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ジェイラボワークショップ第49回『時間は存在しない』【物理学部】[20230220-0305]#JLWS

今回は,物理学部で輪読をした『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ)を題材としたワークショップを行いました.以下はそのログです.「★」がついたものだけで読み物としては完結しているので忙しい方は「★」だけ読んでもらっても構いませんが,「★」以外も含めて全部読んだ方がより実際の空気感を味わえると思います.参加者のコメントについては,発言者の頭に「■」をつけ,その返信には発言者の頭に「・」をつけています.なお,図については著作権の関係でこのnote記事には載せないのでご了承ください.

オープニング(Day1)

★Naokimen

皆さんおはようございます。今日から物理学部のワークショップが始まります。今回のテーマは「時間は存在しない」です。物理学部では昨年10月から今年1月までカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』の輪読を行いました。今回はその輪読の際に作成した本書の要約を順に投稿し、皆さんに時間について考えてもらいます。今回は数式はほとんど登場しないのでご安心ください。また、ワークショップを通して合計3つの質問を投稿するのでそれにお答えしていただけるとありがたいです。内容に関する質問はいつでも受け付けますので、もしあれば気軽に質問してください。それでは2週間よろしくお願いします。

Q1(Day1)

★Naokimen

本日は1つ質問をします:
【Q1】今回のテーマである「時間」とはどのようなものだと思いますか?具体的な内容に入る前に現時点で考えたことを教えてください。

■コバ

時間とは「変化の一種」だと思います。
つまり時間とは本質的には「変化」であり、それを取り巻く対象との関係性の中で存在しているということになります。
つまり「時間」それ単体は「存在しない」と言えます。
普段我々が「時間が存在する」と感じるのは、それはつまり本来は対象との関係性の中にある「時間」を素朴に時間単体として「存在する」と我々が認識しているに過ぎません。

もしかしたら「時間は時計を用いて測れるじゃないか。測れるのであれば、時間は存在すると言えるじゃないか」そんな意見もあるかもしれません。
しかしそもそも我々人間は、数字を当てはめることができるものをたまたま「測れる」と言っているだけに過ぎません。
時間も長さも重さも、我々は測れるから測っているに過ぎません。
測れる=存在の保証にはなりません。時間が「測れる」というのは数字との関係性に過ぎません。

・Naokimen

ノーヒントでここまで考察できるのは流石です。「時間とは本質的には変化である」というのはその通りだと思います。その考え方については本文中にも登場します。
「我々人間は、数字を当てはめることができるものをたまたま「測れる」と言っている」というのもその通りだと思います。その主語が「我々人間」であるというのも重要なポイントですね。

■ゆーろっぷ

・時間とは人間の脳の機能に由来して生じる概念の一つである
・時間という概念は、視覚とそれ以外の感覚器が捉える外界からの入力情報を脳内で統合する必要があるために生じる
・時間の認識は対象の変化の認識に他ならないが、その中に周期的に反復される事象の認知が含まれるという点で、単なる変化の認識から派生したものである

今のところ抱いている「時間」に対するイメージです。時間が「測れる」というのは「時間の単位」が構成できるからであり、それは周期的に繰り返される事象の存在(+それを知覚できること)が根源にあるのだと思います。ともかく、時間という概念はやはり人間という観察者(主体)からは切り離せないものだという認識が強いです。

・Naokimen

時間という概念が人間から切り離せない、というのはとても鋭い視点です。ネタバレになるので詳しいことは言えませんが、後半の方でこの考え方はとても重要になってきます。時間についての考察に限らず、科学全般において人間の視点から物事を見ているという認識をすることは大切ですね。

第1章 所変われば時間も変わる(Day2)

★チクシュルーブ隕石

「時間」はよく単一の量、つまり至る所で一様に経過する量として捉えられがちであるが、実際のところはそうではなく場所によって異なる。例えば、地球上において、高い山の上よりも地球の質量の中心に近い平地の方がより時間の進みが緩やかである。これは地球が巨大な質量を持っていることに由来する。一般相対性理論によれば、質量を持つ物質の周囲の時間は減速する。このため、地球の中心により近い方が時間の減速がより大きく起こる。地球上の物体が地面へと落下するのはこの時間の減速のためである。惑星間の空間では時間が一様に経過するために物体は落ちずに浮いている。

2600 年ほど前のギリシャにはアナクシマンドロスという哲学者がいた。主に自然哲学に親しみ、その頃既に地球がなんの支えもなしに宙に浮いていることを知っていたとされる。彼の著作の中にこんな一節がある。「事物は必要に応じて、ほかのものに変わる。そして時間の順序に従って、正義となる。」以来、物理学は、「時間の順序に従って」現象がどのように起こるのかを探究してきた。この「時間の順序に従う」という考え方は、これまでのいかなる物理の方程式においてもその根幹にあった。しかし、先程述べたように「時間」は単一の量ではない。空間の各点に異なる時間が存在し、結果として無数の時間がある。物理学では、 個別の現象を測定したときに個別の時計が示す時間のことを「固有時」と呼ぶ。つまり、各時計に固有時があり、各現象に固有時があるのだ。局地的な時間の中で物事がどう展開していくか、さらには局地的な時間同士が互いに対してどう展開するかがアインシュタインの一般相対性理論では描写されている。相対性理論の方程式には、単一ではなく無数の「時間」 がある。物理学は、事物が「時間のなかで」どのように展開するかではなく、事物が「それらの時間のなかで」どのように展開するか、「時間」同士が互いに対してどのように展開するのかを述べている。

以上で述べてきたように、時間は「単一性」を失い、場所が異なればその進み方も異なる。 このような意味で唯一無二の「本物の時間」というものは存在しない。

注)以後「時間」という言葉は、文脈によって
1,一般的な出来事の連続という現象
2,それらの出来事の発生の間隔
3,出来事の間隔の継続
4,特定の瞬間、主に現在の瞬間
5,継続を計るための変数
のいずれかの意味で用いられる。

第2章 時間には方向がない(Day2)

★チクシュルーブ隕石

時間の存在を考える上で、時間が「流れる」という性質を無視することはできない。私たちは過去から未来への一方向の時間の流れの中で、かつて存在した過去とまだ存在していない未来とが明確に違うものであるという事を確信している。しかし、19世紀と20世紀の物理学は過去と未来の差を生み出すものが世界のメカニズムを記述する基本法則のどこにも存在しないことを明らかにした。

この発見がいかにして行われたのかを捉えるためには、19世紀初頭まで遡る必要がある。熱力学の分野に多大なる功績を残したことでよく知られるカルノーはこの時期に「火を用いてものを回転させる装置」、つまり蒸気機関について情熱を燃やしていた。カルノーが蒸気機関に対する考察を残した小論文はルドルフ・クラウジウスの目に留まり、クラウジウスによってある法則が発表された。その内容の核心は、「熱は熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決してその逆は生じない」という事を示すものだった。この法則は一方向にのみ成立するという事から、未来と過去を区別できるただ一つの基本的物理法則である。他のどの法則においても過去と未来は区別できない。実際、ニュートンの運動方程式も電磁気学のマクスウェル方程式も量子力学のシュレディンガー方程式もどれ一つとして過去と未来を区別することはできない。過去と未来とを区別できる「時間の矢」が基本方程式に登場するのは熱が絡んでいるときに限られる。そこでクラウジウスは、この一方通行的で不可逆な熱過程を測る量を考え出し、それをエントロピーと名づけた。エントロピーは S という文字で表される状態量であり、外部との物質やエネルギーのやり取りがない過程、つまり孤立系では増えるか同じままで絶対に減らない。この事実は ΔS≧0 という数式で表される。これは「熱力学の第二法則」と呼ばれ、非常に示唆に富むものであった。この式は基本的な物理式の中で唯一過去と未来を区別している。この数式の背後に潜むものは徐々に解き明かされていった。

エントロピーが増大する事を示した数式の背景に最初に気づいたのはボルツマンという科学者だった。ボルツマンは19世紀の終わり頃に、熱が分子のミクロレベルの振動であると見抜いていた。熱くなるというのは冷たい分子が熱い分子とぶつかり押し出されることで動き出すということである。この熱による運動はトランプのシャッフルを繰り返すことに非常によく似ている。はじめは順序よく並んでいるトランプも、シャッフルを繰り返すことで順序が段々と崩れていく。私たちの世界では、万物の自然な乱れというシャッフルによって熱は熱いところから冷たいところに移り、その逆は起こらない。エントロピーの増大はど こにでもあるお馴染みの無秩序の自然な増大なのである。これがボルツマンの理解だった。 これによって、過去と未来との違いは運動の基本法則すなわち自然の原理の中に存在するものではないことが示唆された。しかし、まだ「初期状態のエントロピーが低いのは何故か」という疑問が残る。この疑問は、「シヤッフルする前のトランプのカードがいつも「特別」な配置であるのは何故か」を考える事と同じである。これを考える上で普遍的に「特別」な配置とは何か、またそのような配置が存在しているか否かがキーポイントになってくる。結論から述べれば、普遍的に「特別」なものなど存在しない。なぜなら私たちがあらゆるカードの配置をありとあらゆる細部まで目を配れば任意の配置は「特別」といえるからである。 例えば、1枚目から26枚目までのカードが全て赤でその後の26枚が全て黒ならばそれは「特別」な配置となるが、それは赤と黒というカードの色に注目したからである。あらゆるカードをすべて区別すると、どの子も母親にとっては唯一無二な存在であるように、どのカードの配置も「特別」たりえる。この「特別」という概念は、宇宙を近似的なぼんやりとした見方で眺めた時に初めて生まれるものなのだ。すなわち、私たちが世界を曖昧な形で記述するためにエントロピーが存在するのである。ボルツマンはこのことを示し、エントロピーの増大の意味を白日のもとにさらした。このことは、ミクロなレベルで物事を観察すると過去と未来の違いは全く消えてしまうという衝撃的な結論を私たちに突きつけた。つまり、私たちが時間の流れを感じることができているのは、私たちがこの世界をミクロレベルで正確に把握することができず我々の視野が曖昧なためであると帰結されるのである。

