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小説「会計年度任用職員の憂鬱」③#創作大賞2024

 木下が去ってから、本格的に忙しくなった。新人二人も、夜遅くまで残業しているようで、最近は死んだ魚のような目をして業務に取り組んでいる。あまり睡眠時間もとれていないらしく、目にクマが出来、日中はぼうっとしている事が多い様に感じられた。
 美幸も例外ではなく、ここに赴任してきて初めて、残業をするようになった。
 最初の方は、美幸の見慣れない状況を見て、課長、課長補佐、係長の佐藤など多くの課の職員が、
「大丈夫ですか。」
と労いの言葉をかけてくれたが、それも最初のうちだけであった。残業するのが、当たり前になってくると、何も声をかけられなくなっていった。
 最初の残業時間は、一時間ほどであったが、段々と二時間、三時間と時間が増えていった。場合によっては、係の職員はおろか係長、課長よりも遅く、残る事があった。
 美幸は、パソコン操作が苦手であったため、木下がこなしていた時間よりも幾分時間がかかった。改めて、木下はこの時間がかかる面倒くさい業務を捌きながら、他に二つの業務を抱えていたのかと思うと、彼女に対して尊敬の念を持ち、頭が上がらなかった。
 
 日に日に、残業と業務、正規職員たちの態度により、美幸の不満が募っていた。
 その鬱憤は、職場ではなく、家庭に持ち込まれた。例年なら、定時で帰れていたので、ゆとりをもって、家事などをすることが出来た。精神的にも追い込まれたことはなかった。
 残業が引き金で、段々と少しの事でも怒りを覚えるようになり、心に余裕がなくなっていった。夜遅く帰宅する事が増えたので、料理をする余裕もなく、スーパーの弁当、ファーストフードなど外で買ってきたものが増えていった。
 最初の方は、旦那と息子たちも珍しがって喜んでいたが、毎日続くと「またか」という不満をぶつけられるようになった。
 とうとう夫もしびれを切らしたようで、
「そろそろ、料理したものを出してくれないか。毎日こういうものだと、体に悪いし。たまにならいいが、こう立て続けになると、嫌になるよ。」
 美幸の中での何かが切れ、涙が溢れてきた。その顔を向けたまま、
「私だって分かってるわよ。帰れるなら早く帰りたいわよ。それだったら、あなたが作ればいいじゃない。」
 夫もそれ以上は、何も言ってこなかった。この日を境に、仲が良かった夫婦関係が悪化し、徐々に険悪になっていった。自分の中では、家族に八つ当たりしては駄目だと分かっている筈なのに、度々きつく当たってしまった。
 終いには、家族の方が愛想をつかした様で、腫れ物に触るかの扱いになっていき、一人孤立していった。鬱憤を誰にも言えなかったので、毎日一人で涙を流していた。家だけでなく、職場でも一歩間違えると、泣き出しそうであった。
 何故皆私の気持ちを分かってくれないのかと、泣き寝入りする事が増えた。その布団の中で、度々翌日の朝を迎えるのを怯えていた。
 本当に毎日が憂鬱であった。

