メモ:ちょっと考える―〈倫理〉が〈語られる〉ということ―

学としての倫理学、または倫理を〈語る〉ことは、〈倫理〉から離反することになる。
〈倫理〉は最も人間的なものであり、だからこそ人間に最も反するものとなる。これは、〈倫理〉が、〈真理〉とは異なるということ、そして〈倫理学〉が〈真理〉を扱うことを〈至上〉とすることを暴きだすものである。
〈私たち〉は〈反省〉といったかたちでしか〈倫理〉を取り扱えない。そもそも、〈倫理〉は〈反省〉、つまり〈懺悔〉である。
もし、この〈反省〉を度外視して、〈倫理〉の〈存在〉を問題にしたとき、私たちは〈倫理〉を最も〈倫理〉とは程遠い仕方で〈語る〉ことになるであろう。それは、人間に最も反するものである。
ここで、〈倫理学〉においては必要となる〈真理〉は、〈倫理〉においてはどんなものでもかまわないといえる。これは〈真理〉が〈真理〉であることに矛盾しているのではなく、科学的な〈真理〉への批判であり、学としての倫理学への失望である。
〈倫理〉は〈懺悔〉によってのみ〈語られる〉ものである。ある人間に、いくら〈倫理〉を〈語る〉ものが多かろうが、その人間が〈懺悔〉によって〈倫理〉が〈語られる〉ことがなければ、〈認識〉が〈倫理〉として〈語られる〉ことがない。また、このときに「〈倫理〉を〈語る〉」ことと、「〈倫理〉が〈語られる〉」ことの区別を見失ってはならない。〈倫理〉は〈実在〉するが、その〈実在〉自体は〈懺悔〉によって〈語られる〉ことによってのみ、私たちに〈現出〉するものである。ここで〈志向性〉は、〈倫理〉に向かうことはなく、〈語られる〉ことに向かう。もし、〈志向性〉が〈倫理〉に向かうのであれば、私たちは〈倫理〉の〈現出者〉を〈構成〉しなければならなくなる。
〈倫理〉においては、〈他者〉は必要なく、〈認識〉において〈他者〉が必要となる。〈殺人〉が〈懺悔〉によって〈語られる〉とき、つまり〈倫理〉が〈現出〉するとき、〈殺された人〉も〈現出〉するが、ここに〈現出者〉としての〈人間〉が立ち現れる。〈倫理〉において必要なのは、この〈人間〉であって、〈他者〉ではないことは、〈倫理〉が〈反自我〉的なものでありながら、〈反〉であるゆえに〈自我〉的なものであり続けることを示唆する。
〈倫理〉が〈自我〉に〈異質的〉なものでありながら〈同質的〉であるように見えるのは、私たちの〈存在〉が問題となっているからである。〈存在〉を〈懺悔〉するときに〈語られる〉ことになる〈倫理〉は、〈存在し続ける人間〉によって〈語られる〉ことになる。〈倫理〉が、単に〈受動的〉なものではないことは、それが〈語られる〉ことによって〈現出〉するものに過ぎないからである。ここで〈受動的〉なものは、〈語られる〉ことである。
〈超越論的主観性〉は〈語る〉のみである。
あらゆる〈殺人〉は、殺された人によって〈倫理〉がその〈人間〉によって〈語られる〉ことが不可能になるという点で問題になる。〈懺悔〉の〈非対称性〉によって、〈語られる〉ことが不可能になり、〈語る〉のみが未だに可能として残る。
〈倫理〉と〈認識〉が絡み合う〈生活〉において、そのような〈生活〉を〈営む〉ことにおいて、〈倫理〉が〈語られる〉ことが〈語られる〉とき、〈自明性〉としての〈倫理〉が、〈認識〉のように明らかになり、そして〈認識〉に一元化され〈倫理学〉とならないとき、つまり〈倫理〉が〈倫理〉のまま〈人間〉によって〈懺悔〉されるとき、〈人間の倫理〉が成立する。


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