“死の悲しみ”と“抑うつ”の違いとは何なのか? 〜双極性障害の頭の中 61
みなさん、こんにちは。
双極性障害2型(双極症)のフツーの会社員、パピヨンです。
まだまだ終わらない抑うつ期が続いており、今週末もほぼ寝たきりで過ごしてしまいました。
とあるきっかけで、“大切な人を亡くした悲しみ”と“抑うつ”は、一見同じように長い期間落ち込んで見えるのに、『違いって何なんだろう?』とふと考えたので記します。
◾️同僚の弟さんの急死
4月の終わりのとある日、仲の良い同僚の弟さんが何の前触れも無く急死されました。
私とたわいも無い世間話をしていた同僚は急遽電話で警察に呼び出され、私も動揺するばかり。
後から聞いた話では、解剖の結果“病死”だったそうです。まだ40代前半の若さでした。
彼女は地方出身のため両親がすぐには来られず、様々な手続きを1人で取り仕切らなければならなかったようです。
当然ですが彼女はしばらく出社できなくなりました。
◾️憔悴
2週間ほどして、彼女は出社してきました。
『戻ってきたら、どう声を掛けようか?』
私の方が緊張していたかもしれません。
いつもは冷静な彼女ですが、さすがに憔悴しきっていました。
手には常にハンカチ。
仕事中も繰り返し涙ぐんでいました。
『なるべく、いつも通りに』
それしか思いつきませんでした。
掛ける言葉も見つからない。
私にも妹がいます。
当たり前のように、先に親が死んで、私が死んで、妹は最後と信じて疑っていません。
もしも、その順番が狂ってしまったら?
親よりも早く大切な弟さんを亡くす悲しみがどれほどのものなのか、私には想像すらできません。
いつも通り一緒にランチに誘い、彼女がぽつりぽつりと弟さんの話をするのを頷きながらただ聞いていました。
さすがに食事が喉を通らなかったらしく、ランチは半分以上残していました。
私だったら…。
発狂してしまうかもしれない。
これからどうやって彼女はこの悲しみを乗り越えていくんだろうか?
ぼんやりとそんなことを考えていました。
◾️それでも乗り越えていく
あれから3ヶ月が経ちました。
3月の終わりから抑うつエピソードが続いている私は、暑さも加わって食欲も無くなりがちでした。
今週彼女とランチに行った際、「あ〜、ご飯少なめって言うの忘れたわ〜、絶対食べきれない」と私が言うと、
「ほれ、私の茶碗にご飯入れな。食べてあげるから」
と、自分の茶碗を差し出してきたのです。
以前は良くやっていましたが、弟さんの件以来、3ヶ月ぶりのことです。
「おぉ〜、食欲戻ってきたか〜(笑)」
と私が茶化すと、
「まぁね。食べないと(笑)」
と返してきました。
“あぁ、こんな風に彼女は乗り越えていくんだ。”
「こんなに山盛り〜?!(笑)」と笑う彼女の茶碗に、私は容赦無く自分の茶碗のご飯をどすんと載せていきました。
◾️“死の悲しみ”と“抑うつ”はどう違うのか?
段々と以前の姿に戻っていく同僚の隣で、
「私なんかよりずっと大変な出来事があったというのに、どうして彼女は以前の姿に戻って行けるのだろう?」
「むしろ、これと言って何のアクシデントも無い私が、なぜ3ヶ月もウジウジと落ち込んでいるんだろう?」
“死の悲しみ”と“抑うつ”は、一体何が違うんだろう?という漠然とした疑問が湧きました。
精神医学のガイドラインDSMー5を開いてみると、抑うつエピソードの項目に“悲嘆(人の死の悲しみ)”と抑うつエピソードの鑑別についての記載がありました。
“悲嘆”は常に『故人』という対象があって生じるもの。
“抑うつ”はこれと言って何にも結び付いていない、という違い。
なるほど、確かにそうだ。
上記抜粋のように、そもそも“悲嘆”と“抑うつ”は根本的に違うらしい。
“悲嘆”には『故人』という実体がある。
“抑うつエピソード”には実体が無い、ということだろうか。
何も無いはずなのに、落ち込んでいる。
だからこそ、『病的』と定義されるのだろう。
実体の無いものを“乗り越える”のは何とも難しい。
しかし、明らかに辛いのは“悲嘆”の方だと思うのです。
誰も死んでいないというのに、ただ理由無く落ち込んでいる自分が、情けなく、彼女に対して申し訳なくなってくる。
私はいつになったら、この実体の無い“抑うつ”から抜け出せるのだろう?
タイミングよく、精神科医YouTuberの松崎朝樹先生が『悲嘆とうつ病はどう違う?』という動画を出されていたので、下に貼っておきます。↓↓
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