第3章 現在の終わり(Day3)

★Yujin

アインシュタインは、質量によって時間が遅れることを理解する 10 年前に、速度があると時間が遅れるということを発見していた。二人のうち一方は静止し、もう片方は動くという状況 を考えると、動いている人は静止している人よりも時間がゆっくり進む。その結果、二人の経 験する時間経過にはずれが生じる。二人の経験する時間のずれを実際に観測するには、片方が 非常に速く動く必要があり、初めて観測されたのは 1970 年代のことで正確な時計を載せた飛 行機によるものだった。しかし、アインシュタインは電磁気学の研究の過程で、この遅延現象 を実際に観測されるよりも前に理解していた。電気と磁気は、マクスウェル方程式を使って正確に記述することができるが、何らかの速度で移動している人の視点に立つと、通常の時間変 数 t とは別の変数 T を「時間」と呼ぶことにしなければマクスウェル方程式が成り立たなる。 アインシュタインはこのことについて、t を静止している観測者から見た時間で、観測者と同じように静止した中で 物事や現象が生じる際の速さを示し、T を動いている観測者から見た時 間で、観測者とともに動き ながら物事や現象が生じる際の速さであると解釈した。

以上のように、動いている物体が経験する時間は、静止している物体が経験する時間より短い。また、場所が異なれば時間が異なるだけでなく、場所を一ヶ所に限定したとしても、単一の時間というものは存在しない。

「今」、遠く離れた場所では何が起こっているのかを考えるために、例えば地球から10 光年 離れた場所に人がいるとして、地球にいる自分が「その人は「今」何をしているのか?」と質問 をしたとする。実はこの質問は全く意味がない。なぜなら、この質問をした後にその人が自分に無線などで自信の状況を伝えたとしても、地球にいる自分からすればそれはすでに 10 年前の出来事だからだ。「現在」という概念はと関係があるのは自分の近くのものであって、宇宙全体に広がって存在しているわけではない。人間が認識できる時間の精度は 1/10 秒程度ある ため、自分と近い「現在」を共有できる範囲はせいぜい地球全体の範囲である。

では、「現在」という概念がない宇宙全体の時間の構造はどうなっているのか。ここで、相対性理論によって明らかになったこの世界の時間の構造とよく似た構造を持っている「系図」を 見てみよう(図 3.1)。この系図には「同じ世代」という一義的な概念が存在しない。例えば、仮にレオニダスとその兄クレオメネスは父が同じだから「同じ世代」であり、レオニダスとその 妻ゴルゴーは息子がいるから「同じ世代」であるとすると、この「同じ世代」にはゴルゴーと その父が含まれることになる。親子関係は人間の間にある順序を確立するが、どの 2 人に対し ても順序が確立されるわけではない。レオニダスとゴルゴーは、互いに対して前でも後ろでも ない。

このような親子関係で確立されるタイプの順序を、数学者は「半順序」と呼んでいる。人は親子関係を通して「半順序集合」を形成する。この順序がどのように機能するかは、図 3.2 のゴ ルゴーの系図を見れば明らかである。ゴルゴーの祖先からなる円錐形の「過去」があり、子孫で構成される未来がある。そして、祖先でも子孫でもない人々は円錐形の外側にとどまる。 ゴルゴーだけでなく、人類の一人一人に、自分自身の祖先の過去円錐と子孫の未来円錐がある。例えばレオニダスとゴルゴーの円錐は図 3.3 のようになっている。

宇宙の時間の構造も図 3.3 に似ていて、やはり円錐になっている(図 3.4)。特殊相対性理論は、 宇宙の時間構造が親子関係による構造と似ているという発見をもたらした。つまり、宇宙の出来事の間には、完全ではない、部分的な順序が定められるのだ。「拡張された現在」を考える とすれば、過去でも未来でもない出来事の集まりである円錐の外側となり、それはわたしたちの子孫でも祖先でもない人々がいるように、確かに存在する。図 3.4 の円錐は、光がその頂点 と母線に沿って進むことから、光円錐と呼ばれている。

要するに共通の「現在」は存在せず、時間の構造はたくさんの光円錐によって形作られた図 3.5 のような構造なのだ。これが、アインシュタインが 25 歳にして理解した時空の構造である。

さらにその 10 年後、アインシュタインは、時間の流れる速さは、質量との距離によっても変わることを発見した。時空は実際には図 3.5 のように秩序立っておらず、乱れたり変形してい る可能性がある。どちらかというと図 3.6 のようになっている。例えば重力波が通過すると、 これらの小さな光円錐が一斉に揺れる。

「宇宙の現在」が存在しないということが明らかになって 100 年以上経った。それでもわたしたちはこの事実に戸惑い続けており、未だに直感的に把握することが難しいらしく、この事実 を嘘だと主張する学者たちがいる。また、「現在の消失」について議論をする哲学者もおり、 それをテーマとする会議が多数開かれている。

もしも「現在」に何の意味もないなら、宇宙には一体何が「存在する」のか。「存在する」ものは「現実に」あるのではないか。実は、何らかの形態の宇宙が「今」存在していて、時間の経過とともに変化しているという見方自体が破綻しているのだ。

第4章 時間と事物は切り離せない(Day4)

★Yuta

私たち個人が経験する時間は伸縮自在だ。数時間が二、三分のように飛び去るかと思えば、重苦しくゆっくりと流れる数分間が何百年にも感じられる。アインシュタインが否定するまで、私たちが時間はどこでも同じ速さで流れていると思い込んでいたのは、一体なぜなのか。自分たちが直接経験している時間の経過に基づいて、時間がどこでも常に同じ速さで経過する、と考えるようになったのでないことは確かだ。では、このような考えはどこから生まれたのか。

時計が登場するまでの何千年もの間、時間の規則正しい尺度はただ一つ、昼と夜の交代だけだった。昼夜のリズムは植物や動物の生活をも律しており、日周リズムは自然界の至る所に存在する。このリズムは生命に欠かせないもので、地球上に生命が発生する際にも重要な役割を果たしたのではないだろうか。おそらく、ある仕組みを動かすための振動の役割を果たしたのだろう。生命体には時計がたくさん詰まっている。分子の時計、ニューロンの時計、化学時計、ホルモンの時計と、その種類も実に多様で、これらすべてが大なり小なりほかの時計と調和している。単一細胞の生化学にすら、二十四時間のリズムを刻む化学的なメカニズムがある。

日周リズムは、私たちの時間の概念の基本的な源である。夜の次には昼が来て、昼の次には夜が来る。私たちはこの偉大な時計の刻み、つまり日にちを数える。古代の人々は、時間というものを何よりもまず日にちの勘定として意識していたのだ。ヒトはさらに、日にちだけでなく、年を、季節を、月の周期を、振り子の揺れを、さらには砂時計をひっくり返す回数を数えてきた。このように、昔から事物が変化する様子を数えることによって、時間について考えてきたのである。

私たちの知る限り、「時間とは何ぞや」という問いに最初に思いをめぐらしたのは、アリストテレスだった。そしてアリストテレスは、時間とは変化を計測した数であるという結論に達した。事物は連続的に変わっていくのだから、その変化を計測した数、つまり自分たちが勘定したものが「時間」なのだ。では、今仮に何も変わらなければ、何も動かなければ、時間は経過しないのか。アリストテレスはこの場合、時間は経過しないと考えた。なぜなら時間は私たちが事物の変化に対して己を位置づけるための方法、勘定した日にちと関連付けて自分たちの位置を定める手段なのだから。時間は変化を計測したものであって、何も変化しなければ、時間は存在しない。だとすれば、沈黙の中で私たちが耳を澄ます時の流れとは、いったい何なのか。アリストテレスは「心の中で何かが変化すれば、すぐに時間が経過したと感じる」と述べている。自分自身の中を流れていると感じられる時間も、動きを計測したものなのだ。何かが動かなければ、時間は存在しない。

これに対してニュートンは、まるで逆のことを考えた。アリストテレスの論じた相対的な時間が存在することを認めつつ、事物とは全く無関係な時間が存在するはずだと主張した。それは計算を通してのみ得られる間接的なものであって、「数学的で絶対的な真の」時間なので、日にちなどで示される時間とは異なる。果たしてどちらが正しいのか。

数百年の間、軍配はニュートンに上がっているように思われた。なぜなら、「事物とは全く無関係な時間」という概念に基づくニュートンのモデルのおかげで近代物理学を構築することができ、その物理学は非常にうまく機能したからである。こうして、時間はゆるぎなく一様に流れる実体として確かに存在する、と考えられるようになった。ところがこの考え方は、太古からの人類の自然な直感ではなかったため、ほとんどの哲学者がこの考え方を否定しようとした。ライプニッツはニュートンに対して、時間は出来事の順序でしかなく、自律的な実体としての時間は存在しないという従来の考え方を擁護した。

