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カノジョ教科書広げてるときの沖縄そばの思い出|Report

前回は清明祭(墓参り)のときに那覇に行く機会があったという話でしたが、今回は学校の教科書を買うために街に行って食べた沖縄そばの味です。戦前から戦後しばらくまで、そばはまさに憧れの外食だったわけです。

無題

買い求めた教科書を風呂敷に包んで肩にかけニ、三名で探し求めたのが「ソバ屋」であった。豚肉がニ切れ程のっかったソバ一杯(五銭)を昼食にたべるのが所定のコースであった。この世にこれ以上の旨い食べ物があるだろうかと、感嘆しおいしいその味に舌鼓を打った。その味は六十年を経た今でも強く私の印象に残っている。
往復四〇km(一〇里)の路程をはだしによる徒歩で疲れるのも忘れ平良町まで行ったのも、まさにソバ一杯に魅いられたからである。

名護の本屋とそばの味

<前略>教科書を買ったあとは大体いつも昼めしどきで、名護の街はそばのにおいが立ち込めていた。これが何ともいいにおいだった。風呂敷包みを手にした小学生たちは、まるで引きずられるように一挙にそば屋に押しかけた。当時の子供たちにとって、名護という地名はそばの代名詞だった。皆、わざわざ遠くまで歩いて本を買いに行ったのは、教科書よりもむしろ、こちらのほうが楽しみだったのだ。それが証拠に、そば代が四銭だったのは覚えているが、教科書代のほうは全く覚えていない。<後略>

前者は、『宮古島保良の土俗信仰』松川寛良著、平成7年2月の自費出版です。宮古島の平良の街にあった本屋で教科書を買い、そのあとにそば屋に行くことを楽しみにしていた学生時代の色鮮やかな思い出です。

後者は、自費出版ではありません。稲嶺一郎の自伝『稲嶺一郎回顧録 世界を舞台に』(昭和63年5月、沖縄タイムス社)です。稲嶺氏ほどの大物政治家でも、そばに夢膨らませながら本部村(現在は町)から名護まで往復したのです。

同じ本部出身者でも稲嶺氏とは逆向きのそばの思い出があります。名護に寄宿していて、本部の渡久地に帰省したときに食べた懐かしのそばの味です。稲嶺氏が1905年生まれ、この引用文を書いた中真靖郎という方は、沖縄県立第三中学校(今の県立名護高校)の12期生ですから、おそらく1925年頃の生まれで、二人の間にはおよそ20年の差があります。この間に本部のそばが格段に旨くなったというわけではなく、単に味覚の個人差なのでしょうね。アオハルです。

六.小遣い銭のこと

あの頃名護から渡久地までのバス賃はたしか四十銭ぐらいであった。夏休みなど一、二年生の頃はちゃーんとバスを利用してわきめもふらず帰省したものだが、三年生あたりからジンブンが出てバス賃をより有効に使うために伊豆味経由渡久地までの十六キロの道のりを歩くようになった。緑豊かな山原路は風も涼しくのんびり歩くのも楽しいものであった。
さて、渡久地に着くと早速十銭そばを二杯食べる。その為に歩いてきたのだ。これがバス賃有効利用のいぢらしい姿なのであった。あの頃の食物で中学生にとってはそばにまさる物はなかった。バス賃四十銭引くそば代二十銭、二十銭が浮いた。

『沖縄県立第三中学校12期生回想録 友垣』(平成13年2月、自費出版)


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