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父とのこと 〜家庭崩壊〜

父とのこと 〜幼い記憶〜の続きです。

口にすると泣きそうになるし、上手く話せないので、文章にして頭の中を整理していこうかなと。

いつか思い出せなくなるかもしれないから、覚えてるうちに文章に残して供養したいなと、思いました。

一軒家脱出

中1のクリスマス。

父はわたしと兄に携帯を買ってくれた。

その年の末に、父と母は今までにない、核兵器が落とされたかのように大きい喧嘩をした。

それはそれは派手な喧嘩で、人が死ぬのではないかと怖くなったわたしは新品の携帯で110番に通報するほどだった。

「お父さんと、お母さんが、喧嘩してて、来てほしいです」

階段の踊り場に座りながら、震える声でSOSを出す。

“初めて外部に知らせてしまった”という事実にも慄いたが、頬を伝う涙の温かさが“これで良かったんだよ”とわたしに語りかけているようだった。

警察が2名ほど来て、玄関でやり取りをしていたと思う。

結果的に、両親が同じ空間にいるのを見たのはこの時が最後になってしまった。

2人が仲直りすることはなく、家庭内別居が始まったのだ。

父は家の2階にある寝室兼書斎のようなところと、自営業をしている職場で暮らすようになり、家族の前に姿を現さなくなった。

それから半年経ち、わたしは中2になっていた。

同じ家にいるのに顔を合わさないという空気感に耐えられず、「こんなのおかしい!」「3人で家を出よう!」と母に懇願した。

母は押しに弱いので、わたしが主導して賃貸マンションを探し、母と兄とわたしはそこに引っ越すことになった。

わたしと兄は個人の携帯で父と連絡を取ることができたので、1ヶ月に1回、自営業をしている父の職場に会いに行くことになった。

勉強頑張ってるか?とか、進路の話とか、眼鏡をコンタクトにしたいだとか、しょうもない雑談をしてお小遣いをもらう時間。

父は時々、わたしと職場のスタッフにギターを弾いてみせることもあった。

父の紡ぎ出すどんな言葉も、奏でる音色も、わたしには何の意味も持たなくなっていた。

それから

わたしは大学生になった。

父は、末っ子であるわたしの進学を喜んでくれた。

いつになく張り切ってひとり暮らしの部屋を探してくれて、新品の家具を兄と一緒に組み立ててくれた。

ご飯を食べに行ったら「何でも頼みな」「子どもが幸せそうな姿を見るのが一番嬉しい」と言い、顔を綻ばせた。

父からの経済的な援助を実感する生活の中で、わたしは初めて父の愛情とは何かを感じられるようになっていた。

わたしは父の愛情を試すかのように、次々に贅沢な願いを要求するようになった。

父は金額に関わらず、欲しいものややりたいことを最大限に叶えてくれたと思う。

わたしは父の愛情をお金に変換して受け取ることで、幼い頃の苦い記憶を精算してあげようとしていたのかもしれない。

現在。

会う度に白髪が増えて、機敏さが失われていく父は、「あの頃はストレスでおかしくなっていた」「子どもたちには悪いことしたと思ってる」「申し訳ない」と口にすることもある。

しかし、一度冷え固まってしまったわたしの心は少しも解凍されることはない。

もう精算は終わっているので、ここからどう関係を築いたら良いのかもさっぱり分からない。

父には感謝はしているけど、どうしても好きにはなれないのだ。

わたしに与えた影響

わたしが“金=正義”という見解に辿り着いたのは、父の影響もあるかもしれない。

男に与える愛もなければ、いただく愛もない。

あるとしても、わたしにとって愛は“後から気づかされるもの”という位置付けなので、最初は分かりやすい金で示してほしいのだ。

「女の子はお父さんに似た男を好きになる」という説が昔から大っ嫌いだったけれど、この記事を書いていて、それは正しいのかもしれないと感じることができた。

お父さんを好きでいたかったし、今もそうなりたいと願っている。

でも、それはおそらく一生叶わない。

それでも、旦那さん候補には父のような素質を求めることで、わたしはなんとか本能的な道理を貫こうとしているのかもしれない。

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