時間に関する二つの解釈は、空間にも当てはまる。アリストテレスは「空間」、つまり「場所」の意味を初めて深く鋭く論じ、正確に定義した人物だった。その定義によれば、ある事物の場所とは、それを囲んでいるもののことである。ニュートンはここでも、別の見方をすべきだと主張した。ニュートンにいわせると、アリストテレスが定義した空間、つまり問題の事物を取り巻くものの一覧は「日常的で相対的見かけのもの」だった。空間そのものは「絶対的で数学的な真のもの」、何もないところにも存在するものだというのである。

空間を巡るこの二つの考え方はいずれも私たちの日常経験に端を発しており、結局は空気を事物として考慮に入れるか入れないかの違いである。正確に捉えることを重視したアリストテレスは、私たちの経験のどこにも「何もない、空気すらない」場所はないと述べており、正確さより事物の動きを記述する有効性を重視したニュートンは、空気ではなく対象のことを考えた。空気は全体として見れば落ちていく石にほぼ影響を及ぼさないようだから、そこに存在しないと考えてよいだろうという考え方である。

時間の場合と同じように、ニュートンの「入れ物としての空間」は私たちには自然に感じられるが、実はこれも最近登場した考え方で、それがここまで広まったのは、ニュートンの考えが大きな影響を及ぼしたからだ。今私たちには直感のように感じられる見方も、実は過去に科学や哲学作り出したものなのだ。

ニュートン流の「空っぽな空間」という概念が正しいことは、瓶の中から空気を取り除くトリチェリの実験によって裏付けられたように見えた。ところがすぐに、瓶の中に電場や磁場や絶えず飛び回る素粒子などの様々な物理的実体が残っていることが明らかになった。空間以外のいかなる物理的実体も存在しない不定形の完璧な虚空、「数学的で絶対的な真の」空間は、実験による証拠がどこにもなかったので、どこまで行ってもニュートンが自身の物理学の基礎として導入した見事な理論的概念でしかなかった。この見方は確かに見事な仮説かもしれないが、事物が構成する現実に対応しているものなのか。ニュートンの空間は本当に存在するのか。存在するとして、実際に不定形なのか。なにも存在しないところに、それでも空間は存在し得るのか。

この問いは、時間に関する問い、ニュートンの「数学的で絶対的な真の」時間、何も起こらなくても流れる時間は果たして存在するのか、という問いと対をなしている。そのような時間が仮に存在するとして、それはこの世界の事物とまるで異なるのか。そこまでこの世界の事物から独立しているのか。
これらすべての問いの答えを得るには、ニュートンとアリストテレスの一見矛盾する見方を意外な形で統合しなければならなかった。

アインシュタインの最も重要な業績は、アリストテレスの時間とニュートンの時間の統合である。この二つを統合すると、ニュートンがその存在を直感した時間や空間が、具体的な物質を超えたところに実在する現実になる。時間と空間は、現実そのものなのだ。ただし決して絶対的ではなく、生じる事柄からは独立していない。ニュートンが思い描いていた「この世界はほかの実体とは別のもの」ではないのだ。

物理学者たちが「場」と呼ぶその素材は、私たちの知る限りでは、この世界の物理的な現実の編地を構成している。例えば「ディラック場」はテーブルや星の素材、「電磁場」は光を織り上げている素材で、電気モーターを回したりコンパスの針に北を指させたりする力の源でもある。さらに「重力場」というものが存在する。この場は重力の源であるとともに、ニュートンの空間や時間を織りなす素材、この世界の他のすべて物を描くための布地でもある。時計はその布地の広がりを測るための装置であり、長さを測るための計器は、その布地の広がりの別の側面を測る素材の一部なのだ。

第一章で触れたように、高いところと低いところでの時間の経過の仕方は違う。(図 4.1)この図 4.1 を山の上の時間が長くなるように引き延ばすと、図 4.2 のようになる。この図にも空間(垂直方向)と時間(水平方向)が表示されているが、この場合は、山の上の長い時間が図に描かれた水平方向の長さと見事に対応している。この図が表しているのは、「曲がっている」時空である。伸縮性のシートを引っ張った時のように伸びたり縮んだりするため、第三章の図 3.6 のように光円錐が傾く。これこそがアインシュタインがアリストテレスの時間の概念とニュートンの時間の概念の間に見出した統合なのだ。ニュートンの「真の数学的時間」は実在し、それは重力場と呼ばれる伸縮自在なシートであって、図 4.2 に見られるような曲がった時空なのである。しかし、この時間が事物から独立していて、ほかのあらゆるものと無縁に規則正しくゆるぎなく経過するというニュートンの考えは間違っていた。

アリストテレスが、「いつ」と「どこで」が必ず何かとの関係で決まると考えたのは正しかった。しかしその「何か」もアインシュタインの重力場だったのだ。なぜならその場もダイナミックで具体的な実在であり、アリストテレスがいみじくも看破したように、私たちがそれとの関係で自分自身を位置付け得るすべてのものと同じだからである。

これまでに延べてきたことにより、私たちの時間の概念はまた一つ構成要素を失ったことになる。時間はこの世界の他の事物からは完全に独立しているはずだったが、現実に重力場という構造があることで、時間が物理の他の部分と切り離されることも、この世界が通り過ぎるただの舞台であることもなくなった。

しかし、重力場の方程式は時間と空間の性質に関する物語の、締めくくりにはなり得ない。なぜなら重力場もそれ以外のすべての物理的存在と同じように、量子的な性質を持っているはずであるからだ。

第5章 時間の最小単位(Day5)

★Yuta

ここまで見てきた相対論的物理学の中に、空間や時間の量子的な性質を加えると、ますます異様なものになる。空間や時間の量子的な性質を調べる量子重力理論は未完成で、ループ量子重力理論やひも理論などの候補のうちどれが正しいかを巡って今も論争が繰り広げられている。一方、時間の本質に関しては、物理学者の出した多くの結論がまとまりつつある。量子を考慮すると、4 章で挙げた「時空のシート」が形成できなくなってしまう。一般相対論では普遍的な時間が砕け散って、無数の固有時となるところまでは良いとして、そこに量子的な性質を加えると、これらすべての時間が次々に揺らぎ、雲のように散らばって、ある種の値は取りえてもほかの値は取りえない、という見方が必要になるからである。これらの見方が、我々の時間の概念を破壊する。

我々の計っている時間は「量子化」されている。量子とは、基本的な粒のことである。粒とはあらゆる現象の最小規模を意味する。つまり、時間はいくつかの値だけを取り、連続的な量ではないということである。これは、その値に満たないところでは、時間の概念は存在しないことを意味する。時間の値から値までの最小幅は、プランク時間と呼ばれ、長さは 10^{-44}秒である。この値は、物理定数である光速度 c と重力定数 G とプランク定数 h を組み合わせることで得られる。この極端に短い時間では、量子力学に特有の三つの性質である、粒状性、不確定性、関係性がもたらす効果が表れる。粒状性は、自然界の至る所に見られる。例えば光は光子でできている。原子の中の電子のエネルギーは特定の値に限られ、他の値を取ることができない。空気も物質も粒状の分子で構成されている。ニュートンの空間や時間が他のすべてのものと同じように物理的実体であることが分かったからには、これらも粒状と考えるのが自然であり、ループ量子重力理論によると、基本となる時間の変化の幅は少なくとも有限であることが知られている。

不確定性は、例えば電子において見られる。電子が現れる瞬間と次に現れる瞬間の間には電子の正確な位置が存在しない。確率の雲のなかに散っているようなもので、これを位置の「重ね合わせ」状態にあるという。時空ももちろん電子のような物理的対象なので揺らぎ、異なる配置が「重ね合わさった」状態にもなり得る。第4章の時間遅延の図 4.2 は量子力学を考慮すると、異なる時空のぶれた「重ね合わせ」として図 5.1 のようになる。同時に、光円錐の構造も、すべての点で揺らぐ。これは、一つの粒子が空間に確率的に散って不確かになるように、現在と過去と未来の区別が揺れ動いて不確かになっている状態だ。したがって、ある出来事がほかの出来事の前でありながら後でもあり得る。

「揺らぎ」があるからといって、起きることがまったく定まらないわけではなく、ある瞬間に限って、予測不能な形で定まる。その量がほかの何かと相互作用することによって、不確かさが解消されるのだ。例えば、電子がスクリーンに衝突したり、粒子検知器に捕まったり、光子と衝突したりする相互作用をしてはじめて、相互作用している対象に対してのみ具体的な存在になる。つまり位置を得る。ほかのすべての対象に関しては、この相互作用によって不確かさが伝播し広がるだけである。ほかのすべての対象にとって、電子とスクリーンが一体化して重ね合わせ状態になり、そしてこれがまた別の対象と相互作用した瞬間に、共通の確率の雲が「崩れて」具体的な配置が現れる、といった具合である。空間や時間もこのような相互作用の関係性があるからこそ存在していることは、電子がそうであるというよりもさらに受け入れがたい事実である。

ここで第 1 部を振り返ろう。時間は唯一ではなく、場所と速度に応じて異なり、方向づけられていない。過去と未来の違いは、この世界の基本方程式の中にはなく、私たちが事物の詳細を端折った時に偶然生じる性質でしかない。そのような曖昧な視野の中でこの宇宙の過去は妙に「特別な」状態にあった。「現在」という概念も機能しない。時間の接続期間を定める基層である時計は、この世界を構成する他のものと異なる独立した実体ではなく、動的な場の一つの側面なのだ。時間は跳び、揺らぎ、相互作用が起こったときのみその値が決まる。だとすれば時間の中に何が残るのか?

