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読むこと自体がもう闘い。水俣病を巡る自然の、人間社会の痛烈な記録にして唯一無二の傑作『苦海浄土』

 色々な本を読んでいると、どうしても格闘せざるを得ないものが出てくる。本を読んでるはずなのに、逆に試され、読まれているようなそんな本。寝不足になりつつ齧りつき、それでも手放せなくてひぃひぃ言う。石牟礼道子の代表作『苦海浄土』はまさにそんな戦いの一冊だった。
 

石牟礼道子の代表作『苦海浄土』とは

 『苦海浄土』とは、石牟礼道子が1960年代から熊本県水俣で発生した公害、水俣病にかかった人々や、メチル水銀によって変質した自然を書いたルポルタージュである。
 世界文学全集の『苦海浄土』は三部作として出版された本を底本にして編まれたもので、上下二段の三部構成になっている。ページ数は700を超える大作だ。
 第一部ではもっぱら水俣の自然と、漁師の生活と水俣病患者の世界が描かれる。水俣病とは60年代の日本では未知の病気であり、発症してしまえば完治しない恐ろしさが描かれる。
 第二部になると時代が下り、水俣病患者の置かれた社会的な地位が掘り下げられる。水俣病の認定を巡るチッソ株式会社との戦いがやってくる。
 第三部は患者たちが東京に出向き、公害という概念が認められるようになり、急激に水俣病というものを取り巻く環境が変わっていく。

 登場するのは水俣病になってしまった人々や、その家族、それに水俣の自然だ。時代が下るに連れて患者の人々に加えて、水銀を排出してきた会社側チッソも登場するし、東京の人々も出てくる。
 水俣病を巡る一大叙事詩とも言える作品だ。ただ、こう紹介してもこの作品の持つ力は全く伝わらないだろう。日本近代史の汚点とも言える公害の水俣病と、その犠牲に何を得たのかを対比した大きすぎる作品に、あらすじなんて付けられない。
 この作品は、どんな本にも言えるけれど、自分で読んで味わうしかない魅力に満ちている。もちろん主題が主題だけに読んでていて苦痛に感じることはある、それなのに愛おしさを覚える、そんな相反する感情にどこまでも揺さぶられる作品だった。

読んでると時間の流れが変わる、『苦海浄土』の方言

 この本に流れている時間は現代とは違う。歯切れの良い文体だけれども、普段使いの言葉とリズムが違う。いつもの生活が耳で聞いてるチクタク音なら、『苦海浄土』は五臓六腑に染み渡る重たく低い音と言える。
 その要因はこの本の語りにある。水俣病患者や、その家族、医者の言葉が方言で表されているのだ。慣れない言い回しに、リズムに必然と読むペースが落ちる。
 だからこの本は読み進めるのに時間がかかる。そしてこれこそが大事なことなのだ、単なるニュースや噂をさらうのではなく、水俣という地域、人々を読者が取り込む体験になるのだ。
 患う苦しさ、病を理由に社会からのけものにされる苦しさ、およそ言外にできない苦しみを語るのに、それでも力強くて生き生きとしている。逆境における人間の持つ力強さがこれでもかと迫ってくる。なんて真摯な声だろう。
 その声を留めてみせた石牟礼道子という詩人でもある作者の覚悟というか、力量というか凄まじいものを感じざるを得ない。

もう一つの主役、水俣の自然とそこに生きる人々

 『苦海浄土』の時間が現代とは全く異なるもう一つの要因は、主役が自然だからだ。この自然とは、人間を含まない観察対象としての「自然」ではなく、失われた近代以前の「かつての生き方」だ。
 近代の発展を支えた工業の暗部である水俣病が主題だからか、この作中には文明の利器めいたものはほとんど登場しない。出てくるのはもっぱら水俣病を患った人々と、彼らが住む水俣の海だ。
 台風でもこない限り波も立たない穏やかな海、海の底にも泉が湧いて、漁港にはネコが住み着いている。東京の人々よりも新鮮で上等な魚を食べている、殿様口じゃと豪語する人々がいる。そんな水俣の景色が語られる。
 この自然の美しいこと。作者が詩人であることが関係しているのか、読んでいて柔らかい冬の空気や、冬を惜しむ春の訪れや子どもたちが海に飛び込む夏の音までが体感出来そうだ。
 
