ポピュリズムとは何か
ポピュリズムと聞けば多くの人は何を思い浮かべるだろうか。多くの人はトランプ前大統領を思い浮かべるのではないだろうか。
日本経済新聞によるとポピュリズムとは
であると書かれている。多くの人が考えるポピュリズムについて上記の日本経済新聞の説明を参考にして簡潔に述べるとすれば「既存の政治に対する不満や現状への閉塞感の矛先を特定の人種などの少数者に向け、彼らに対する差別を煽る排外主義を掲げて大衆を扇動する政治思想や活動」となるであろう。
しかし私はこれらの説明はポピュリズムの一例であるとすることは正しいとは思うものの、ポピュリズムの全体像を表すことができるとすることは間違いだと考えている。
先ほどの日本経済新聞の説明には次のようにも書かれていた。
上記の説明のようにポピュリズムには「バラマキ型」の政治思想や活動も存在する。この説明では「バラマキ型」は左派のポピュリズムと書かれており、日本で例えるのであればれいわ新選組とその代表である山本太郎氏が典型例であろう。
だが「バラマキ型」のポピュリズムは左派だけのものではない。右派も「バラマキ型」のポピュリズムに走りやすい。
日本では上記のように右派の議員であった安倍晋三元首相の遺志を継いだ右派の議員が「責任ある積極財政を推進する議員連盟」を立ち上げている。「責任ある」という修飾語が付いてはいるが、ただでさえ政府支出が増えている中で歳出改革ではなく積極財政を掲げるとは単なる集票目的だとしか言えないだろう。
ここからが本題である。これまでの説明のように明らかな左派や右派が「バラマキ型」のポピュリズムに走ることは理解しやすいとは思うのだが、左派とも右派とも言えないような一見するとまともに見えてしまいそうな政治思想や活動をしている人たちが「バラマキ型」のポピュリズムに走っていることは案外認識されていないのである。
以下の記事を見てほしい。
この記事ではマスクやワクチンに対して反対している人たちを誹謗している。この手の主張をするタイプの人たちは明らかな左派や右派とは一般的には認識されていないだろう。
そして、この記事を書いている加藤文宏氏は以下の記事も書いている。
この記事には「緊縮というものはどこまでも他人事であり」と書かれている。この認識は間違いである。緊縮が他人事と言うがバラマキの財源は主に税金であり、他人の金である。他人の金を使うバラマキを主張する反緊縮の方が「他人の金であり自身の財布を痛めるわけではないからとにかくばら撒け」ということなのであるから他人事だろう。
また、
上記の引用のように「地方切り捨て論」に腹が立つので「都会も切り捨てられるかもしれないぞ」とミラーリングしたくなる気持ちもわからないではないが、都会には限界集落と違って多額の費用をかけてまで救う合理性があるということが理解できていない。限界集落には多額の費用をかけてインフラを整えたとしてもほとんど経済的メリットがないが、都会には多額の費用をかけてインフラを整えれば大きな経済的メリットがある。そもそも都会は常日頃から震災をはじめとした有事の被災リスクに備えて地方よりも耐震工事などの防災対策はしっかりと行われている。何事も費用対効果が重要なのであって、その点を無視した主張はなかなか通らないだろう。もちろん費用対効果が全てだというわけではなく、費用対効果が少しでも悪ければ切り捨てるべきだというわけではない。しかし限界集落レベルだと費用対効果が悪すぎるために切り捨てざるをえないのである。リソースが限られる中何事も無い袖は振れないのである。
加藤文宏氏に関してはさらに掘り下げる。
加藤文宏氏は先程引用した彼の1つ目の記事のように「反マスク」「反ワクチン」とマスクやワクチンに対して反対している人たちを誹謗して、そのような人たちに対してパターナリスティックな態度をとっている。しかし、「地方切り捨て論」に対しては2つ目の記事の米山隆一氏のような主張をする政治家のパターナリスティックな態度に反発している。これはダブルスタンダードだろう。地方の有権者の心情に過剰に寄り添っていれば改革などできず、そして将来地方に残って困るのはその人たちである。いや、高齢者に限っていえば自身らが生きている時さえ満足な生活が過ごせればよいのだから何十年何百年後のことなど知ったことがないのかもしれない。そうなのであれば彼ら自身だけで考えてみれば合理的だとは言えるのかもしれない。
また、「米山隆一は自分の選挙区で同じことを言えるのか。選挙公約の一番目に入れられるのか」という言葉を引用して、被災当事者の心情に寄り添わない米山隆一氏を批判するのであれば、親族がコロナワクチン接種後に亡くなって苦しんでいる遺族に対して「反ワクチンは陰謀論だ。ニセ科学だ」と説教してきてはいかがだろうか。コロナワクチンに対して反対している人たちを誹謗している人が当事者の心情に寄り添うべきだと主張している方が米山隆一氏よりもよっぽど"気味が悪い"だろう。
他には、「人はパンのみにて生くるものにあらず、だ。強制に限らず、半ば強制された生活環境の変化でも、社会的、経済的な難題だけでなく精神的な困難を突きつけてくるものだ。」と述べているが、マスクなどのコロナ対策に関しても同じことが言えるだろう。彼の「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉を文字って言えば「人はコロナ対策のみにて生くるものにあらず」と言えるだろう。彼は自身の好悪によってスタンスを180度変えているのに対してその点をはっきりと表明しないで他人を誹謗していることを恥じるべきだろう。
最後に掘り下げた話の最初の話と内容が被るが「人口が減少した地域をどうすべきか。真摯に議論することまで暴論とする気は毛頭ない。被災者と自治体が落ち着いたとき、行く末をしっかり考えるだろうから、まずは任せればよい。気味が悪いのは、当事者をほったらかしにして口角泡を飛ばす勢いで放棄と移住を語る神経だ。」と述べていることに対しては、コロナ対策に反対している当事者をほったらかしにして口角泡を飛ばす勢いでコロナ対策強化を語る神経の方が"気味が悪い"だろう。
まとめとして左派、右派、そしてそのどちらとも言えない人たち、つまりさまざまな人たちが「バラマキ型」のポピュリズムに走っており、これがポピュリズムの全体像を表すことができると私は考えている。
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