Q2(Day5)

【Q2】我々が普段感じている時間の概念が1~5章で崩壊しましたが、この時点で時間に対する考え方に変化がありましたか?また、我々が普段感じている時間の概念が崩壊した世界はどのようなものになるでしょうか?考えたことがあれば教えてください。

Q2】我々が普段感じている時間の概念が1~5章で崩壊しましたが、この時点で時間に対する考え方に変化がありましたか?また、我々が普段感じている時間の概念が崩壊した世界はどのようなものになるでしょうか?考えたことがあれば教えてください。
:1: 変化があった
:2: やや変化があった
:3: あまり変化がなかった    3
@Hiroto, @コバ, @ゆーろっぷ
:4: まったく変化がなかった    2
@けろたん, @あんまん

■コバ

Q2「我々が普段感じている時間の概念が崩壊した世界はどのようなものになるでしょうか?」に対するアンサー

数学の認知科学のWSの時に『もし「数」という概念が人間の認知に存在しなければ人間社会はどのような社会になるか』というクエスチョンについて考えました。
その時、私は『「人間社会」とは言えないモノになる』というアンサーに辿り着きましたが、今回のQ2に関してはその時のクエスチョンのように認識論(人間の認識や認知について考察する事)について語る必要はないと感じました。

なぜなら「我々が普段感じている時間の概念」というのは、我々現代人が日常生活を行う上での(共通認識としての)時間、つまり「標準時」のことだからです。
であるならば、「我々が普段感じている時間の概念が崩壊した世界」というのは、「標準時」ができる前の時代を考えれば見えてきます。
鉄道時間(標準時の先駆け)ができるまでのイギリスでは、電車1本乗り継ぐだけでも大変な頭痛の種だったそうです。

・Yuta

確かに、共通認識としての時間という位置づけは納得できるものだと思いました。まさにこの本の解釈とも一致していると思います。共通認識が人々の間に失われたら、群れとしての秩序が崩れ、生産性も下がりそうですね。
僕も電車の乗り換えは苦痛です。

第6章 この世界は,物ではなく出来事でできている(Day6)

★Yuta

前章までで時間は既に、一つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。

基本方程式に、「時間」が含まれていないからといって、世界が不動なわけではない。むしろ、順序付けられない無数の出来事が世界の至る所に生じていて、変化しているのである。てんでんばらばらな速度で時を刻むいくつもの時計は、単一の時間を示すことなく、しかし各時計の針は互いに対して時刻を刻んでいる。基本的な方程式は時間という変数を含まないが、互いに対して変化する変数を含んでいる。アリストテレスが述べているように、時間は変化を計測したものである。変化を測るための変数の選び方はいろいろあるが、私たちが経験する時間の特徴をすべて備えた絶対的な変数はどこにもなく、全ての時間は相対的なものである。

この世界が物、つまり物質、実体、存在する「何か」によってできていると考えることは可能である。あるいは、この世界が出来事、すなわち起きる事柄、一連の段階、出現する「何か」によって構成されていると考えることもできる。ずっと続くものではなく絶えず変化するようなもの、つまり恒久ではないもので成り立っているという考え方である。基礎物理学における時間の概念が崩壊したとして、この二つの考え方のうち前者は砕け散るが、後者は変わらない。それにより、不動の時間の中に状態があるのではなく、限りあるものが遍在することが示される。この世界を出来事、過程の集まりとみると、世界をよりよく記述することが可能になる。これが相対性理論と両立しうる唯一の方法なのである。

物と出来事の違いは、前者は時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。だが、いかにも「物」らしい対象でも長く続く「出来事」でしかない。例えば、石は崩れて再び砂に戻るまでがごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程であり、時間をどこまでも貫く「物」は存在しない。

仮にこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものだろうか。原子だろうか。原子はそれよりさらに小さい素粒子で構成されていることは既に分かっている。しかし素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがわかっている。それでは量子場だろうか。量子場は相互作用や出来事について語るための言語規範に過ぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのである。

一方で、この世界は出来事の無秩序なネットワークと考えるとうまくいく。戦争は物ではなく一連の出来事だ。嵐は出来事の集まり、山上の雲は風に乗って山を跳び越す空気中の湿気の凝縮である。波は、物ではなく水の運動で、形作る水は絶えず変わっていく。家族は、関係や出来事の集まりだ。これら全て物ではなく出来事である。人間は雲と同じように複雑な過程であり、社会的な関係のネットワークの一つの結び目(ノード)、化学反応のネットワークの一つの結び目、同類の間でやりとりされる感情のネットワークの一つの結び目なのだ。

アナクシマンドロスは、「時間の順序に従って」理解せよと呼びかけていた。時間の順序がどのようなものなのかを先験的に知らなくても、この勧めは妥当であった。この優れた助言を顧みなかった結果大きな間違いを犯したのが、プラトンやケプラーである。この二人は面白いことに同じ数学に魅せられた。プラトンは原子の動きに関する数学ではなく、原子の形に関する数学を論じようとした。正多面体が5つ、たったの5つしかないという定理に惑わされてしまった。そして、古代の人々がこの世を構成すると考えていた 5 つの基本元素、すなわち土、水、空気、火と第5の元素エーテルがこの5つの正多面体の形をしているという大胆な仮説を打ち立てた。ケプラーも同じ間違いを犯した。ケプラーは惑星の軌道の大きさは正多面体によって定められているという仮説を立てた。なぜ間違えたかというと、変化を無視し世界を出来事ではなく物との関係で理解しようとしたからだ。後年ケプラーは、惑星がどのように動くのか、すなわち「出来事」について焦点を当てたことで偉業を成し遂げた。プトレマイオスからガリレオへ、ニュートンからシュレディンガーへ、のちに力を発揮することになる。これらの物理学や天文学は、物の「状態」ではなく物の「変化」を数学的に記述している。ニュートンの力学やマクスウェルの方程式や量子力学などが私たちに教えてくれるのは、物の状態ではなく出来事の起き方である。私たちはこの世界をどのような状態があるかではなく、何が起きるかという観点で記述するべきなのである。

第7章 語法がうまく合っていない(Day7)

★Yujin

通常我々は、「今」あるものを「現実」と呼び、過去に存在したものを「現実だった」もの、未来に存在しそうなものを「現実になるだろう」ものとして認識する。哲学者は、現在だけが現実であって過去や未来は現実でないとする見方を「現在主義」と呼ぶ。「現実」は、一つの現在からそれに続く別の現在へと展開していく。

ところが、20 世紀の物理学によって、客観的で全体的な「現在」は存在せず、世界を「現在」 の連続として見なすべきはないということが示された(図 3.5)。従って、哲学者の言う「現在主義」は成立しなくなってしまった。では一体「現実」とは何か。何が「存在」しているのか。

哲学者は、流れや変化が幻であるとする見方を「永久主義」と呼ぶ。これは、過去も現在も未来も等しく「現実」であり存在しているとする見方である。現実のこのように捉える永久主義者は、よくアインシュタインの文言を引用する。

わたしたちのように物理を信じている者にとって、過去と現在と未来の違いはしつこく続く幻でしかありません。

これは「ブロック宇宙論」と呼ばれる考え方で、それによると宇宙の歴史全体を単一のブロックと見るべきで、そこでは全てが同じように「現実」であり、時間の移り変わりは幻である。

この世界をあらゆるものが同じように存在するただ一つの現在と見なし、変化は幻である考える「永久主義」、「ブロック宇宙論」という観点を筆者は否定する。確かにこの世界の時間の構造は複雑で、さまざまな瞬間が一直線に繋がっているわけではない。出来事同士の時間の関係は複雑である。しかし、それでも変化や出来事の発生は確実に存在している。親子関係は系図全体の順序を確定しないが、親子関係それ自体が幻だとは言えない。ただ単に、この世界の変化が、包括的な順序に従って生じているわけではないというだけのことだ。

ここで最初の問いに戻ろう。「現実」とは何か、何が「存在」しているのか。その答えは、「この問いは間違っている」である。なぜなら「現実」という言葉も「存在する」という言葉も、たくさんの意味を持っており、さまざまな使い方があるからだ。「何が存在するのか」とか「何が現存するのか」は語法上の問いであり、自然に関する問いではない。自然はそこに存在しており、わたしたちはそれを少しずつ発見してきた。仮にわたしたちの語法や直感がわたしたちが発見した事柄に馴染まなかったとしても、それはそれとして、馴染もうと努めるしかない

。客観的で全体的な「現在」は存在しない。しかし我々の用いる言語の殆どには動詞に「過去」「現在」「未来」の活用がある。このような語法に従っているため、我々は現実の時間構造について語る際に戸惑いを覚える。何らかの出来事が「ある」、あるいは「あるだろう」と言えても、何らかの出来事が私にとっては「あった」があなたにとっては「ある」という状況を語るための語法は存在しない。

我々はいま、自分たちの言葉や直感を、なんとしても新しい発見に沿わせようと四苦八苦している最中である。「過去」や「未来」が普遍的な意味を持たず、場所が変わればその意味も変わる。それだけのことである。

