシア人ではないので、国境通過にはそれほど時間を要さなかった。かくして、2時間半ほどでウズベキスタンで最も近代的な都市の一つであるタシケントに到着した。
写真を見ていただければわかるように、タシケントはそれまでの中央アジアのどの都市よりも近代的かつ西洋的であった。Magic City Parkと呼ばれるタシケントの商業施設は、ネズミをモチーフにした某遊園地と雰囲気が極めて類似していて興味深かった。

ぎり京都といわれても信じそうな街並み
Magic City Parkと呼ばれるタシケントの遊園地


シンガポールにありそうなオブジェ

タシケントは今回我々が訪れた都市の中でもっとも栄えていたと言って差し支えないであろう。私がどこかのホテルに置き忘れてしまったスマホの充電アダプタもここで購入することが出来たが、栄えている分値段も高く5000円ほどかかってしまい、痛い出費となった。そのままタシケントで一夜を明かした。

7日目【タシケントからフジャンドへ】

タシケントにも大きなバザールがあったので、そこで朝食としてプロフを食べた。ピラフの中央アジアバージョンだと思っていただければそれでいい。

プロフ
ヤギの油で炒めているので、朝から腹にたまる

おそらくこの旅で一番の文明都市タシケントをあとにし、マルシュでフジャンド(タジキスタン)へと向かった。タジキスタンは、中央アジア諸国の中でも最貧国として有名で、これからその事実を様々なところで痛感することになる。また、タジキスタンは体制派のラフモン大統領が現在もなお独裁体制を続けていることで有名だ。タジキスタンに入国した瞬間に、様々なところに掲げられているラフモン大統領の写真を目にし、異様な雰囲気に気分の高揚を感じた。

駅に掲げられたラフモン大統領

また、タジキスタンに入国してから出国するまでの2日間、スマホに電波が入ったのは数分ほどであった。タジキスタンで宿泊したホテルにはWiFiもなかったため、2日間ネット無し生活を強いられた。もしネットがないと生きていけない場合は、現地Simを購入する必要がある。

フジャンドの広場
噴水は枯れている
フジャンドのバザール

まだまだ、タジキスタン編は続くが、Part2も思いのほか長くなってしまったので、残りのタジキスタン編およびウズベキスタン編はPart3以降に回すことにする。
余談だが、Part3以降でも我々は様々な苦難に直面することになる。やや見苦しい記事になるかもしれないが、温かい目で見守っていただきたい。

続く・・・

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