見出し画像

【エッセイ】臆病者、「みんなの森 ぎふメディアコスモス」で本を読む

少し前、夫の情緒不安定が長引いており、ネガティブな感情に引きずられまいと必死になっていた時期があった。


 夫は落とし穴を掘ってアリを捕食する蟻地獄さながらに、私をネガティブの穴へ引きずりこもうと、淀んだ空気を発していた。その空気にからめとられ、ゆっくりと自分が沈んでいくのを感じていた。蟻地獄は罠にはまったアリに対して、さらに砂を投げつけては逃げられないようにするらしいが、こちらが傷つくような言葉を投げつけてさらに深みに陥れようとするところまでもが、そっくりであった。


 私は捕食者を前にした無力な小さいアリと化した。だが、ここで喰われるわけにはいかない。私は、生き延びねばならないのだ。


 満身創痍の身体を奮い立たせて、猛然と立ち上がる。

…岐阜だ。岐阜へ行こう。岐阜の図書館へ行こう。


 

岐阜県に「みんなの森 ぎふメディアコスモス」という図書館と交流センターや交流プラザなどが一体となった複合文化施設がある。その図書館がとても美しいと何かで知って、数年前に足を運んだことがある。

実際、ひのきで造られているという天井とどんぐりの帽子のような「グローブ」と呼ばれる傘(?)がたくさん吊り下がった館内は、大変美しかったことをよく覚えている。


 
その美しい図書館へもう一度行こうと思ったのは、益田ミリさんのエッセイを読んだからである。エッセイの中で、岐阜へ2泊3日したエピソードが書かれていたのだが、その旅の目的がなんと“メディアコスモスで本を読むこと”だけだったのだ。その宣言通り、ただ本を読んで過ごしたことが書かれていた。

旅の目的がそれでいいのかと、楽しみ下手でハードルをやたらと上げがちな私は大層驚いた。なんて自由なのだろう。


 考えてみると、大人になってからというもの、図書館で本を読んだことがない。図書館とは本を借りるだけの場所という立ち位置になっていて、そう思うようになったきっかけは、やはり人目が気になるという臆病さからくるものなのだった。図書館で、本を読んでもいいのである。その図書館は、必ずしも近所の図書館でなければならないこともないのである。


 そんなわけで、私の“いつかやりたいことリスト”に「メディアコスモスに朝から行って、一日中本を読む」という計画が追加された。追加して早々に、蟻地獄から逃げ出すために早くも決行されることとなった。臆病者にしては驚異のスピードである。奇しくも蟻地獄に背中を押された形であるが、絶対に感謝なんかするもんか。


 道中、「駐車場はわかるだろうか」「すごく混雑していたらどうしよう」「HPでは開いてるって書いてあったけど、閉まってたらどうしよう」と不安に襲われたり、不意に優勢になった“楽しみ”のせいで顔がにやけたり、忙しい精神と緊張に眩い太陽が照りつけ、全身がしっとりと濡れた。


 一度、駐車場の入口をうっかり通り過ぎるというハプニングはありつつも、問題なく入ることができた。1分ほど、「無事についてしまった…」と落ち込み、「なんで来てしまったんだ」という後悔を全身で感じる。極度の方向音痴のため、一夜漬けのテスト勉強の勢いで、停車位置を脳内に叩き込ませることも忘れない。頼れるものは己のみなのだ。覚悟を決めてカバンを強く握りしめ、鼻息荒く入口へ向かう。


 逃げ帰りたい気持ちが大きくならないように細心の注意を払い、「楽しい」に全神経を集中させ、自分の中の臆病さを騙す。こうして、へらへらした人間を誕生させるのである。「へらへらの力」が必要なときが、人生には必ずある。


 へらへらモードで館内を散策する。


 館内は、数年経っても相変わらず綺麗であった。

前回来たときも思ったけれど、ここの図書館には幅広い世代の、様々な肩書きの人々がたくさんいる気がする。理念通り、民の憩いの場になっているのだろう。私のように、他県からはるばるやって来た人も少なくないかもしれない。

勉強している人、本を読んでいる人、ボーっとしている人。

これだけの人が思い思いに過ごしているのだから、私だって溶け込んでいるはずだと己の自意識に言い聞かせ、へらへらした臆病者は突き進む。


 まずは館内をざっと見ようとウロウロするものの、放射状に配置された書架は私から方向感覚を奪い、気になる本を手にとって少しでも中をパラパラと見ると自分がどちら側からきたのか見失う。さすが「みんなの森」と謳っているだけのことはある。方向音痴にとってここはまさに森であった。


 “読む本を選ぼう”と張り切ったものの、考えすぎて決められず、30分くらいさ迷い続けた。
考えすぎて、もう何が読みたいのかわからなくなってきた。「ここから本を選ばなければ帰れない」というような心境になってきて、居残りさせられた学生のような心細い気持ちになる。今更ながら、自分が「選ぶ」ことが苦手だということを思い出す。読みたいと思っている本は何百冊とあるのに、今ここで読みたい本が決められない。


数分後、ようやく「これだ!」と思う本に出会った。気にはなっていたけれど近所の図書館には入っていなくて読めていなかった、『自分の機嫌は「色」でとる』という本だ。


本の読み方にも完璧主義を発揮する私は、読み始めたら途中でやめないというルールで自分を縛っているため、軽めの内容の適度な薄さのこの本はしっくりきた。


 ミニテーブル付きの椅子に落ち着き、読み始めた。人目が気になって読書に全然集中できないかもしれないと心配していたが、杞憂だった。人目は気にしつつも、読書を楽しめたのだからこれ以上のことを自分に望むのは間違っている。これでいいのだ。


読み終わり、もう一冊読もうか迷ったけれど、今日はこれ以上欲張らないほうが満足できそうだったので、スタバに寄って帰ることにした。


 スタバが苦手な私にとって、この試みは第二の関門である。
しかし、どうしても行かねばならない理由があったし、この日帰り旅行という勢いがなければスタバには当面行けない気がした。私は、どうしてもピーチフラペチーノが飲みたいのだ。桃ラバーズなのだ。ここで行かねば、桃好きだなんて語れやしない。


 入店からもたついた。
スタバの入口がわからず、入ってよかったのかわからない場所から猪のような勢いで入って客をぎょっとさせ、注文で挙動不審になり、“こいつは大丈夫か”という表情をされたように感じたのは被害妄想かもしれないが、その後トイレを探してさまよい、駐車料金を無料にするための手続き場所を探してさまよい、私はようやくピーチフラペチーノを片手に館内を出て車へ向かって歩いていた。


 その瞬間、凍える冬に温かい湯船に浸かったときのような、染み入るような幸福感が私を包み込んだ。


さまよってばかりだったけど、全然かっこよく楽しめなかったけど、さまよってばかりだったけど、すごく、すごく楽しかった。


図書館に来られたことも、そこで読書ができたことも、念願のフラペチーノを飲めたことも、そのこと自体も幸せだったのだろうけれど、きっと一番は、私の願いを私が叶えてくれたことがたまらなく嬉しかったのだと思う。

私はいつも、自分の願いを後回しにしてばかりだから。
不安や緊張で、やらない理由を正当化してばかりだから。


 

念願のピーチフラペチーノは、ストローがふやける前に飲まなければと急ぎすぎ、味がよく思い出せないが、美味しかった気がする。



さて、蟻地獄が待つ家に帰ろう。


 


 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?