先述のアインシュタインの言葉は、筆者の考えとは逆のことを意味するのであろうか。アインシュタインは重要な問題で幾度となく主張を変えていて、互いに矛盾する言葉も多く残っているので、確かなことは言えない。ただ、アインシュタインがこの言葉を記したのは、友人のミケーレ・ベッソが亡くなったときミケーレの妹に宛てた手紙である。この言葉は物理学者が時間に関して理解したことについての文言ではなく、もろく短く幻に満ちた人生についての言葉なのかもしれない。アインシュタインは、時間の物理的な性質よりも深いことを述べていたのだ。

第8章 関係としての力学(Day8)

★Yujin

ありとあらゆる事柄が起きているのに時間変数が存在しない世界を、どのように記述すればよいだろうか。

Newton が絶対時間を考案する以前の方法を考える。時間変数は使えない。必要なのは世界を実際に記述する変数、我々が感じ取り、観察し、測ることができる量である。それは絶えず変化 する性質を持つ量であるが、中でも他の量に対して規則的に変化していることがわかるものを 基準に用いると、世界を記述するのに都合が良い。例えば、日数、月相、水平線の上の太陽の 高さ、時計の針の位置など。

このとき、どれか一つの変数を選んで「時間」と名付ける必要はない。これらの変数が互いに対してどう変化するのか、変数同士の間にはどんな関係が存在し得るのかを示す理論があればよい。このような理論をもって、世界は記述されるべきである。

量子重力の基本方程式は、事実このようにして作られた。それは時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を示した式である。時間変数を含まずに量子重力を記述する方程式がはじめて発見されたのは 1967 年であり、それはホイーラー=ドウィット方程式と呼ばれる。

この世界の力学はこの一本の方程式で与えられ、その式はそこに記述されている全ての変数の間の関係を確立している。そこでは「時間」を特別に論じる必要はなく、すべての変数は同じレベルにある。「時間」という変数がない世界は決して複雑ではなかった。その世界は相互に連結した出来事のネットであって、そこに登場する変数は確率的な規則に忠実に従う。

以下では、筆者の研究対象である「ループ量子重力理論」が記述する世界について述べる。

ループ量子重力理論の方程式は、現代版のホイーラー―ドウィット理論である。もちろん時間という変数はない。この理論の変数は、さまざまな場をすべて同じレベルで記述し、その場は、素粒子、光子、重力量子といった具合に粒のような形で現れる。これらの粒が空間を埋め尽くしているのではなく、粒同士の相互作用のネットワークがこの世界の空間を生み出していると言える。また、これらの粒は時間の中に存在しているわけでもなく、間断のない相互作用によってのみ存在する。その相互作用がこの世界における出来事の発生であり、時間の最小限の基本形態である。空間の広がりや時間の持続を決めるのは、こういったプランクスケールに存在する粒と、粒同士の相互作用である。なお、粒同士の相互作用の力学は確率的であり、この理論の方程式で計算できる。

空間の量子(基本的な粒)は空間的に「近い」という関係によって結び合わさり、ネットとなる。このことを「スピンネットワーク」という。スピンネットワークの輪っかはループと呼ばれており、ループ理論の名前の由来となっている。

更にこれらのネットは離散的なジャンプによって互いに転換し、「スピンの泡」という構造として記述される。このジャンプによって現れる肌理が、巨視的に捉える我々の目には滑らかな時空構造のように見える。この理論は、小さなスケールでは確率的で離散的な揺らぐ「量子時空」を記述しており、そのレベルでは狂騒的な量子の群れが現れたり消えたりしているに過ぎない。

例えば、筆者の研究グループでは、ブラックホールが量子的な段階を経て爆発するのに要する時間を計算しようとしている。この量子的な段階では、ブラックホールの内部や近傍には単一の定まった時空は存在せず、スピンネットワークの量子重ね合わせしか存在しない。そこでは時間が激しく揺れる局面が作られており、異なる時間の量子重ね合わせがあり、爆発が終わると確定した状態に戻る。その中間の段階では時間は不確定であるが、そこで起きる出来事を示す、時間を含まない式がある。これがループ理論の記述する世界である。その世界に存在する
のは出来事と関係だけである。

第9章 時とは無知なり(Day9)

★Yuta

ここまでは時間を打ち壊してきたが、これからは自分たちが経験する時間を再構築していく。

仮にこの世界の基本的な力学において、すべての変数が同等だとすると、私たち人間が「時間」と呼んでいる物の正体は何なのか、腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまではいいとして、時間とはいったい何なのか?

実は、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でただ「生じる」にすぎないものはたくさんある。

例えば、
・猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星の様々な場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものだ。

・「高い」とか「低い」ということは、どこから来ているのか。これらは、わたしたちを引っ張る地球に由来している。宇宙のある種の状況において、近くに大きな物体がある場合に「生じる」ものなのだ。

これらの例では、猫や高低など実際に存在するものが、より基礎的なレベルではそれらが存在しない世界から「生じている」。時間は、今挙げたすべての例と同じような形で、時間のない世界に生じるのである。これから時間を再構成していくわけだが、本章と次章は内容が専門的なので、難しいと感じたら飛ばして 11 章に進んでいただきたい。

熱分子が猛烈に混じり合うとき、変わり得る変数はすべて連続的に変わるが、一つだけ変わらないものがある。それは、外界と物質やエネルギーをやりとりしない系、つまり孤立系のエネルギーの総量である。エネルギーと時間には密接なつながりがある。この二つは、物理学者が「共役」と呼ぶ特別な量の対を形作っているのだ。位置と運動量、方向と角運動量も「共役」で、これらの対を構成する二つの項はたがいに結びついている。一方で、ある系のエネルギーを知ること、その系が他の変数とどのようにつながっているかを知ることは、時間の流れ方を知ることと等しい。なぜなら、時間の中での進展の方程式はそのエネルギーの式に従うからだ。他方で、エネルギーは時間の中で保存されるから、たとえほかのすべてが変わったとしても、エネルギー自体は変わらない。何らかの孤立系が熱運動の中でエネルギーが等しいミクロの可能な状態全てを取ったとしても、エネルギーの枠そのものをはみだすことはできない。そして、わたしたちのぼやけたマクロの視野では区別できないこれらの配置の総体が「(マクロな)平衡状態」、つまり波一つないコップの中のお湯なのである。

時間と平衡状態の関係を解釈する際には通常、時間は客観的で絶対だと考える。系の時間進展を支配しているのはエネルギーで、平衡状態にある系はエネルギーの等しい配置すべてを混ぜ合わせる。したがって、この関係を理解するための標準的な論理では、

時間→エネルギー→マクロな状態

となる。マクロな状態の定義にはエネルギーを、エネルギーを定義するには時間の正体を知る必要があるのだ。また、この論理ではまず時間が存在していて、ほかのものとは独立ということになる。ところが、同じこの関係を別の角度から捉えることができる。

マクロな状態→エネルギー→時間

である。「時間」らしく振る舞う特権的な変数が一切存在しない基本的な物理系(すべての変数が同じレベルにあるにもかかわらず、論理を遡ってもマクロな状態として記述される不鮮明な像しか得られない物理系)では、包括的なマクロの状態が時間を決めるのだ。マクロな状態によってある特定の変数が選ばれ、それが時間のいくつかの性質を備えているのである。つまり時間が決まるのは、単に像がぼやけているからなのだ。

ボルツマンは、熱の振る舞いが像のぼやけと関係していることに気づいていた。その根拠となったのは、コップの水の中に目に見えない無数のミクロな変数が存在するという事実だった。水のミクロな配置候補の数が、そのエントロピーになる。ところがさらにもう一つ言えることがあって、そのぼやけ自体が特殊な変数、すなわち時間を定める。

基本的な相対論的物理学では、先験的に時間の役割を演じる変数は皆無で、マクロな状態と時間の進展の関係をひっくり返すことができる。時間の進展が状態を決めるのではなく、状態、つまりぼやけが時間を決めるのだ。

マクロな状態によってこうして決められた時間を「熱時間」と呼ぶ。ミクロな視点でいうと、熱時間に特別なところはなく、他の変数とまるで変わらない。ところがマクロな視点から見ると、まったく同じレベルにある膨大な数の変数のうちで、わたしたちが通常時間と呼んでいる変数に最もよく似た振る舞いをするのが熱時間なのだ。なぜならこの変数とマクロな状態の関係は、まさにわたしたちが熱力学を通して知っている関係だから。そうはいっても熱時間は、マクロな状態によって定まるので普遍的な時間ではない。

次の章ではこのぼやけがどこから来るのかを論じたい。その前にさらに一歩前進して、量子力学を考えに入れることにする。

ロジャー・ペンローズは、相対性理論はわたしたちが経験する時間の流れと両立しないわけではないが、時間の流れを語るには相対性理論だけでは不十分と思われる、という結論に達した。そして、相対性理論に欠けているのは、量子の相互作用で起きることの記述なのだろうと示唆している。


