第32軍司令部壕を知りませんか?|Studies
ウクライナのハルキウはロシアとの国境からわずか30㌔に位置していて、空爆の危険から逃れるため、子どもたちは地下鉄駅の構内深くで授業を受けているそうです(2023年9月時点)。列車が発着する音が外から聞こえるなか、カラフルな教材で飾られた教室で、午前か午後のどちらかに交互に勉強しているとのことです。
このように戦争と防空壕は、今も昔も切っても切れない関係にあります。この島でも多数の人工の壕が沖縄戦当時に築かれました。
そして、現在再建中の首里城の地下には第32軍司令部壕があります。
32軍壕は、悲惨な沖縄戦を遂行した日本軍守備隊の第32軍司令部が南部へ撤退するまでの昭和19年12月から昭和20年5月までの間、日本軍の軍事的中枢でした。当初32軍壕は、現在の南風原町津嘉山に設置する予定で構築が開始されたのですが、第9師団の台湾への転出等に伴う戦力不備により、決戦から持久戦へと沖縄戦の戦略が変更されたため、地勢的に恵まれた首里城の地下に司令部壕が置かれることとなりました。
32軍壕の構築は昭和19年12月から第2野戦築城隊により開始されています。沖縄師範学校をはじめ多くの学徒や住民が動員されるとともに、木材など多くの県産資材が投入されるなど、一木一草まで戦力化するという日本軍の戦略により、陣地構築は国民総動員体制下で推進されたのです。
32軍壕には次のような歴史的価値があります。
①沖縄戦の実相を伝える歴史的遺産である
沖縄戦が本土防衛・国体護持のための時間稼ぎの戦闘であり、軍隊のみでなく住民を巻き添えにした、総動員体制による戦闘であったことを物語る場でもあります。
②戦争の対極にある文化と平和が明確に認識できる場である
琉球王朝の華やかな「明」の遺産に対し、32軍壕は沖縄戦の悲惨な「暗」を表現していますが、いずれも沖縄の歴史そのものだといえます。
③今日の沖縄を決定づけた歴史的戦跡である
沖縄戦をきっかけに米軍基地が沖縄に建設されたのであり、32軍壕は、今日まで沖縄が歩んできた苦難の歴史を決定づけたともいえ、後世に伝えなければならない戦跡です。
32軍壕は、沖縄戦を指揮・指導した軍事中枢施設であり、日本軍の組織的戦闘の最後の砦として重要な役割を果たしました。他の戦跡が主に前線部隊陣地や住民避難の場所であったことに比べると、その戦跡としての意義は特徴的です。戦後の復興や開発等により沖縄全域で戦跡が消滅していくなか、都市に唯一残った手つかずの重要な戦跡です。
また、戦術面からみると、圧倒的な米軍の物量作戦に対する持久戦を成功させるために、地勢を活用した陣地構築の典型であり、構築から司令部の維持・運用、そして南部への撤退まで、沖縄戦の戦闘における中枢でした。
いま「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」(瀬名波栄喜会長)が、沖縄戦の記憶を語り継ぎ、不戦の誓いを後世に伝えるために活動しています。