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見えざる者の家(短編ホラー)

その日は太陽が壊れていた。誰も彼もが災害の如く降り注ぐ陽射しに打ちのめされて茫然としていた。亡霊のような人々の群れの中で、黒田は生臭い匂いのする自分の汗をハンカチで拭きながら思わず呟いた。

「こんな日に外に出るなんて、正気の沙汰じゃない」

 その日は休日だった。黒田は部屋でクーラーを点けながら昼寝をする事もできた筈だった。それなのに、わざわざ外に出て剥き出しの殺意を向ける日光を浴びているのは、5日前に届いたメールのせいだった。

「久々で突然こんなメールを送り付けてすまない。だがどうしても会いたいんだ。以下の住所の場所に来てくれ。頼む、後生だ」

 大学時代の友人の山峯から来た突然のメールに黒田は戸惑った。そもそもそれほど仲が良かったわけでもないのに今頃何故?

指定された場所は野田町3丁目の住宅街の隅だった。ネットで確認すると、川沿いにある場所で何度か近くを車で通ったことがある。しかし、何があったかはよく思い出せない。

「PS 来る時間は出来ることなら夜中が良い。もっとも無理なら昼でも構わない。僕は何時でもこの家にいる」

 奇妙な話だった。夜の時間の訪問を希望するとは。しかも、無理なら何時でも構わないという。恐らく、田舎の年寄りがよく言う「何時でも構わない」と違い、本当に何時でも構わないのだろうと思われた。何時でもいるのに夜を希望する理由とは?
 夜型だから、などと言う単純な理由ではない気がした。踏み込むべきでない何かがそのメールにはあった。

 黒田は一旦、メールを無視し多忙を極める日常に戻った。その週は取引先からのクレーム処理などトラブル続きで、非日常的なメールの事など思い煩う暇がなかった。

 しかし、週末になりクレーム処理も片付き、週末の過ごし方に思いをはせる余裕ができてくると、急にあのメールの事が思い出された。

 メールは要件について一切語っていなかったが、何か異様な事が起こっているのは文面からも明らかだった。いったん気になりだすとどんどん好奇心は膨らんだ。

 そして遂に休日の朝、彼の好奇心は心の許容量を超えた。その日は昼まで寝ているつもりだったのに、山峯の件が気になって寝返りも打てないほどだった。

 黒田は遅めの朝食を取った後、散歩がてらその場所を散策することにした。ちょっと住所周辺をうろついて、危なそうなら帰るつもりだった。時間は山峯の希望していた夜ではなく午後だ。どんな企みも太陽に焼き尽くされそうな猛暑日の午後に彼は出かけた。

 家を出て直ぐに彼は後悔した。今日の福島市はまさに地獄の窯の底だった。四方を山に遮られたその街では夏の大気が滞留し、際限なく気温は上がっていく。死人のように憔悴しきった人々。その横をけものじみたスピードで通り過ぎていく車たち。暗く赤い目玉で見つめてくる日光を背にした信号機。
 何もかもが狂っていた。

 よし、帰ろう。野田町まで来たところで、ようやく彼は決意した。

 ただ、その前にセブンイレブンに寄って、何か飲み物を買っていこう。

 立正佼成会を越えて直ぐの場所にセブンはあった。しかし、いざ中に入ろうとすると、ぞっとする感覚が背中を撫でた。

 振り向くと、道路を挟んで向かいにアパートとガソリンスタンドに挟まれた薄暗く細い路地が見えた。そこから風が吹いてきている。そして、その道の先こそ山峯がメールで指示した場所だった。

(何時の間にかこんなに近くまで来ていたのか)

 それにしてもこの酷く冷たい風は何処から来るのか。彼は不思議に思った。まるで何処かに保管されていた冬の風が吹き漏れているかのようだ。好奇心に誘われて、彼の足は約束の場所に向かって歩き出していた。

 横断歩道を渡り、その細い道をずっと歩き、寿司屋のある十字路を越えて、古いアパートが立ち並ぶ住宅街に入っていく。路地に奥に入れば入るほど気温は低くなり、最早寒さすら感じるほどだった。

 細い道の一番奥。不動産協会本部の隣に高い塀に囲まれた家があった。

 土地の広さは100坪ほどだろうか。家自体はその半分以下だがそれでも屋敷と呼んで差し支えない大きさだ。外観はその辺の建売住宅と変わらない、北欧風のデザインのものだった。しかし、その手の家にある筈の清潔感が皆無で、見れば見るほど黒田はその家から禍々しさばかり感じるのだった。

