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自費出版してでも伝えたかった沖縄そばの思い出|Report

10月17日が「沖縄そばの日」なので、10月は沖縄そば強化月間とし、そば関連の記事を多めに投稿します。

まずこの日がなぜそばの日になったのか、おさらいしておきましょう。沖縄生麺協同組合の説明とウィキペディアの説明を要約すると次のようになります。


1976年に公正取引委員会が、「そば」とはそば粉30%以上、小麦粉70%以下の割合で混合したものだから、そば粉をまったく使っていない「沖縄そば」は「そば」を名乗れないとイチャモンをつけた。しかし沖縄生麺協同組合は、「そうはいっても地元じゃずっとそば(すば)と呼んできたんですよ」と粘り強い交渉を行った。これにより1978年10月17日に公正取引協議会「生めん類の表示に関する公正競争施行規則」別表に「本場 沖縄そば」という表記が新設され、特殊名称として認可された。これを記念して10月17日が「沖縄そばの日」とされた。


最初はちょっと長めの記事から。『夢のまた夢 三国記』という自分史が昭和56年3月に自費出版されています。著者は元那覇市議の野崎文子という方(故人)。大正から昭和戦前にかけての那覇のそば屋の変遷が書かれてあるのが貴重です。

おいしかった沖縄そば

ソバが始まったのは明治の中期以降だという。那覇のメーヌモー(前毛)で、トーヌッチュー(唐人)がつくり始めたとかで、「森そば屋」という店だったとのこと。
首里の人で、比嘉某が、この唐人ソバ屋で働いたあと、同じ前毛で開店したが、長くは続かず、廃業し、その後ウシンマーソバ、豊屋、井筒屋というソバ屋が出現した。
ダシのとり方は、醤油味で、黒くなるまでたっぷり醤油を使っていた。添えものは、ネギと豚肉だけで、その豚肉も、豆粒よりちょっと大きめに切って、十片ほどのせた程度だった。それに、カマボコと赤ショウガをのせ始めたのが、ウシンマーソバだった。ウシンマーというのは、ジュリ(娼妓)上りのおばさんで、最初は、前毛の中道と後道からの突当りあたりに、五、六畳ぐらいの小さな店だったが、その新しいソバが大いに受けて繁盛した。ところが、新天地ビルのうしろ側に移り、店を大きくしたところ、いろいろな事情があって、間もなく、他人に看板ごと譲ってしまった。
ソバのダシを改良したのは豊屋で、醤油を減らして、その分だけ塩を増やしただけのことだった。
結局、ソバづくりは、アク加減、アーシ加減(こね加減)、ゆで加減、ダシ加減の四つの条件がなければ、昔の沖縄ソバの味は出せない。アクの木灰は、松材ではダメ、古家の天井板もいけない。これは煤の臭いがソバに移るからである。
灰あつめに、ソバ屋の職人が、辻遊郭を一軒々々回ってあつめ、一罐二十銭の手間賃をもらっていたという。昔のソバの、なんともいえない風味は、このアクを使ったからである。

野崎さんは「首里奨学母の会」を立ち上げ、貧困層の人道支援を続けた方ですが、そんな人格者でも子どもの頃はがちまやー(食いしん坊)のいたずらっ子だったようですね。

模合座にとりよせた、ソバのおこぼれが、私にも回ってきた。その頃、私は、五才、六才の頃である。おいしいソバを、つるつる音を立ててのみこむ。その私の姿を、うらやましそうに眺める隣りの子供と友達がいた。ヨダレをたらしている子が近よってツバをのみこんでいる。
私はちょっとからかってみたくなった。
「舌で鼻をなめてごらん。できたら、このソバをあげるよ」。
いわれた子供たちは、必死になって、舌で自分の鼻をなめようとする。その姿がおかしくて、アハアハ笑っていた。そこへ祖母が出てきて、このザマをみて激怒した。
「おマエという子は!」
というなり、手足をいやというほどつねられた。<後略>

次に、王姓門中(槐王会)の『久米村王姓門中(槐王会)資料4』という平成13年3月刊行の自費出版本。引用箇所は、国場榮正「儒教と沖縄-先祖祭祀への好奇心から-」の項です。著者の国場氏は今のうるま市に住んでいました。同じく那覇に出かけたついでに、そばを食べるのを楽しみにしていた田舎の人はたくさんいたようです。

投稿雑感

門中清明祭に初めて父や祖父に連れられて行ったのは確かまだ小学四年か五年生の頃だったと思う。清明節に入るときまって親戚の男衆が新聞の清明祭広告欄を見て、打ち合わせをしていた。今から四七年程前の当時は、大人達でさえめったに那覇に行く機会もなく、誰もが門中清明を心待ちにしていた。清明祭の当日の集合場所は我が家で、近所の親類だけでなく遠く平安座の門中も揃って出かけた。バスが運行していなかったのか、トラックの荷台にござを敷いて座り、具志川から長時間ゆられて行ったように記憶している。田舎から繰り出した清明の人達で那覇(平和通り)の街は一層にぎわいを増し、私にとっては年に一度の那覇の露天市場の観光と日頃は入ることがない食堂で大盛りのそばを食べられるのが最上の喜びであった。


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