さらにアラン・コンヌは、時間の源において量子の相互作用が果たす深い役割を指摘した。ある相互作用によって粒子の位置が具体化すると、粒子の状態が変わる。また、速度が具体化する場合も、粒子の状態が変わる。しかも、速度が具体化してから位置が具体化したときの状態の変化は、その逆の順序で具体化したときの状態の変化と異なる。つまり順序が問題で、電子の位置を測ってから速度を測ると、速度を測ってから位置を測ったときとは違う状態に変化するのだ。位置と速度の順序を交換できない量子変数の性質を「非可換性」という。この非可換性は、量子力学の特徴となる現象の一つであり、それによって二つの物理変数が確定する際の順序が決まり、その結果、時間の芽が生まれる。物理的な変数の確定は孤立した行為ではなく相互作用であって、これらの相互作用の結果はその順序によって定まる。そしてその順序が、時間的な順序の原始形態なのである。おそらく相互作用の結果がその順序に左右されるという事実こそがこの世界における時間の順序の一つの根っこなのだろう。コンヌの提唱によると、基本的な量子遷移における時間の最初の萌芽は、これらの相互作用が部分的に自然に順序付けられているという事実の中に潜んでいる。

コンヌはこの着想を優美な数学として提示した。物理的な変数の非可換性によって、暗黙のうちにある種の時間的な流れが定義されることを示した。この非可換性ゆえに系に含まれる物理変数全体が「非可換フォン・ノイマン環」という数学的な構造を定義する。そしてコンヌは、これらの構造事態のなかに内在的に定義された流れが存在することを示した。

驚いたことに、コンヌが定義した量子系に付随する流れとここまで論じてきた熱時間には、きわめて密接な関係がある。というのも、マクロな状態によって定められる時間と、量子の非可換性によって定められる時間は、同じ現象の別の側面なのだ。この熱的にして量子的な時間こそが、この現実の宇宙、根本的なレベルでは時間変数が存在しない宇宙で私たちが時間と呼ぶ変数なのである。

量子の世界に固有の事物の不確定性は、ぼやけを生む。そしてボルツマンのぼやけ故に、この世界は古典力学が指し示していそうなこととはまったく逆に、たとえ測定可能なものをすべて測定できたとしても、予測不能になる。

時間の核には、この二つのぼやけの起源、物理系がおびただしい数の粒子からなっているという事実と、量子的な不確定性がある。時間の存在は、ぼやけと深く結びついている。そしてそのようなぼやけが生じるのは、わたしたちがこの世界のミクロな詳細を知らないからである。物理学における「時間」は結局のところ、わたしたちがこの世界について無知であることの表れなのである。

わたしたちの現実の像がぼやけて不確定だからこそ、ある変数が決まる。熱時間と呼ばれるその変数は、ある種の特別な性質を持っていることが明らかになり、それらの性質は、わたしたちが「時間」と呼ぶものの性質に似ている。それはマクロな状態と正しい関係にあるのだ。熱時間は熱力学と、ということは熱と関係があるが、それでもまだ、わたしたちが経験する時間とは似ていない。なぜなら過去と未来は区別されず、方向もなく、わたしたちが時の流れと呼んでいる物もないからだ。わたしたちはまだ、自分たちが経験する時間にたどり着いていない。

過去と未来の差、わたしたちにとってこれほどまでに重要なこの差は、いったいどこから来ているのだろう。

第10章 視点(Day10)

★Yujin

わたしたちは、この世界と互いに物理的に作用し合っている。しかし、その相互作用をするのはこの世界の変数のごく一部とであって、ほとんどの変数とは関わりがない。それゆえ、この世界の配置が互いに異なっていたとしても、わたしたちにとっては同等に見える。例えば、わたしとコップに入った水、この 2 つのかけらの物理的な相互作用は、一つ一つの水分子の動きとは無関係である。また、自分たちが属していてアクセスできる部分とわたしたち自身との物理的な相互作用では、ほとんどの変数はまったく感知されない。従って、わたしたちに見えているこの世界の像はぼやけている。

ボルツマンの理論の核心にはこの「ぼやけ」があり、そこから生まれた熱やエントロピーの概念が、時間の流れを特徴づける現象に結びつく。系のエントロピーはわたしたちには区別できない配置の数で決まるため、ぼやけによって左右される量である。まったく同じミクロな配置のエントロピーが、あるレベルのぼやけでは高くなり、別のレベルのぼやけでは低くなる。

このぼやけは人間の精神が生み出したものではなく、あくまで実際に存在する物理的な相互作用によって決まる。エントロピーは恣意的・主観的な量ではなく、相対的な量なのだ。B にとっての A のエントロピーとは、A と B の間の物理的な相互作用では区別されない A の状態の数であるということだ。ここをはっきりとさせておくと、時間の矢にまつわる謎の魅力的な解が見えてくる。

ここまでの話をまとめると、エントロピーは、この世界のミクロな配置だけでなく、世界の像のぼやけ方によっても左右される。そしてそのぼやけ方は、自分がどの変数と相互作用するか、つまり、わたしたちがこの世界のどの部分に属しているかによって変わる。

わたしたちの目には、この世界が始まった頃のエントロピーは極めて低かったように見える。しかしそれがこの世界全体の正確な状態を反映しているとは限らない。もしかしたら、わたしたちが物理系として相互作用してきた変数の部分集合に関してのみ、エントロピーが低く見えているのかもしれない。わたしたちがこの世界のわずかな変数と相互作用することによって生じたぼやけに関しては、宇宙のエントロピーは低かったのだ。

この事実から、過去に極めて特殊な状態にあったのは、この宇宙ではなかったという可能性が出てくる。特殊だったのは、わたしたちの宇宙との相互作用なのだ。わたしたちが宇宙の性質の中の極めて特殊な部分集合を識別するようにできているから、宇宙のエントロピーが最初は低く、時間の矢が存在するのであろう。つまり、宇宙は特別な配置にはなっていないが、わたしたちが特殊な物理系に属していて、その物理系に関する宇宙の状態が特殊だから、宇宙のエントロピーは最初は低かったのだろう。

それではなぜ、宇宙の最初の配置がその系に関しては特殊であるような物理系が存在すると言えるのか。それは、この広大な宇宙には無数の物理系があり、それらの相互作用の様子を考えると更に膨大な数になるからだ。そしてそれらの中には、過去に特定の値をとっていた変数と 相互作用する特殊な物理系がほぼ確実に存在する。そして、その「特別な」部分集合においては過去のエントロピーが低く、熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)が保たれる。従って、そこには時間の矢が存在する。

言い換えれば、宇宙にそのような「特別な」物理系が存在したとすると、わたしたちが宇宙を記述する際に用いる変数は、その物理系に属していると言える。時間の流れはこの宇宙の特徴ではなく、この宇宙の片隅にいるわたしたちの目に映る特殊な眺めなのだ。

ここからは、科学をする際に重要となる「視点」について述べられている。

科学をするにあたって、わたしたちはこの世界をなるべく客観的な形で記述しようとする。そのために、己の視野が生み出す歪みや錯覚を拭い去ろうとする。この時、自分たちの視点を無視することで失われるものにも注意を払う必要がある。科学がどれだけ客観性を希求するにしても、わたしたちがこの世界に向ける視線は全て特殊な視点であることを忘れてはならない。

仮に視点を無視して世界を記述するとしたら、それは専ら空間の、時間の、主観の「外から」の記述となってしまい、この世界の重要な側面を見落とすことになる。なぜなら、わたしたちに与えられたこの世界は、内側から見た世界であるからだ。

自分たちの時間経験を理解する際には、自分たちがこの世界の内側にいるという認識が欠かせない。外側から見た世界の中にある時間構造と、自分たちが世界の一部であることの影響を受けているこの世界の性質を混同してはならない。時間を理解するためには、外から考えているだけでは不十分で、自分たち、そして自分たちが経験する全ての瞬間が時間の中にあることを理解しなければならない。

ここで 9、10 章で述べられた筆者の考えをまとめる。

根本のレベルにおけるこの世界は、時間の中に順序づけられていない出来事の集まりである。それらの出来事は物理的な変数同士の関係を実現しており、これらの変数は元来同じレベルにある。世界のそれぞれの部分は、数ある変数のごく一部と相互作用していて、その一部の変数の値が「その部分系との関係におけるこの世界の状態」を定める。

一般に、部分系 S にとっての宇宙のエントロピーとは、S には判別できない宇宙のミクロな状態の数に対応する。そのミクロな状態の数は多く、実現確率が高いため、S にとって宇宙のエ ントロピーは高い状態にあると言える。また、S にとってエントロピーは、熱時間に伴って高いまま推移し、せいぜい確率的に上下に揺らぐ程度のものである。

しかし、わたしたちが属する「特別な」部分系というものが存在して、そこでは熱時間の流れの両端の一方では、エントロピーが低くなっている。この部分系ではエントロピーは増大するように見える。そしてその増大が、時間の矢として経験されるのだ。

第11章 特殊性から生じるもの(Day11)

★Naokimen

学校では、この世界を動かしているのはエネルギーだと教わった。エネルギーはエンジンを動かし、植物を育てる。だが、エネルギーが保存されることを考えると辻褄が合わなくなる。 エネルギーが保存されるならなぜ我々は新たなエネルギーを供給し続けなければならないのか。なぜ同じエネルギーを使い続けることができないのか。実はこの世界を動かしているのはエネルギーではなく低いエントロピーなのである。

全てのエネルギーは熱に形を変えて冷たいものの中に入る。その熱を勝手に取り戻して再 びそれを使って植物を育てたり、モーターを動かしたりすることはできない。この流れの中でエネルギーは不変だがエントロピーは増す。しかも熱力学第二法則があるのでエントロピーは決して減少しない。