 まず、家自体が新しいはずなのに、周りを囲う塀がやけに古い。鉄製の柵で、令和のご時世にはとんとみかけない代物だ。そして、周りを柵で囲っておきながら、肝心の門の扉は開けっ放しだ。どうぞお入りくださいと言わんばかりだ。

 門から中に入ると一層寒くなる。敷地は造成したばかりのまっ平らな地面があるばかりで庭と呼べるほどの草花はおろか雑草の一本すらない。唯一敷地の端に枯れかけたブナの木があり、巨大な亡霊のように佇んでこちらを見下ろしている。

 家には一つとして同じ窓がなかった。羽目殺しの窓や、引き戸、丸窓や三角の窓などが統一感なく並んでいて、それが家全体の歪さを印象付けている。

 そもそも家の全体のつくり自体が歪で、右と左で非対称になっており、右の方がやや大きい。「歪み」としか形容のしようがない屋敷の屋根を長く見ているとそのアンバランスさにめまいがしそうだった。

 玄関のドアもおかしい。そこだけ昭和のデザインの引き戸であり、北欧風の屋敷と全く合ってない。別の所から引っ張ってきたドアを無理やり付けたかのようだ。実際ひどく古いものらしく、上部のすりガラスは黒っぽい何かで汚れている。

 これはやばそうだ。黒田はその場を立ち去ろうとした。

 しかし、囁くような低い声が彼を呼び止めた。

「あの、うちに何か御用ですか」

 振り向くと、髪の長い女性が立っていた。

 背は彼と同じくらいだろうか。濡れるような黒髪をしていて、手足は折れてしまいそうなほど細い。肌は雪のように白くて、鍔の広い帽子を斜めにかぶっている。帽子の下から覗く左眼には独特の気品と悲しみがあった。

「あの、どうしました」

 女性のあまりの美しさに茫然としていた黒田は慌てて自己紹介をする。そして要件も正直に話してしまった。適当に嘘をついて帰る事もできたのに、何故か目の前の女性にそれはできなかった。

 説明を聞くと彼女は両手を叩いくような仕草をした。さり気ない所作の一つ一つが美しく、何処かの令嬢を思わせる。

「お客様ですのね、それではこちらへどうぞ」

 そう言うと、彼女は音もなく彼の横を横切り玄関に向かった。その様はまるで妖精のように現実感がなかった。

 彼女が玄関のドアを開くと、外よりもいっそう冷たい風が漂ってきた。それは正にこの辺りに漂う冷気の正体だった。

「さあ、お入りになって」

 優しく甘いその囁き声には、有無を言わさぬ強制力があった。黒田は言われるがままに玄関へ足を踏み入れた。玄関の先は大きなホールになっていて、玄関のドアのデザインとはまるで合っていなかった。それだけではない、ホールの先の二階へ上がる階段も、右手に見える襖も何もかもがちぐはぐだ。まるで全く別の空間を繋ぎ合わせたような不気味な非現実性がある。

