伝統行事で火柱を作った話
なき祖父母の家はハイレベル田舎だった。
どれくらいかというと、全国99%以上網羅をうたったインターネット回線の残り1%未満のエリアに入っていたレベルの田舎であった。
とはいえ、日本の田舎にしては山が比較的低いエリアで畑によって分断されてはいるものの車があればスーパーの百均も15分あればいけるので、限界集落はまぬがれていたし、合併で他の村と融合して無駄に広い町になっていたため自治体としてはちゃんと維持されていた。そのため、一見すると畑の中の山際に家がいくつか寄せ集まってる場所くらいの見た目だった。
しかしながら、そこは歴史ある田舎。
思い返しても意味の分からない風習にまみれていた。
十年以上前のこと。
祖母がなくなった最初のお盆。
私は祖母の地元の風習に従い、葬儀屋のバックアップと指導を受けながらその地方流の初盆の準備を家族としていた。普段その付近に住んでいないため葬儀屋のほうが風習に強く、かつそういう遺族のためのプランもあったため躊躇なく我々はその地元風のお盆のプランを申し込んだのだ。
結果、母は謎の仙台七夕祭りの飾りに似たきらびやかな飾りを軒下に下げ、父は謎の竹で出来た祠のようなものを組み立てて玄関の外に置き、姉はリュウグウの葉っぱに洗った米と刻んだなすときゅうりを混ぜたものを乗せ、私は祭壇の周りに部屋を七色に照らし出す灯籠を設置していた。
なにこれ??
騙されていないかという気持ちがよぎるが、記憶の彼方の幼児のころにあった祖父や曾祖母のお盆でも似たようなことをした記憶があり、手伝いにきた地元民も至極真面目に謎の派手な飾りを褒めているので、これで良いらしい。
お葬式でも、茶碗を割ったり、謎の高坏に盛られた餅を持たされたり、頭から手ぬぐいや籠を被せられたり、紙吹雪が舞ったりしていたので、まあそういうものなのだろう。
もしかすると今私は民俗学的にものすごく興味深いことをしているのかもしれないと思ったが、一抱えある灯籠✕2台により七色に照らし出された祭壇と和室がはげしく気を散らせて、あまり深くは考えられなかった。
この灯籠、なんと七色に光るのだ。
たぶんこの色は極楽浄土の七色の光を表現しているのだろうが、真っ昼間の走馬灯はひたすらシュールであった。仏像の金箔や教会のステンドグラスは仏や髪の威光を当時の全力技術で現したものらしいので、この優しめカラーのエレクトリカルパレードもある種合理的なのかもしれない。今は電気式なので火の番がいらないのは幸いである。
とにかく祭壇のある部屋とその周辺はど派手にかざり、毎日のお供えはかかさず、盆の間はその部屋の明かりと灯籠は無人であってもずっとつけていないといけないらしい。
消すとどうなるのか好奇心がうずいたが、冠婚葬祭に好奇心をはさんではいけない程度の常識はあるため、我慢した。
閑話休題。
意味の分からない決まりをはさみつつも淡々と盆行事は進み、お坊さんがきて法事をし、最終日の夜には宴会が行われた。
和室いっぱいに並んだ長テーブルのうえにたくさんのご馳走と飲み物、取皿が用意され、田舎あるあるの知らない遠い親族と近所の人たちが入れ代わり立ち代わりやってくる。
来客の顔や名前なんぞ分からないぞと思ったのだが、『見覚えのない客であっても追い返してはならない』というルールがあるため、特に考えることなくきた人を通すことになり、その心配は無用であった。
居住スペースと社交エリアはそもそも建物が別れているため、特に窃盗の心配もない。このフリーパス制は、盆踊りみたいな死者がこっそり混ざれるようにとかの配慮なのであろう。
残念ながらをあからさまな死者はみたことがないが、何者か分からないがいつも気づくといる自称遠縁はいたので、もしかするとあの人はもう死んでいたのかもしれない。
そして全ての行事が終わり宴会もお開きの時間になった夜、最後の儀式がはじまった。
初盆の家はすみやかにすべての飾りを撤去し、玄関前の櫓なども運び出す。これは近所のひと総出でお手伝い。この年はうち含め3件も近所で初盆があったため、何度か往復して運ぶことになった。
