LGBTQ当事者なのにレインボーフラッグを「見たくない」②
■第2話
私はゲイだが、性的マイノリティの社会運動を象徴するレインボーフラッグが嫌いだ。なぜか「見たくない」のである。
いったい、何が嫌なのか、その理由を見つめる旅に出かけようと思う。その前に、「いやだ」という感情と、もうちょっと丁寧に向き合ってみたい。
私がレインボーフラッグを目にした時、まず脳裏に浮かび上がる言葉は「対岸」である。つまり、「(こちらではない)向こう側の人たち」というイメージである。
性的マイノリティのパレードを、街や報道で見たことがある人もいるだろう。試しにネットで「レインボーパレード」と調べてみたら、2022年11月にNHK沖縄放送局が次のようなニュースを発信していた。全文を引用しよう。
レインボーパレードを巡るニュースは、概ね「政治的文脈」で語られることが多い。このNHKニュースもそうだ。最後の高倉氏が語るように、LGBTQ+の問題は「理解が広」がるよう行動すべきものであり、「啓発」するべきものという根本思想が横たわっている。
こうしたパレードの象徴的アイテムが、虹色の旗なのだ。練り歩く人が掲げるだけではなく、NHKニュースによれば、沿道にいる「理解や支援の気持ちを表す人たち」も、虹色の旗を振る。つまり、「性的マイノリティをもっと理解してください」という当事者側だけでなく、「性的マイノリティを理解し、支援しています」という非当事者側も使う。両者をつなぐことを企図する政治的立場への帰属を端的に示すものとして、この旗が機能しているということだ。
ここで重要な注意点を。あえて「政治的」という言葉を使ったが、別に自民党とか立憲民主党とか、そうした政党の文脈に寄せたいわけではない。政治は、国会や政党で語られる、パブリックな職業政治家だけのものではない。むしろ、個人が「善く生きる」ことについて考えるとき、その選択はどうしても政治的にならざるを得ないというのが私の持論である。例えば「環境のために」と紙ストローを選ぶことは「地球温暖化はデマだ」と訴える集団に同意せず、プラスチックストローを選ばなかったという意味で政治的な行為だし、スタバに通う行為も「巨大資本に課金して資本主義を強化している」と誰かから批判される余地がある意味で政治的である。
さて、話を元に戻そう。虹色の旗は、単に「LGBTQ+を象徴する」という意味以上のものを含んでいる。例えばそれは、「理解を広げよう(=啓発しよう)」という政治的意味である。他にも「性的マイノリティをエンパワーする私でいるとテンションが上がる」という非当事者目線のファッション性を備えている可能性もあるし、「同じ社会に暮らす仲間として、空間を共にするのが楽しい」という”絆の符牒”として機能している面もあるだろう。
かように私は、レインボーフラッグを見た時、「6色の旗だ」という意味以上の”何か”に考えを巡らせてしまう。そして、その上で「私の物語ではなく、対岸の話だ」というふうに、この立場と反射的に距離を置いてしまう。それは、端的に言えば「(関わるべきかもしれないが)関わりたくない」という感情である。理解を求める当事者であるにも関わらず、どうして、関わりたくないのだろうか。一言で言い切れないぼんやりとした何かが、そこにある。(続く)
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