 この家を建てたのが誰かは知らないが、一体どういう意図があってこの家を建てたのだろうか。是非とも問いただしてやりたいと思ったその時だった。

「やあ、君か!」

 ほとんど悲鳴のようなヒステリックな声が頭上から降って来た。

 顔を上げると、二階の踊り場からこちらを見下ろしている骸骨のような男がいた。

「やあやあ、本当によく来てくれた!」

 階段から降りてくるぎくしゃくとした動きは正に骸骨で、その出鱈目な動きに危うく黒田は悲鳴を上げそうになった。

「山峯か」

 やっとの事でそういうと、爛々と輝く眼をしながら骸骨は黒田の手を握り締める。

「待っていたよ」

 目の前の化け物のようにやせ細った旧友から思わず目を逸らすと、彼は妙なことに気づいた。

「あれ?」

「どうしたんだい」

「さっきの女性はどうしたんだろう」

 気づけば女性の姿が何処かへ消えていた。

「女性?」

「お前結婚したのか。髪の長いとても綺麗な女性にここまで案内されたんだけど」

 山峯は一瞬訝しげな顔をしたが、直ぐに眼を輝かせた。

「ああそうだとも!」

 今度のは完全に悲鳴だった。

「君を呼んでよかった」

 黒田の肩を叩いて山峯は言った。

「美しい花嫁だろう。これから僕は彼女と結婚するのさ」

「それはおめでとう。式は何時だ」

「今日だ」

 彼はなるべく声を和らげてこう言った。

「それじゃあ、俺はそろそろお暇させてもらおうかな」

 黒田の肩を骨ばった手でぎゅっと掴むと、山峯が笑った。その顔は依然骸骨じみてはいたが、先ほどまでと違い眼には生気が宿っている。暴力的なほどの生気が。

「まあ、そう言うな。折角来たんだ。珈琲でも飲んでいきたまえよ」


 リビングのソファに黒田が座ると直ぐに、何処からともなく赤いネクタイをした老紳士が現れて珈琲を置いていった。

「ありがとうございます」

 黒田が頭を下げると、山峯は目を丸くしてぽかんとした。

「何だい?何か変か」

「いや、何も」彼は首を振って微笑んだ。「君を呼んで良かったと思ったのさ」そう言って彼は自分の目の前のコーヒーを一口飲みほした。

「うん、美味い。これはグアテマラだな。好みの味だ」

「恐れ入ります」

 老紳士が頭を下げた。

「なあ、そろそろ俺を呼んだ理由を聞かせてくれ」

「うんそうだな。君は僕がちょっとした名家の生まれだと言う事は知っているかい」

「知ってるも何も」黒田は笑ってしまった。「見たまんまだろう」

 山峯はちょっとむすっとしたようだが、直ぐに気を取り直して話をつづけた。

「実はね、去年の秋に祖父がコロナで亡くなったんだ。入居先の施設でクラスターが発生してね。あっという間だったよ。僕の父は数年前に亡くなっているものだから、僕が法定相続人となったんだ。結果膨大な資産が僕のものになったと言う訳だ」

 黒田はため息をついた。自分は朝から晩まで働いてようやく生きていけるほどの給料だと言うのに。自分が神ならもう少し世界を平等に作っただろうと黒田は思った。

「自慢話をするために呼んだわけじゃないだろうな」

「まさか。そんなつまんない事の為に呼ぶものか」

 ふっと山峯は笑った。姿かたちは変わっても、嘲笑するように笑うその姿はあの頃のままだった。

「問題はこの家さ」

「やはりか」

「分かったかい」

「大方いわくつきの物件なんだろう」

「ちょっと違う」

 ち、ち、ちと人差し指を振ってみせる。

「祖父はいわくつきの事故物件を繋ぎ合わせてこの家を作ったんだ」

「はあ?」

「祖父は15年前にパーキンソン病になってからオカルトに嵌まり込んでね。死後の世界を証明するための研究を始めた。これはその研究結果の一つさ。もし、死後の世界があるなら、凶悪な事故物件を繋ぎ合わせた屋敷に幽霊が出ないわけがないとね」

 黒田は呆れてしまった。そんな馬鹿なことをする奴がいるとは。思いついても普通は実行に移さないだろう。

「よく開発許可が下りたもんだな」

「最初は許可が下りなかったり、一旦許可は下りたもののいざ建てた所違法建築と言う事で取り壊し要請が出たりと中々上手くいかなかったそうだよ。行政との折り合いの結果生まれたのがこの家さ」

 黒田にはとてもそうは思えなかった。この街の行政は頭が固い事で有名なのに。こんな奇怪な建物に許可なんて出すとは思えない。

「ま、裏で手を回したことは確からしいけど」

「手を回すって言ったって福島市の行政は組合の力強いから上から抑え込むのは逆効果だぞ」

 黒田もさんざん市の行政には酷い目にあわされていたので、にわかには信じがたい事だった。

「或いは市の職員も祖父の情熱にほだされたのかもね」

「くだらない。何もかもくだらない話だ」

 黒田が吐き捨てるようにそう言うと、山峯はニッと笑った。

「君ならそう言うと思ってたよ。君は霊を信じていなかったからね」

 大学時代、二人が同じサークルで最も近くにいながらあまり仲良くならなかったのはそれが原因だった。二人とも怪談やホラー映画をこよなく愛する身でありながら、それを信じているかいないかと言う点では全く逆の立場をとっていた。

「僕らはさながらスタンリー・キューブリックとスティーブン・キングだった。同じく怪奇を愛しながら君はそれを信じず、僕はそれを信じた。知っているかい。僕は君が気の毒だった。そして羨ましかった」