太陽は地球に低いエントロピーを提供する。太陽から地球に熱い光子 1 個が届くとそれに対して地球は 10 個の冷たい光子を放射する。1 個の熱い光子と 10 個の冷たい光子はエネルギーが等しいが、熱い光子 1 個の方がエントロピーが小さいのである。では、太陽の低いエントロピーはどこから来るのだろうか。実は太陽自体がより低いエントロピーの低い配置から生まれたのだ。こうしてどんどん過去に遡っていくとついには宇宙の最初のエントロピーが極めて低い状態に行き着く。

このようなエントロピーの増大がこの宇宙の偉大な物語を推し進めるのである。そうはいっても宇宙におけるエントロピーの増大は時間をかけてゆっくり進む。例えば、大昔の宇宙にはどこまでも水素が広がっており、水素は融合してエントロピーがより大きいヘリウムになることができるが、それにはある回路を開く必要がある。大きな水素の雲が重力によって収縮して星が発火する必要があるのだ。ところが水素の雲は途方もない大きさだから収縮するのに何百万年もかかるのである。

宇宙の歴史全体がこのようなエントロピーの増大の跳躍と遅滞で構成されており、その進行は速くもなければ一様でもない。なぜなら物質は低いエントロピーのたまりに閉じ込められているからで、何かが扉を開くことによりエントロピーの増大が可能になるのである。

石が地面に落ちるのも熱力学第二法則によって規定されている。石が地面に落ちるのは石が地球に当たって石の力学的エネルギーが熱に変わるからである。もし熱が存在せずミクロレベルの分子の運動がなければ石は弾み続け決して地面に落ちて止まりはしない。

このように、この宇宙の全ての出来事はエントロピーが増大する、つまり秩序ある配置が無秩序な配置へと向かうから生じるのである。

過去にエントロピーが低かったという事実から、過去と未来の違いにとって重大な事実が導かれる。それは、過去が現在の中に痕跡を残すということである。痕跡はどこにでもある。月のクレーターは過去の衝突を物語っているし、書籍は私たちの過去の歴史を語り、私たちの脳には記憶がぎっしり詰まっている。

過去の痕跡があるのに未来の痕跡が存在しないのは過去のエントロピーが低かったからである。なぜなら、過去と未来の差を生み出すものは、かつてエントロピーが低かったという事実以外にないからだ。

痕跡を残すには何かが止まる、つまり動くのをやめる必要があるが、それは不可逆な過程でありエネルギーが熱へと劣化するときに限って起こる。こうしてコンピュータは熱を持ち、頭は熱を持ち、月に落ちた隕石は月を熱し、ペンは文字が書かれるページを少し温める。熱が存在しない世界ではすべてがしなやかに弾み何の痕跡も残らない。

過去の痕跡が豊富だからこそ、「過去は定まっている」というおなじみの感覚が生じる。未来に関してはそのような痕跡が一切ないので「未来は定まっていない」と感じる。我々の脳には自分では直接意識し得ない膨大なメカニズムがあるが、それらのメカニズムは、進化の過程で未来の可能性を計算できるように設計されてきた。それが私たちのいう「意思決定」なのである。脳は、現在がまさに今の状態にあるという前提のもとで、それに続きそうないくつかの未来の候補を詳しく調べる。だから、私たちはごく自然に、「結果」に先立つ「原因」の関係で物事を捉えるようになる。未来の特定の出来事の「原因」とは、その事柄だけが取り除かれた未来の世界では問題の出来事が起こりえないような過去の事柄なのである。したがって、私たちの経験からすると、原因は結果の前に来る。

原因や記憶や痕跡、さらには何十億年にわたる壮大な宇宙の物語において展開されてきたこの世界の成り立ちの歴史全てがはるか昔の事物の配置が「特殊」だった、つまりエントロピーが低かったという事実から生じた結果に過ぎないのである。その上、「特殊」というのは相対的な単語で、あくまで 1 つの視点にとって「特殊」なのだ。あるぼやけに関して特殊なのであり、そのぼやけは問題の物理系とこの世界の残りの部分との相互作用によって定まる。したがって、因果や記憶や痕跡やこの世界自体の出来事の歴史もまた、我々の視点がもたらす結果でしかないのかもしれない。こうして非情にも時間の研究は私たちを自分自身に引き戻す。私たちはついに、己と向き合うことになるのだ。

第12章 マドレーヌの香り(Day12)

★Naokimen

この世界は実在するものではなく、互いに結び合った出来事によって構成されているのであったが、何が私たちのアイデンティティー、「自分は1つのまとまった存在だ」という感覚の基になっているのだろうか。私たちのアイデンティティーの構成要素は色々あるが、本書の議論にとって重要なのは次の3つである。

(1)第一に、私たち一人一人がこの世界に対する「1つの視点」と同一視されるということである。この世界は、自分たちの生存に欠くことのできない豊かな相互関係の広がりを通じて、各自の中に反映されている。一人一人がこの世界を反映し、受け取った情報を厳格に統合された形で合成する複雑な過程なのだ。

(2)第二の要素は、我々はこの世界を反映する中で世界を組織して実在する、つまりグループ分けして分節化した世界を思い描くということである。自分たちがその世界とよりよく相互作用するために、一様で安定した最良の連続的過程としての世界を思い浮かべる。例えば、岩の集まりをまとめて「モンブラン」という単一の実在とし、1つのものと見なす。私たちの神経系は、このような形で機能するように作られているのである。

我々の生活は社会的で、他のヒトと盛んに相互作用を行うため、私たちは、自分とは「別」の人間と呼ばれる生命体を構成する過程を集め、一つのまとまった像を作る。私たちは、自分と似た人々と相互作用することによって、「人間」という概念を形作ってきた。己という概念はそこから生まれたのであって、内省から生まれたわけではない。「人」としての自分を考えるとき、私たちは仲間に当てはめるために自ら開発した精神的な回路を自分自身に適用しているのである。私たちにとっての自分は、大部分が友達や愛する人や敵によって映し出された自分、映し出される自分なのである。

(3)最後に、時間を巡る議論において重要な要素は、記憶である。私たちは、連続するいくつもの瞬間における互いに無関係な過程の寄せ集めではなく、私たちの存在の各瞬間は、記憶という名の特殊な糸で自分の過去としっかり結びつけられている。

時間のあちこちに散らばる過程を糊づけし、私たちを形作っているのは記憶である。その意味で、私たちは時間の中に存在するといえる。だからこそ、私は昨日の私と同じなのだ。己を理解するということは時間について真剣に考えることである。ところが、時間を理解しようとすると自分自身について深く考える必要がある。

最近の脳の機能の研究によると、大まかには、脳は過去の記憶を集めそれを使って絶えず未来を予測しようとする仕組みである。しかもこの作業が行われる時間のスケールは短いものから長いものまで、非常に広範かつ多様である。誰かがこちらに向かって何かを投げると、私たちの手はすぐにその何かが来るはずの場所へと巧みに動く。それは脳が過去の様々な結果に基づいて、こちらに向かって飛んでくる物体のその後の位置を計算したためである。もっと長いスパンで言うと、私たちは種をまき、穀物を育てる。あるいは先を見越して科学技術に投資し、新たな技術や知識を得ようとする。未来を予見できるようになれば、明らかに生存確率が上がるので、進化はそのような神経構造を選んできたのである。こうやって過去の出来事と未来の出来事にまたがって生きていくことが、私たちの精神構造の核となっており、これが私たちにとっての「時間」の流れなのだ。

私たちの神経系の配線は、基本的に動きをすぐさま察知するような構造になっている。1つの対象がある場所に現れてからすぐに別の場所に現れると、この2つは個別に脳に向かうバラバラな信号ではなく、何か動いているものを見ているという事実によって結び付けられた1つの信号になる。つまり、私たちが知覚しているのは現在ではなく、時間の中で生じ、伸びていくものである。時間の中での進展が脳の中で凝縮され、継続として認識される。

西洋の哲学は、このような時間の内的な性質について繰り返し調べてきた。カントはその著書『純粋理性批判』で空間と時間の性質を論じ、空間も時間も知識の先験的な形式であるとした。つまり、客観的な世界だけでなく、主体の側がこの世界を把握する際の方法とも関係しているというのだ。ただしカントは、空間を形作るのが私たちの外的な感覚、すなわち自分たちが外側の世界に見た事物を秩序付けるやり方であるのに対して、時間を形作るのは私たちの内的な感覚、すなわち自分自身の内的状態を秩序付けるやり方であることに気づいた。この世界の時間構造の基盤は、私たちの考え方や感じ方といった、自分たちの意識と密接に関係するものに求められるべきなのだ。

脳の機能に関して最近得られた知見の1つに、人間の脳全体がニューロン同士をつなぐシナプスに残された過去の痕跡の集まりに基づいて機能している、という事実がある。脳の中では何千ものシナプス結合が絶えず形成されては削除され、特に寝ている間に、それまでに神経系に働きかけてきた事柄のぼんやりした像が残される。

現実は、記憶のみによって形成される。その記憶は痕跡の集まりで、ΔS≧0という方程式の間接的な産物である。この方程式は私たちに、この世界の状態はかつて(私たちを含む希少な部分系との関係において)「特殊な」配置にあり、そのため痕跡が残ったと告げている。

