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明治中期までに沖縄各地に空手を広めたのは誰なのか|Report

沖縄からハワイや南米に移住した人たちが空手を嗜んでいたという事実は、空手が明治中期には県内各地に広まっていたと考えなければ説明が難しいと思います。ですがこれは、首里・那覇から門外不出という初期の空手の従来イメージとは異なります。

首里・那覇以外の例として、唐手(トウディー)・佐久川の弟子の世代に「城間村の古波蔵」という空手家がいたと文献等にみえます。この城間村はおそらく現・浦添市城間のことなので、古波蔵某は首里・那覇の空手家にあたりません。

まず学校教育による県内各地への空手普及の可能性を考えてみましょう。首里第一中学(現在の首里高)や沖縄県師範学校で空手が教授され始めたのが概ね1905年です。

  • ハワイへの初期の移民のなかに、空手の使い手である「モリコネセイオ」という人物がいます。1881年の勝連の平安名生まれで、一中から師範学校に進んでいます。しかし、1905年は彼が26歳のときにあたり、学校教育で学んだものではないと考えられます。

  • 1914年に13歳でハワイに移住した「ウエハラセイシン」も空手家で、現在の本部町出身です。13歳なので尋常小学校卒業程度の学歴になりますが、この頃の北部地域で空手が小学校教育に取り入れられていたという記録はみつかっていません。

  • 1896年、中城村奥間生まれの「安里亀栄」の学歴は不明ですが、裕福な家庭だったので学校には通っていたはずです。学校教育で空手を学んだ可能性はありますが、やはり証拠がありません。

仮に1905年に始まる学校空手が県内普及のきっかけでないとすると、明治中期までの各地への空手伝播の道筋として、次のようないくつかの推測が成り立つのではないでしょうか。

①地方に移り住んだ士族帰農者(屋取または寄留民)
屋取(ヤードゥイ)とは、貧窮士族が首里を出て地方へ都落ちし、人里離れた地に小屋掛けして荒蕪地を開墾し農業を営んだ者または村のことです。18世紀以降からの屋取集落は130余にのぼります。屋取した士族帰農者がその土地に空手的な格闘術(手=ティー)を手ほどきした可能性があります。

②地方役人の首里上り
尚真王の中央集権化で、地方の按司たちは首里に居を移し、領地には按司掟(地頭代)を置きました(按司以下の役職も同様)。これらの地方役人(地元民)は正月儀礼に首里に参上する慣わしがありましたが、この機会をとらえて、空手的な格闘術が地方に伝わった可能性があります。

③師範学校卒業の先生による空手教授
1905年から空手が師範学校の正課として取り入れられましたが、それ以前から非正規に空手指導が行われていたとする説があります。1905年以前に師範学校を卒業して地方の学校の先生となり、そこで学校のカリキュラム外で生徒たちに空手を教えた可能性があります。

あくまで可能性です。どなたかじっくりと研究してみませんか?

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