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【アダルトチルドレン】「これをやらないと私には価値がなくなる」と思い込んでいたものを手放してみることにしました

立派にならなくてもいいのだとしたら。

今のままでも私は無価値な存在ではなくて、修行をしなくても豊かで幸せな日々を送れるのだとしたら。


これまでの人生、自分には価値がないという思い込みを手放せずに生きてきた。いろんな書籍に書かれている「今のままの自分で完璧」といった言葉を、自分の中にどう落とし込めばいいのか、随分悩まされた。

とりあえず今できることをやろうと、自分の心の軌道修正のための知識を集めては、せっせと自己対話に励んできた。

ついでに頭が悪いというコンプレックスを改善するために「たくさん本を読む」という安易な目標を定めた。完璧主義のストイックさはここでも発揮され、「もっと、もっとたくさん読まなければ…」と血眼になって読み続け、文字通り、常に目が充血するようになった。こうして私は透きとおるような美しい瞳を失ったのである。

楽しいのかどうか、わからなかった。
当の本人にもわからないのだから、側で見ている夫にもわかるはずがない。本を読む時間が思うように取れないとイライラする私を理解できない夫とすれ違うことも多々あった。

自己対話の時間も、読書の時間も、思うように時間が取れないと、自分が後退しているような気がしてすごく怖くなる。コントロール出来ないほどの強い焦りでお腹をギュッと掴まれたような苦しさを覚えるのだ。

「よほど私は好奇心旺盛なのだなあ」なんて楽観的に捉えていたけれど、なぜか肝心の好奇心が満たされる気配はない。不足感は募るばかりで「もっと…もっと…」と脳内に響く声は地獄へ引きずり降ろそうとする無数の手を連想させて薄気味悪かった。


どうやらその不足感というのは、「それらの時間を持つことで、自分の価値は保たれている」という思い込みから来ていたらしいと気がついた。
「読書や自己対話のための“学び”の時間を取らなくなった私には価値がなくなる」と怯えていたのだから、その時間を多く取ったとて満たされるわけがない。
いうなれば拳銃を突きつけられながら、本を読んだり、気づきのための学びをしているようなものである。これで満たされる奴がいたら変態だ。私は変態ではないから、ひどいストレス状態に晒されていたのだ。


ここで冒頭のあれである。

もしも立派にならなくてもよいのであれば、もしもこれ以上「修行」をしなくても豊かで幸せな日々を送れるのであれば、私はどうしたいのだろうか。

試しに本を読むのをやめてみた。
気づきを得る“学び”のための情報収集はやめて、自己対話のノートを書く時間だけにしてみた。

ここ最近『私には価値がある』といった言葉を新手の宗教か何かのように熱心に唱え続けた甲斐もあり、思ったより怖くない。

何もしない。
ご飯を食べて、お風呂に入って、することがなくなった。時間がこんなにもゆっくり流れていたことを、私はずいぶん長いこと忘れていた。

時間がある、と感じたのは久しぶりだった。


心の軌道修正のための勉強はもう、少しお休みしてもよいのかもしれない。


その勉強を優先させた結果、時間がないと後回しにしたり、例えやったとしても「これは果たして意味があることなのか…」と考えては集中できずに挫折してきた《やりたいこと》に挑戦してみるのもいいかもしれない。





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