“余白”がない、小学校の日常。〜1学期を振り返って思うこと〜/親子で通う小学校⑰
短すぎる休み時間
1学期の3か月間、珍獣(兄)に付き添う形で小学校に通った。
わたしたち親子が過ごしているのは、特別支援級だけれど
学級の別を問わず、学校全体に関して強く感じたことの1つは
とにかく「忙しすぎる」ということ。
子どもたちも、先生たちも、みんな。
まず何と言っても、休み時間が少ない。
かつ、短い。
わたしが小学生だった約30年前よりも、確実に減っている。
日々の時間割の中で、最も長い休み時間は
2時間目と3時間目の間に設けられた『20分休み』。
文字通り20分間、校庭に出ることもできて、比較的自由に遊べるものの
いや…その…
『20分』て。
『20分』て。( ゚д゚)
職種や勤め先にもよるだろうけれど、社会人の方がトータルでもっと休んでいるのではないだろうか…。
わたしが小学生だった頃も、同じタイミングで20分休みがあった。
ただ、確か昼休みが1時間くらいあったし、放課後も自由に遊べた。
でも今の小学校では、昼休みも20分弱しかない。
しかも、20分休みにしても昼休みにしても
前の授業や給食の後片付けが長引いたりして、実質10〜15分になってしまう場合が多々ある。
更に驚くことには、そんな超貴重な20分休みや昼休みが
日によっては省略されてしまうのだ!!( ゚д゚)ガーン
例えば午後の授業後に、上級生の委員会活動や何か特別な行事がある場合
20分休みがまるまるカットされ、給食までの時程がとにかく『巻き』で進行する。
そういう日の慌ただしさといったら、もう、言葉で表現できない。
1年生の春から「5時間目」までが基本
休み時間にフォーカスしてきたが、そもそも総授業時間が長過ぎると思う。
わたしは珍獣(兄)の入学前、「1年生の場合は『4時間授業+給食』が基本で、週1日くらい5時間目があるんだろうな〜」くらいに考えていた。
何しろ、通っていたのが保育園にしても幼稚園にしても
つい最近まで、1日の大半を遊んで暮らしていたひとたちなのだ。
『授業=勉強』が中心の日常に、いきなり順応できるわけがなく
徐々に慣らしていくのだろうとばかり思っていた。
ところがどっこい!!( ゚д゚)
入学して1か月も経たないうちに、5時間授業✕週4日という過密スケジュールがスタート( ゚д゚)
これには本当に驚いた。
支援級の先生たちは、どうすれば子どもたちがそれぞれの学びに集中できるか、いつも工夫してくれているけれど
そもそもの、スケジュール設定に無理があるように思う。
過密すぎて、特に1年生の子たちが集中できる範囲を超えている。
ちなみに珍獣(兄)の場合、率直に「疲れた」「もう帰りたい」などと学校にいる間に連呼したり( ゚д゚)
帰宅後に家で荒れ狂い、妹のオケちゃんやわたし、物に当たり散らしたりするなど( ゚д゚)
傍から見て明らかに、彼の許容量をオーバーしている。
そのため彼の希望に応じて、朝の登校時間をずらし、登校日数も週3〜4日程度に抑えて様子を見ている。
忙しすぎる日常の先に、危惧されること
忙しすぎる日々の先に、危惧されることは何だろうか。
疲労が原因で、身体面に不調をきたすおそれはもちろんのことだけれど
わたしにはそれと同じか、もしくはそれ以上に気がかりなことがある。
子どもたちが、自分の心の声に耳を傾けたり
自分の頭で考えたりする機会を、失ってしまうかもしれない…という心配だ。
心の声に、素直でいること。
自分の頭で考え、行動すること。
それらの積み重ねこそが、自分らしい創造的な人生を送るための原動力になる。
40年近く生きてきた今、そう実感している。
でも、自分の意志とは関係のない『やるべきこと』に、常に追われていたり
自分自身の行動にも関わらず、主導権を持てない時間が長過ぎたりすると
心の声を聞き、自分の頭で考える余地がなくなってしまう。
そんな日々にどっぷり浸かった子どもたちが、大人になったとき
果たして自分の人生の舵取りができるのだろうか?
教育課程は、子どもたちに生きる力を身につけてもらうための“手段”であるはず。
学校側がもし、それをこなすことに躍起になって、本来の目的を見失っているのだとしたら
本末転倒と言わざるを得ない。
学習指導要領はあくまで“目安”
といっても、問題の大元は教育課程というより、文部科学省が定める学習指導要領なのだろう。
教育課程は、学習指導要領に基づいて学校ごとに組まれるカリキュラム。
現行の学習指導要領が、あまりに細かく授業の内容や時間数を定めているから
教育課程もキチキチに組まれてしまうのかもしれない。
ただ、法的拘束力を持つとはいえ、学習指導要領はあくまで『指標』に過ぎない。
すべてそれに則る必要はなく、学校ごとの考え方や事情に応じて、柔軟に教育課程を組んでいいはずだ。
つまるところ、公立であっても個々の学校が意志を持ち
『子どもたちにとって本当に意義のある存在になる』という覚悟を持つことが、求められている気がする。
…なんて、本音を長々書いてしまったけれど
こんな思いを、子どもたちの育ちを見守る“仲間”として
どうしたらカドを立てずに、少しずつ小学校に伝えられるかな…。
わたしの夏休みの課題だ。
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