 この人々が、景色が、近代の発展の中で何を失ったのかを語る石牟礼道子の筆運びにはもう、読んでいて息を何度も殺さざるを得なかった。

年をとった彼や彼女たちは、人生の終わりに、たしかに、もっとも深くなにかに到達する。たぶんそれは、自他への無限のいつくしみである。生徒は使徒は、そのようにして、ここらの部落では平等だった。
 凡庸で、名もない、ふつうのひとびとの魂が、そのようなところへ到達する、哲学も語らず、政治も語らず、道徳などというものも語ったことのない人々が、何でもなく、この世でいちばんやさしいものになって死ぬ。自分がそのようにやさしいものになったことも知らないで死ぬ。ただただ、つきせぬ名ごりをこの世に残して。それこそが、このような村の魂というものだったに違いない。
 ながい間、そのような集落だったのだ。ここら辺りの海辺というものは。なんとやさしい村だったことか。

『苦海浄土 第三部 天の魚、第五章 塩の日録』石牟礼道子、河出書房新社


読者の影とも言える当時の社会とチッソ

 上記のような美しい自然とそこに生きる人々を巡る描写がこの作品の華やいだ、美しさを表す光となるならば、当然暗部もある。それがメチル水銀を排出したチッソ株式会社と(作中はチッソと呼ばれるので以下チッソ)、それを放任した当時の日本社会の冷淡さだ。
 水俣病というのは神経をメチル水銀におかされ、一度発症してしまうと治ることはない。そのために家族一人でも発症してしまえば、看病に治療費にととんでもない負荷がかかる。
 この病のために人生を奪われた患者たちが、その補償を求めて繰り広げるチッソとの戦いはもう苦しい、ずっと苦しい。
 この苦しさは、患者たちの圧倒的な孤立からくる閉塞感となって現れる。何度申請しても水俣病なんて存在しないと、患者認定をしない制度やチッソ、水俣病患者やその家族を偏見の目で見る同郷の人々。
 公害という概念が登場し、国からメチル水銀の排出に問題がなかったかと指摘されても、問題はなかったと平然と言い放つチッソの不気味さ。特にチッソの経営陣の一環とした無関心は寒々しいほどだ。
 
 第三部になると患者たちがチッソの上層部と相まみえるシーンが何度か登場する。チッソの人々のなんと頼りないことか、しどろもどろに言い訳しかせず、患者たちにお前らが悪いことをしたと正論を言われても、絶対に謝らない卑屈で小さいその姿。
 まさに自分だ。チッソの人々の何が恐ろしいかと言うと、組織を離れた個人であれば「真っ当な」人だということだ。きちんとした教育を受け、何が社会的な正義か常識をわきまえた人々なのだ。読者と同じように。
 それなのに組織に所属したとたんに個人としての良識が吹き飛び、組織の利益に仕えるようになってしまう。人間は社会的な生き物で、一度集団に属せばその和を乱すのを好まないからだ。生物学的な本能に根ざした感覚に抗うのは難しいし、恐ろしい。
 今の日本社会もこの弱さは全く変わっていないだろう、平和を乱すくらいなら黙って誰かを犠牲する方が「正しい」のだ。
 そんな弱いチッソの人々に正義を求め詰め寄る患者たちの姿のなんと勇ましいことか。三部に至ると悲劇と喜劇が混在し、もはやドラマよりもドラマチックだ。

それでも読んでみて欲しい、それが『苦海浄土』

 上記のような感想を書くと、読みたいって気持ちが萎えるとかビビってしまうなんてこともあるかもしれない。確かに『苦海浄土』は楽じゃない、長いし、語彙も現代の本とはちょっと違うから読みづらいかもしれない。
 けれど、これは格闘し、ひいひい言いながら読むべき本だと思う。楽じゃない、けれども読めば読んだけ何かを返してくれる。
 それはずっしりとした水俣の自然や、方言の世界かもしれない。
 人によってはいつの時代も変わらない世知辛い世の中の悲喜劇かもしれない、逆境を超越する凄さを感動する人もいるかもしれない。すぐさまの感想なんかなくて、ひたすらすげぇって打ちのめされるだけかもしれない。
 でも、どんな感想でも正解なんだと思う。この本は一足飛びに感想を纏められるものじゃない。時間をかけて、ゆっくりと身体に染み込ませて、この日本という国が何を得て、何を犠牲にしてきたのかを体験する、そんな唯一無二の読書体験をくれる本なのだ。







 
 


 
 



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