金属や燃やせない電気式灯籠などの家電は一時的に近くの地蔵堂に運んでおき、できるだけはやく粗大ごみや不燃ゴミに出すこととなっている。このあたりは時代に合わせた追加ルールらしい。
祭壇の花やおそなえ、宴会のご馳走のあまりは、欲しいものがあればその人の皿やタッパーに移してもっていっていいが、誰も欲しがらないものはすみやかに飾りなどと一緒に運び出されてる。
おそらくポイントは、
・お盆のために用意されたもの
・次の所有者が決定していないもの
の両方に該当するものを家の中に残してはいけないということだろう。料理なども、「お下がりとしてもらう人が決まっていない≒まだ死者のためのもの」と判定されるのではないだろうか。
ちょくちょく行事中に謎の禁止事項が入るのは怖いのでやめてほしい。
さて、運び出されたものはすべて、集落の入口近くの橋の向こう側の河原に集められる。
川と言っても川幅は2メートルないくらいで河川敷の1メートルあるかの細い川だ。しかしここを通らず集落に入るにはかなり回り道をしてぐるりと山の方から回り込むしかないため、生活には大切な場所である。
そして、集めた品はここで燃やされ、すべてを灰にして川に流すことでお盆はすべておわりとなる。
このあたりでは川はお盆の間死者の道になるともされるので、死者のために用意したものをお土産としてもたせると共にここで線引きをして死者をあちらに戻す意味合いもあるのだろう。
この年は複数人の初盆が重なったため、積み上げられたお盆の品はちょっとしたキャンプファイヤーかどんど焼きのように見えた。
新聞紙を火種に火がつけられた。
地元の青年会が老人会になって久しいため、火をつけるのは地元のおじいちゃんたちだ。やがて小さな火が布や竹に燃え移り小さな焚き火となった。パチパチと火が弾ける音がして煙があがる。
虫の音。川のせせらぎ。炎。
ノスタルジーとわずかな非日常感。お盆のしんみりとした空気がただよった。ここまでは。
そこで、
「はい、そこ近いよ。下がってさがって」
と老人会指導が入り、ぼやーとしていた主に帰省組がいっせいに焚き火から5メートル以上遠ざけられた。
川どころか土手の斜面からも追い出されつつよく見ると、地元民はとっくにヒカリが届かないほど遠くまで下がっている。
全員の退避を確認してから火付け役も下がり、代わりにポリタンクを抱えたおじいさんが登場した。
ドォーン
やばめの音とあまりのお目にかかれないタイプの光ともに火柱が立ち上った。
おじいさんが焚き火に会心の一撃を放った――というわけでは当然なく、じいさんがポリタンクの中身を火にかけると同時に慣れた動きで飛び退った瞬間、焚き火が火柱に進化したのだ。
……灯油だ
ポリタンクの中身が予想できて、帰省組の顔色は悪くなった。
完全に忘れていたが、この灰になるまで燃やす儀式、何時間もかけて燃やすのは参加者の体力が持たないので時短のため灯油をかけるという嫌な現場ルールがあるのであった。
「気をつけろよ!」
「なんの、いざとなれば後ろは川だ!!」
火だるま前提の会話が聞こえた。
私の頭の中の現○猫が「どうしてヨシと思ったんですか?!」と叫んでいたが、普段地元にいない人間に地元の方針にはさめる口などあるはずもなく、あまりの熱気に我々はそろりそろりと後ろに下がった。かなり離れているはずなのに肌がビリビリし、あたりは昼のように明るくなった。
「……」
しんみりしたお盆の空気は吹き飛んだ。燃えるべくして精製された燃えるものがキャンプファイヤースケールで燃やされると火柱が生まれるらしい。
ああ、灯油ストーブの中で赤々と燃えているときはあんなに温かく優しい炎が、外に解き放つとこんな火柱になるとは。
そして灯油を解き放つ行為は何らかの法に触れていないだろうか。火をたく以上、消防署への届け出はされているはずだが、消防署のほうも灯油で炎上させているとは思ってもいないであろう。
顔色の悪い帰省組に対し、地元民はさして珍しい絵面でもないのか退屈そうに火柱とはしゃぐ老人たちを眺めていた。どんど焼きのように何かを焼いて食べられるわけでもないので、火遊びが好きでもなければ退屈しかない行事なのだろう。火柱できてるけど。