「どういう意味だ」

「怪奇を愛しながらその実在を信じられない。それは不幸なことだ。だが同時に気楽だ。何も期待もしないで済むんだから。僕はそうじゃない。期待せずにはいられない。信じずにいられない。幽霊はいるんじゃないか。あの世はあるんじゃないかってね」

「幽霊を見た事はないんだっけ」

「ああ」

山峯はひどく悲しそうな顔をして頷いた。

「なら、おじいさんからのこの遺産を受け取った時は嬉しかったろう」

「勿論だとも。祖父が残したこの家の設計書類によれば、祖父は実に126の事故物件、しかも凶悪な事故物件の遺留品や現場の建物に使われた資材などをと使いこの家を建てた。だが悲しいかな。完成させる前にパーキンソン病が悪化し、施設に入ってしまった。そして施設に入った翌年にコロナで亡くなってしまった。代わりに僕がこの屋敷に住むことになったわけさ。

 僕はこの屋敷を一目見て期待したよ。こんな恐ろしいところに幽霊が出ないわけがない!最初の晩は百鬼夜行が闊歩する姿を夢想したものだよ」

「だが、何も出なかったんだろう」

「よく分かったね」

「当然の帰結だ」

「最も緊張したのは最初の一日だ。それ以降はどんとん希望は沈み、気持ちが落ち込んでいってね。一週間、二週間、そして半年が経つ頃にはこう考えるようになってしまった。そもそも幽霊なんていないじゃないかって」

「10年は遅いな。良い年して幽霊なんて信じるもんじゃないよ」

 言った後に、しまったと黒田は思った。大学時代も、自分のこういう発言から喧嘩になった事を思い出したのだ。しかし、山峯はあの時のような傷ついた顔はしていなかった。それどころか益々嬉しそうな微笑みを浮かべて手をすり合わせるので、黒田は不可解に思った。

「その後は殆ど引きこもり状態になり、ネットフリックスでホラー映画やアニメを観まくったよ。そしてサマータイムレンダを全部観終わったころだった。僕はもう一つの可能性に思い立った。
 幽霊はいないのではなく、ただ見えていないだけなのではないかと」

 黒田は呆れたようにため息をついたが山峯は構わず話をつづけた。

「量子の揺らぎと一緒さ。観測することによって幽霊は存在が固定化される。ただ、幽霊を見るにはある種の才覚が必要で、僕は才覚がないらしい。所謂霊感と呼ばれるものだ」

 なるほど、良い逃げ道を思いついたもんだ。そう思ったが黒田は口にしなかった。

「そこで、君に来てもらった」

 黒田は思わず苦笑いを浮かべた。

「悪いな。生憎私には何も見えない」

「いや、見えてるさ」

 首をふる山峯を見て黒田は、はたと気づいた。リビングの向こう、キッチンにあの女が立っていた。無言でこちらを見つめている。だが何かがおかしいと感じた。最初は気づかなかったが、あの女の眼は何か異様だ。まるで・・・。

「おや、震えているね」

「おい、お前の奥さんに言ってくれ。そんな目で見るのは止めろと」

「誰の事だい」

「さっき紹介してくれたろ。お前の奥さんだよ!」

 山峯は両手を大きく広げて言った。

「この家に住んでるのは僕一人さ。他には誰もいない」

「嘘だ・・」

 黒田は唾を飲み込んだ。

 そんな訳がない。あんなにはっきり見えてるのに。

「だ、大体誰もいないというのなら、この珈琲はなんだ。誰が出してきたって言うんだ」

 黒田はテーブルの上のコーヒーを指さす。
 山峯はすっかり冷たくなった珈琲を一気に飲み干すと空のコーヒーカップを片手に勝ち誇ったように笑った。

「この珈琲カップはさっき突然出てきた」

「突然出てきた珈琲を何の躊躇いもなく飲み干したのか!」

「うん」

「お前はイカレてるよ」

「人生で初だよ。幽霊の煎れてくれた珈琲を飲むのは。実に美味かった」

「恐れ入ります」

 山峯の後ろにあの老紳士が再び現れて頭を下げた。よく見れば老紳士の口には歯がなかった。両目もない。眼孔から見た事もない程深い闇が黒田を見つめていた。

「うん!今のは僕にも聴こえたぞ!」

 老紳士がにぃっと笑うと、歯の欠けた口の奥から何かが零れ出た。

「ん、今何か落ちたな。何だ?」

 床に落ちたそれをひょいと拾い上げると、山峯は歓声を上げた。

「おい、蛆だよ。凄いな。これは怪奇現象か?やったぞ!僕の仮説通りだ。観測するものが現れた事で、幽霊たちは存在が固定されてきているんだ」

 ソファから飛び上がるように立ち上がると、言葉を発することもできず茫然としている黒田の手を取った。

「ありがとう!君を呼んで本当に良かった。ついては教えてくれないか。この蛆を落としたやつは何処にいる?どんな姿をしている。そして僕の花嫁は。一体、何処にいるんだい?」

