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いじめられる側が悪者扱いされるのはなぜ?

こんにちは、瀬尾りおです。

いじめ対策の活動をしていると、しばしば耳に入ってくるキーワードがあります。

それは、
いじめ、いじめる側といじめられる側どっちが悪いか問題。

いじめについて詳しい皆さんにとっては簡単に答えがわかる問題でしょう。

なのにどうして、この答えの明確な問題が議題に上がるのでしょう。

このページでは

  • いじめられる側が悪者扱いされがちなのはなぜか?

を説明します。



"個性"と"悪"の関係性

 河合隼雄は著作「子どもと悪」の中で、

『個性は悪の形をもって顕現してくる。』(「子供と悪」7ページより抜粋)

と述べています。

 その意味は、

  • 個性とは既存の規範から外れた場所に現れるものである

という意味です。

 "既存の規範"とは、人間が集団を形成して進化してきた中で集団を維持するために重要なものです。では、そこからはずれた"個性"は"悪"なのでしょうか?


人類の進化を推し進めてきた"才能"

 一方で、アダム・スミスは『国富論』の中で"才能"についてこう言及しています。

Those talents, as they make a part of his fortune, so do they likewise that of the society to which he belongs.
「一人の人間にとっての才能は、その人物にとってだけでなく社会にとって資本である」

 例えば近代物理学の基礎を築いたニュートンについて考えてみましょう。
 彼は万有引力という概念を提唱しましたが、「モノとモノは互いに引き合っていて、丸い地球の裏側で人が落っこちてしまわないのは引力があるからだ」と初めて聞いたとき、あなたはどう感じましたか?

 「地球が丸くても大丈夫なのはそのせいなのか」と納得した一方、突拍子もないことだと感じた記憶はありませんか?

 ニュートンが提唱した概念は既存の概念から外れた突拍子も無いものでした。しかしニュートン以外には、この概念を思いつける者は居ませんでした。ニュートンの発想はニュートンの"才能"から生まれたのです。

 この"才能"は"悪"だったでしょうか?

 とんでもない、と多くの人は言うでしょう。
 アダム・スミスの指摘通り、ニュートンの"才能"によって社会は大きく進化しました。
 ニュートンの"才能"は悪いものであるどころか人類を救いました。

"才能"は"個性"からやってくる

さて、そんな"才能"はどこからやってくるでしょうか。それは"個性"です。

全員が同じ考え・同じ感覚を持っていたらニュートンのような“才能”は生まれません。“才能”は“個性”が育ったものなのです。

”個性”は扱いに困る

 そんな"個性"が、それが現れる瞬間には"悪"として扱われるのはなぜでしょう?

 それは、端的に言うと教育や仕事の場で扱いに困るモノだからです。

 何度も取り上げた"既存の規範"についてですが、これはヒトが集団を形成する上で必要なものです。学校であれば校則、会社であれば社内規則、もっと小さい仲良しグループのような集団の中にも不文律のような規範はあります。

 "個性"はその規範を破るものです。それがたとえ集団に利益をもたらすものであっても、です。
 みんながやりたい事を我慢して守っている規範を破る者がいたらその集団の他の人はどう思うでしょうか?

 なぜあの人には規範を破ることが許されて自分には許されないのか、感情のハレーションが起き、不快な思いをすることでしょう。
 集団の管理者は、集団の大多数が感じるその不快な思いの扱いに苦慮するでしょう。個性は取り扱いが難しい"困りもの"ではあります。


いじめは"個性"をあげつらって行われる

 いじめの定義についてのnoteに書きましたが、いじめは、「集団のルールに従わない者に罰を与えるのに快感を感じる」というヒトの特性から生まれます。

 そう考えると、いじめと"個性"は切っても切り離せない問題です。言ってしまえばいじめとは、"個性"を"悪"だとあげつらって責める行為だからです。
 そして、"個性"というのはこれまで説明してきた通り、既存の規範から外れ、集団の管理者を困らせるものという意味では"悪"です。

 いじめ被害者がいじめの責任を問われ、「いじめはいじめられる側が悪い」と言われるのはこのせいではないかと私は思っています。
 また、いじめ被害に悩まされる子供とその保護者が学校側に対策を要請したとき、学校側、つまり集団の管理者が、いじめ被害者にいじめ発生の責任を見てしまうのもこれが原因ではないかと考えられます。


個性の無い社会に進化は無い

 しかし繰り返すように"個性"は"悪"ではありません。そして"個性"を認めない社会に進化はありません。教育者など子供の集団を管理する立場にある人は、"個性"をやっかいものあつかいせず、社会を進化させうる大切なものとしてあつかうべきです。

 "個性"と社会進化の関係を考えると、日本経済がここ30年停滞しているのも、日本社会が欧米より個性の存在を認めにくいためにいじめの効果がより強く働き、個性というイノベーションの種をゴリゴリ削りつづけているためかもしれませんね。

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