私たちは物語なのだ。両眼の後ろにある直径20 cmの入り組んだ部分に収められた物語であり、この世界の事物の混じり合いによって残された痕跡が描いた線。エントロピーが増大する方向である未来に向けて出来事を予測するよう方向づけられた、この膨大で混沌とした宇宙の中の少しばかり特殊な片隅に存在する線なのだ。

記憶と呼ばれるこの広がりと私たちの連続的な予測の過程が組み合わさったとき、私たちは時間を時間と感じ、自分は自分だと感じる。自分たちが属する物理系にとって、その系がこの世界の残りの部分と相互作用する仕方が独特であるために、また、それにより痕跡が残るおかげで、さらには物理的な実在としての私たちが記憶と予想からなっているからこそ、私たちの目の前に時間の展望が開ける。時間は私たちに、この世界への限定的なアクセスを開いてくれる。つまり時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主である私たちヒトの、この世界との相互作用の形であり、私たちのアイデンティティーの源なのだ。

そして、苦しみの源でもある。始まったものは必ず終わる。私たちは過去や未来に苦しむのではなく、今この場所で、記憶の中で、予測の中で苦しむ。時さえなかったなら、と心から思い、時間の経過に耐える。つまり、時間に苦しめられる。

これが時間であり、だからこそ私たちは時間に魅せられ、悩むのである。時間は、この世界の出来事の中の短命な揺らぎでしかないからこそ、私たちを私たちとして生み出し得る。時は私たちに存在という貴い贈り物を与え、永遠というはかない幻想を作ることを許す。だからこそ、私たち全ての苦悩が生まれる。

第13章 時の起源(Day13)

★Yujin

始まりは、わたしたちに馴染みのある時間像だった。宇宙のあらゆる場所に現在があり、それが現実であると思っていた。過去は誰にとっても過ぎ去ったもの、定まったものであり、未来は開かれていて、まだ定まっていない。現実は過去から現在を経て未来へと流れ、事柄は本来過去から未来へと非対称的にしか進展しない。それがこの世界の基本構造だと思っていた。

しかし、この枠組みは砕け散り、はるかに複雑な現実の近似でしかないことが明らかになった (第1章〜第5章)。

宇宙全体に共通な「今」は存在せず、過去、現在、未来は「部分的に」順序づけられているにすぎないことがわかった。わたしたちの近くには「今」があるが、遠くの銀河には「今」は存在しない。「今」は大域的な現象ではなく、局所的なものなのだ。

世界の出来事を統べる基本方程式に、過去と未来の違いは存在しない。過去と未来が異なると感じられるのは、わたしたちのぼやけた目には、過去の世界が「特殊」に映る状態だったからだ。

自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるのか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。質量に近い方が、そして速く動いた方が、時間は遅くなる。2 つ の出来事を繋ぐ時間は 1 つではなく、さまざまであり得る。

時間が流れるリズムは重力場によって決まる。重力場の力学はアインシュタイン方程式で記述される。量子効果を無視するならば、時間と空間は、わたしたちが埋め込まれた巨大なゼリーの異なる側面なのだ。

しかしこの世界は量子的であり、ゼラチン状の時空も近似でしかない。世界の基本原理には時間も空間もなく、ある物理量から他の物理量へと変わっていく過程があるだけだ。そしてそこから、確率や関係を計算できる。

このように、現在わかっている最も根本的なレベルでは、わたしたちが経験する時間に似たも のはほぼないと言える(第6章〜第8章)。「時間」という特別な変数はなく、過去と未来に差はなく、時空もない。それでもこの世界を記述できる式を書くことができる。それらの方程式では、変数が互いに対して発展していく。それは「静的」な世界でも「ブロック宇宙」でもない。それどころか、この世界は物でなく、出来事からなる世界なのだ。

そしてこの時間のない世界から出発して、わたしたちの知覚がどのように生じるのかを理解しようとした(第9章〜第12章)。

わたしたちに馴染みのある時間の性質が出現するにあたって、わたしたち自身が一役買っていた。この世界のごく小さな部分でしかない生き物の視点、つまりわたしたちの視点からは、この世界が時間のなかを流れるように見える。この世界とわたしたちの相互作用は部分的で、この世界はぼやけて見える。更にそこに量子の不確かさが加わることによって、特殊な変数「熱時間」の存在が決まり、不確定性を量で表したエントロピーが定まる。

わたしたちは世界の特別な部分集合に属していて、その部分集合と世界の残りの部分の相互作用では、熱時間の特定の方向におけるエントロピーが低いのだろう。つまり時間の方向性は、わたしたちの視点がもたらすものなのだ。とりわけわたしたちに関して言えば、この世界のエントロピーは熱時間とともに増大する。

そしてわたしたちは、「時間」と呼んでいる変数によって順序づけられた形で、さまざまな事柄が生じるのを目にする。わたしたちから見れば、エントロピーの増大が過去と未来の差を生み出し、宇宙の展開を先導し、それによって過去の痕跡、残滓、記憶の存在が決まる。人類は、この壮大なエントロピー増大の歴史の一つの結果であり、これらの痕跡がもたらす記憶のおかげで一つにまとまっている。自分たちの同類と相互に作用することでまとまった実在のイメージを形作ってきたから人類はまとまった存在であり、それが記憶によってまとめられた世界の眺めである。ここから、時間の「流れ」が生まれている。

「時間」という重力場の変数は、世界を記述するたくさんの変数のなかの 1 つでしかない。わたしたちの知覚のスケールでは量子レベルの揺らぎを認識できないため、時空を堅いテーブル のようなものと見なすことができる。更に日常生活のわたしたちの動きは光速と比べて極めて遅く、複数の固有時の差や時計の食い違いは感じらず、質量からの距離の違いによって生じる 時間経過の速度の違いも判別できない。従って、わたしたちは、一様で順序づけられた普遍的 な時間について語ることが可能になる。わたしたちの特殊な視点からの、この世界の近似の近似の近似なのだ。これがわたしたちにとっての「時間」である。

以上の議論は、多くは実験によってきちんと確認されていることに基づいている。しかし重力場の量子的な性質は、理論に基づく推論のみに支えられているにすぎない。更に、基本方程式に時間変数がないことは妥当な説とされているが、今なお激しい議論が続いている。量子の非可換性から熱時間が生じるという見解と、エントロピー増大はわたしたちとこの宇宙との相互作用によって決まるという見解は、魅力的ではあるが裏付けがあるとは言えない。

いずれにしても、この世界の時間構造はわたしたちの素朴なイメージとは異なるということは 信用できる。素朴なイメージは日々の生活には適していても、この世界の細かい襞(ひだ)に至るまで、あるいは広大なありようのままで理解するには不向きである。更に、わたしたち自身の性質を理解するにも不十分である。なぜなら、時間の謎は個人のアイデンティティや意識の謎と交わっているからである。そしてこの謎が、わたしたちを悩ませ、深い感情を掻き立て、 哲学や宗教を生み出してきた。しかし感情から生まれた哲学や宗教では、時間の理解には近づ くことができなかった。

物理学は、世界の時間構造がいかにわたしたちの直感と異なるかを示す。そのうえで、自分たちの感情が引き起こす霧に惑わされずに、時間の本質を研究することができる、という希望を 与えてくれる。ところが時間を研究するうちに、自分たちから遠ざかっていたはずが、自分自身を巡る事柄を発見することになった(第12章)。結局、時間に対する感情の昂りは、時間の本 質を客観的に理解するのを妨げる霧ではないのかもしれない。

この先わたしたちは、物事をよりよく理解できるようになるだろうか。自然への理解は劇的に増し、わたしたちは時間のない世界を心の目で見抜くことができる。そして自分たちが時間であることを悟り始める。わたしたちは、ニューロン同士のつながりの中にある記憶の痕跡によって開かれた空き地である。そして、この開かれた空き地が時間なのだ。それは時に苦悩のもとになるが、結局は途方もない贈り物なのである。

Q3(Day13)

【Q3】このWSの前と比べて、時間に対する考え方に変化はありましたか?また、どのように変化したのか教えてください。

Q3】このWSの前と比べて、時間に対する考え方に変化はありましたか?また、どのように変化したのか教えてください。
:1: 変化があった
:2: やや変化があった    1
@Hiroto
:3: あまり変化がなかった    1
@コバ
:4: 全く変化がなかった

■Hiroto

はじめの方は、「局所的にしか時間がないって話ね」と読んでいたのですが、次第に、自分も知らないような様々な内容に触れることができました。原著ではもっと様々な数式や具体例を交えて解説されていると思うのですが、要約を読むだけでもだいぶ勉強になりました。二週間ありがとうございました!

・Yujin

要約につき具体例はいくつか削ぎ落としましたが、数式は本当に「ΔS≧0」しか出てきませんでした。
数式を使わずに説明し切ったのは、著者のカルロ・ロヴェッリさんが本質を十分に理解しているからなのでしょうね…
2週間お付き合いいただきありがとうございます!

エンディング(Day14)

★Yujin

物理学部による『時間は存在しない』のワークショップは以上となります。

身近でありながら不思議な存在である「時間」について、皆さんに考えていただくきっかけになったかと思います。『時間は存在しない』は確かに数式はほとんど登場しませんでしたが、それでも内容は高度な物理学であり、解釈が難しいところも多々ありました。僕たちは物理学部として、いつかは「時間」について’’数式でも’’理解できるように頑張りたいと思います。

2 週間の間、お付き合いいただきありがとうございました!

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