 山峯の言葉に答えるようにしてキッチンの女は帽子を脱いだ。

 女の顔半分は皮が剥がされていた。柘榴のように真っ赤な肉の中に剥き出しの目玉があって涼し気な左眼とは別の生き物のようにぎょろぎょろと別の動きをしている。女は黒田に向かって微笑んだ。それは恐ろしい微笑みで、醜悪さと美しさの入り混じった化け物の笑いだった。

 黒田は山峯の手を強引に振りほどくと、悲鳴を上げてその場を逃げ出した。

 玄関に向かおうとして、唖然とした。すりガラスの向こう側に何かが立っている。背の高い異様な男。そいつが扉を叩いて黒田を呼んでいる。

「な、な、ここ、開けて。な?ここ、開けて」

 辺りを見回したが、既に一階のそこかしこに一目見てそれと分かる異形のものがひしめいていた。
 玄関横の襖は開いていて、中の和室では真ん中に老婆がいてこちらに背を向けている。
 ダイニングの天井には何者かがさかさまにへばりついている。
 トイレからは何かが這いずりながら出てきている最中だったが、見届ける気は毛頭なかった。黒田には絶対に向かうべきではない、二階へ上がる道しか残されていなかった。

 黒田が階段を駆け上がる最中、山峯の歓声が聞こえた。

「ああ、ありがとう黒田!僕にも見えるぞ。やっと会えたね。僕のかわいい花嫁!」

 そして笑い声。笑い声はやがて悲鳴に代わり、絶叫が続く。

 彼は耳を塞ぎながら二階を見渡した。

 二階には見た目で分かる以上は何もなく、誰もいない。

 しかし、異様な気配は至る所にあった。階段を上がってすぐ左手は書斎で、そこには扉がない。中には誰もいないようだ。だが何処からか赤ん坊の泣く声がする。前方には二つの扉があり、二つとも鉄製の扉だった。一つは真っ赤でもう一つは黒い。如何にもいわくありげだ。右手は木製の扉で、この家にしては珍しく現代風だ。だが、だからこそ怪しげに思えた。どの扉が正解なのか。そう考えたところで、黒田は思わず引き攣った笑いを浮かべた。

(正解なんてあるわけない)

 そう。山峯の話が本当なら、この家の全てが事故物件であり、全ての扉は冥府へと通じているのだ。

 何時の間にか山峯の絶叫が止んでいた。きっと死んだのだろうが、自分をこんな目に合わせた旧友に対して同情する気にはなれなかった。もしまだ生きているのなら自分が止めを刺したいくらいだった。

 山峯の絶叫が止むのと入れ替わりで階段を上がる足音が聞こえた。一段一段確かめるように何者かがゆっくりとこちらにやって来る。あの女か。老紳士か。はたまた別の何かか。どちらにせよ一刻の猶予もなかった。

 黒田が右手の木製の扉を開けたのは、何か勝算があったからではなかった。どの道不正解しかないなら選択しやすい扉の方が良いだろうと思っただけだった。

 扉の向こうは寝室だった。何も異常なものは見当たらない。そして、正面の窓はバルコニーに通じていた。

 バルコニーの向こう側には太陽の街があった。そこには青い空と、気怠い日常があった。

 窓に駆け寄った黒田だが窓に手をかけたところでふと手を止める。

 2階のバルコニーから飛び降りたらどうなるだろう?子供の時ならいざ知らず、30近い運動不足の身体では骨折は必至でなかろうか。

 後方で寝室の扉が開く音がした。誰かが入って来た。

 もう迷っている暇はない。黒田は窓をがらりと開けた。

 窓を開けた途端、太陽が消えた。先ほどまでの日常も、太陽も、空も消え、底なしの闇が彼を出迎えた。

 闇の中から無数の手が表れ彼の身体をつかんだ。黒田は悲鳴を上げようとしたが、闇は悲鳴すらも呑み込み、彼の全てを引きずり込んだ。

 後には何も残らなかった。

               了

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