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雑談から整理したある出稼ぎ日系人の肖像|Field-note

日本に出稼ぎに来て、沖縄で生活していたブラジル国サンパウロ市サン・マテウス地区出身の女性。彼女との2001年頃の会話のなかから、日系人の生活の断片を切り取ってみました。


家族構成

  • 父(移民一世、中城村出身、次男)は戦後、家族とともにブラジルに移住。サンパウロ南に位置するプレゼンチプレゼンション(?)にて農業に従事する。

  • 話者が5歳のときにサンパウロに移転。以後、父の兄弟の事業との関連でズボンの仕立て屋を営む。最初は流れ作業のうち、ポケット取付を専門に行っていたが、次第に全過程を家内製手工業的に受け持つようになる。作業場は屋敷内に設けられ、労働力はブラジル人が多い。

  • 父は現在は引退している。家族に日本人以外の血が混じることを嫌がる。

  • 母は移民二世。親は中城村出身。ポルトガル語に加え、沖縄方言をしゃべる。現在、サン・マテウス地区の沖縄県人会の会長をつとめる。

  • 他に兄と妹がブラジルにいる。

父方の親族

  • 父の兄(長男)は服飾業(ジーンズ専門)に関わる実業家。親戚筋に同じ服飾業が多くその元締め的存在である。新規開業するときは意図的にサンパウロ以外の街に展開させている。

  • その伯父の長女は日系人と結婚したが、家族が日蓮宗系の宗教に属していたことが理由で、のちに離婚した。

  • 伯父は父とは異なり、子どもの結婚相手については日系人にはこだわらない。いとこがブラジル人女性と結婚したが、働き者だったため周囲に認められた。

母方の親族

  • 母の父と夫の母方の祖父が兄弟という間柄。

  • 母の長兄はブラジル人と結婚し、勘当された。普通は分家するときは実家の近くが選ばれるが(商売上の戦略がある場合は除く)、長兄は実家から離れた仮小屋のような家に住み、貧乏暮らしを送っていた。孫ができてからは両親の考えも緩められた。

日系人の生活様式

  • ブラジルの日系社会でカラオケが大流行した。出稼ぎの帰りにハード機器を買うケースや日本の親戚からディスクを送ってもらうケースが多い。歌は日本の演歌や歌謡曲が中心で、民謡なども歌われる。

  • サンパウロ市内には地区ごとに県人会館が点在している。各地区では婦人会や青年会などが組織され、会館で活動している。会館では一世などの年輩者が、沖縄及び日本の踊りや文化を若い世代にレクチャーすることもある。

  • 会館は有力者による寄付を中心とした資金で建設され、各戸が納める月会費で運営されていた。

  • 日系のラジオ局があり、また日本アニメもブラジルではよく放送されていたため、日本語に触れる機会はあった。

これまでの職歴

  • 沖縄に定住する前には、叔父のいる静岡県御殿場市でコンピューター部品工場に2年間勤めていた。日本語はそれほど上達しなかったが、月給20万円ほど稼いでいた。

  • 沖縄の親戚を訪ねたときに10年弱ぶりで、同じブラジル出身のAに再会し、結婚にいたる。結婚後はしばらく仕事はしなかった。

  • 結婚後の職歴として、ブラジル出身者の家政婦を日替わりで行っていた(週5日)。そのうちのひとつが米軍将校に嫁いだブラジル人の家庭だった。キャンプキンザー内の高級住宅で、米軍のぜいたくな暮らしぶりを目の当たりにした。

  • その後、ブラジル出身者のつてをたどりオキコパンの工場に勤務した。

  • 最近までクリーニング店で働いていた。職はこれまで5~6職種くらい経験した。

日系人の集まり

  • 以前は与那原町にブラジル人を中心とした日系人の集まりがあり、よく顔を出していた。Bという人がブラジル日系人と結婚していて、支援グループを組織していた。会場は自宅で、運営費用も自前だった。ポルトガル語の会報を出していた。今は沖縄県から静岡県に移転したが、同じようなボランティア活動を行っているらしい。

  • 宜野湾市役所近くにセブンスデイアドベンチストの教会があり、よくミサに出席している。他に3名のブラジル出身者が来ており、情報交換をする。

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