河川敷や土手の斜面は暑すぎて立っていられないため、ほとんどの参加者が土手の上の道や橋の上で立ち話をしたり、星を眺めて現実逃避したり、暇すぎて雑草をむしったりしながら火が小さくなるのを待っていた。
一応盆行事なのでゲームをしたりするわけにも行かずぼんやりとしていると、遠くの国道のほうから車がやってくるのが見えた。畑の中の細い一本道なので、こちらにくる車はかなり遠くから見えるのだ。近づいてくるとそれはただの車ではなく、タクシーだと分かった。
この集落が目的地らしいと気づいた参加者たちはひとまず灯油の追加を控えて、車一台分の幅しかない道をあけようと急いで橋や道のはしにより、結果として意図せずタクシーを囲む花道のようになってしまった。そして今更灯油を止めても火柱は火柱であった。
タクシーは花道の手前で止まり、窓を開けた。
「火事ですか!?」
焦った顔の運転手が顔を出した。
タクシー会社は2つ隣の市のものであきらかに地元民ではない運転手は完全にひいていた。
火柱
遠い集落
火柱を囲む黒服の住人たち(お盆なので)
どう見てもサバトである。無理もない。しかも若干歓迎するのように花道まで作っている。
「いや、お盆も終わりなので焚き火で燃やしているんですよ」
近くにいたおばあさんが答えた。全然回答になっていなかった。
「焚き火!?」
送り火にしては火力過多であきらかにケミカルな輝きで燃える火柱に、どんど焼きや祭りの篝火のような神聖さはかけらもなかった。運転手は二度見で火柱を見て、それから信じられないものを見る目で我々を見た。
たしかにこんな火で送られれば、祖先だって急いで帰りたくもなるだろう。普通、帰りはゆっくり茄子の牛で送るものではないのだろうか。
運転手は住人に問いただすのをあきらめると、今度は後部座席の客にこんな火が燃えているすぐ横の道は通れないと主張していた。危機管理のしっかりしたおひとである。いちおう物理的には通れるので(熱いけど)、橋を渡って奥の家々のあるあたりまで客を連れていけばワンメーターくらいは上がりそうであったが、運転手は料金よりもこの訳の分からない場所からの逃走を優先したようだった。
まもなく後部座席の扉が開いて、近所の住人の孫(新婚)と涙目の奥さんらしきひとが出てきた。どうやら仕事で帰れなかったはずの孫がなんとか折り合いをつけてお盆最終日の最終便で帰省し、タクシーで祖父の家を目指したらその手前で火柱ができていたということらしい。
別の日が一つ早い便であれば火柱はなかったはずなので、間が悪いとしかいいようがない。
「あー、おかえり」
「今かえったのかー」
近所のひとの田舎らしい声掛けも、背後の火柱がすべてだいなしにしている。
「……なに、これ」
「今年は初盆あったからね」
孫も火柱のことは把握していないか忘れていたらしく、燃え上がる炎にひいていた。嫁は横溝正史の世界にきてしまったとでも思ったのか、落ち着かない様子でオロオロしていた。
「…まあ、送り火みたいなもんだからこれで盆行事はおわり。あんたらは手伝わないで大丈夫」
孫の祖父がなぐさめるようにいった。お盆に間に合わなかったことを、気にしていると思ったらしい。多分そういう問題ではない。
タクシーの運転手のほうはもう少し進むとUターンしやすいところがあるという住人の申し出を早口で辞退して、ちょっと心配になる速度でバックで夜道に消えていった。
背後ではまたじいさんたちが灯油を投げ入れを再開していて、また力強く火柱はまたたいた。
「お盆のね、提灯とかをああやって燃やすんですよ」
帰省組が気を利かせてさりげなく危ないものを燃やしているわけではないことを伝えたが、炎の輝きがあきらかに怪しいほど強く、説得力はなかった。
数分後、すべては消し炭となり、今年も火だるまを免れたじいさんたちが灰と炭に丹念に川の水をかけて鎮火してから川へと流していく。あたりは元の暗さを取り戻した。虫の音とせせらぎの音が戻ってくる。
それがその場所での最後の初盆であったため、今もまだ同じことをしているのかは分からない。
しかし、伝統行事で火柱を作ったのはあとにも先にもその時だけである。
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