 木下がいなくなってから、幾ばくの時間が経ち、忙しさに追われている最中、ある事件がおきた。

 美幸は、メール処理の他に、物品購入、支払い処理の業務を行なっていた。この二つの業務は、メール処理の煩わしさに比べると、幾分ましであった。会計年度任用職員は自身の名で、物品購入、支払い処理を起案する事が出来ないので、後は正規職員が数字を入力するだけでよい様に、下地を作るまでの業務を行なっていた。その最終業務は、係長の佐藤が行なうことになっていた。
 美幸は、きっちりしていたので、いつ業務を行なったかを事細かにメモしていた。ふと、メモを見ていると、支払い期限が過ぎているものを発見した。
 美幸の従来の業務に、課で決裁をとった支払い関係の起案を、会計課に持っていくものがあった。去年までは、支払い業務をしたことが無かったので、内容は気にもとめずにいた。今は、木下がいなくなってから、支払い処理も行なっていたので、自分が捌いたものは鮮明に覚えていた。対象の起案を佐藤からまだ渡してもらっていなかったので、些か不安に思い居ても立ってもいられず、声をかけた。
「係長。お忙しいところ、すいません、私が以前処理したものは起案して、決裁とって頂けましたか。」
 佐藤に確認すると、
「何の事ですか。」
とどこか他人事の様な、きょとんとした表情を向けてきた。
 事情を説明すると、顔色を変え、自身の起案保管箱を探し始めた。
 机の状態で、人の心理状況が分かると言われるが、佐藤の机周辺を見ているとその通りだといえる。佐藤の机周辺は、いつもぐちゃぐちゃで、起案保管箱も書類で溢れかえっていた。
 忙し過ぎてそれ所でないのは分かるが、女性ならもう少し整理整頓をし、机を綺麗な状態にしておいて欲しいと思ったが、その気持ちは言わないでそっと胸に収めておいた。
 ようやく、積み上がった書類からお目当てのものを見つけたらしかった。
 支払い期限を見ると、とうに過ぎていた。期日までに支払い処理を行う必要があったのに、係長の佐藤は、自分の保管箱に入れたまま忘れていた様だ。佐藤は、慌てた様子でおろおろしていた。
 しばし時間が経った後、罰の悪そうな顔をして、
「すいません。三条補佐よろしいでしょうか。」 
と課長補佐の三条に相談した。
 言い訳がましく、佐藤は三条に弁解していた。あるまじきことに、美幸に責任を擦り付けようとした。横で聞いていた内容も、明らかに美幸が悪いような言い分であった。流石の美幸もその態度に、カチンと来たので、日頃の鬱憤も溜まっていた事もあって、佐藤に強い口調で抗議した。
 そうすると、目に涙を浮かべて、しまいには声を上げながら泣き出した。
  美幸は面食らって、佐藤の横顔を見ていた。
 何事かと課のみんなは冷たい目で、美幸の方を見ていた。事情を知らぬ者からすると、明らかにあちらが悪くても、こちらが悪くみえた。
 佐藤は、長年ここに勤めてきただけあって、修羅場のくぐり方を心得ている様であった。
 人前で泣くとは、何と卑怯な手口なんだと腹立たしく思った。
 美幸は、頭を抱えた。その場にいてもたってもいられなくなったので、
「泣きたいのはこっちなのよ。」
と目に涙を浮かべながら、廊下に飛び出した。
 美幸としてもこのまま帰りたかったが、仕事、荷物を全てほっぽり出して、帰るわけにもいかず、少し庁内を歩いて、気持ちを落ち着かせた後、課に戻った。
 美幸が戻ってくると、何人かの職員は、こちらを一瞥するだけで何も言わなかった。隣の係にいる常識人の朝日だけが、こちらを見て、わかるよという顔で頷いていた。
 出ていった原因となった、とうの本人である佐藤を見やると、先程泣いた事は嘘の様に、ケロッとした顔で業務に取り組んでいた。
 美幸は、その変わり身の早さに開いた口が塞がらなかった。

 美幸は、先日あった事をどうしても誰かに言いたかったので、月に一回程度開催する会計年度任用職員のお昼のランチタイムで、ぶちまける事にした。美幸にとっては、唯一と言ってもいいはけ口であった。
 他の課にいる会計年度職員は、美幸と同世代が多く、立場も同じ事もあって、共感出来る事が多く、皆仲が良かった。ただ、県庁の中でも花形である総務課、秘書課、人事課にいる会計年度任用職員は、どこかお高い性格をしていて、鼻につく言動をちらつかせていたので、心底嫌いであった。美幸は、彼女らの態度を見て、いつも「立場的には、自分と同じだろう」がととても腹が立った。

 大体、お昼に集まるメンバーは決まっていた。色んな店を知っているメンバーに店のチョイスを任せていた。いつも正規職員が来ない場所を選んでくれたので、有難かった。
 いつもの如く、おばちゃん特有の他愛もない話で盛り上がった後、先日あった出来事を話した。
「それって酷くない。森さんは、何も悪くないわ。」
「そうよ。そうよ。酷いわ。人のせいにするなんて、その人最低だわ。」
「泣いた後、ケロッとしているのが、とても恐ろしいわ。もしかして、サイコパスなのかしら」
と擁護をしてくれたので、幾分精神的に楽になった。
 それを皮切りに、各々が所属している課の日頃の不満、鬱憤を話し出した。美幸だけでなく、皆苦労している様であった。
「あら、もうこんな時間。」
「早いわね。今日一番盛り上がったのにね。」
 話が盛り上がり始めた所で、休憩終了五分前になった。皆、席を立つ時は、足取り重く、戻りたくない気持ちで、各々の戦場に戻った。

 佐藤が引き起こした事件は、のちのち大きな問題になった。
 支払い期日に遅れたため、延滞金を支払う必要になった。こちら側の過失であったので、延滞金を支払う必要があるとの事だった。面倒くさい事に、高々数百円のものを払うのに、議会承認がいるとの事だった。
 佐藤は、最後の最後まで美幸のせいにしようと思っていたらしかったが、美幸が持っていた証拠をちらつかせると、観念した様で諦めた。証拠が無ければ、美幸に罪を全て擦り付ける様だったので、この時程自分のきっちりとした性格に感謝した事は無かった。
 佐藤は、対応に追われ、一人あくせく走り回っていた。木下がいなくなり、普段にも増して、忙しいにも関わらず、更にその対応で仕事を増やし、自分で自分の首を絞めている様であった。質が悪いことに、自分がしでかした事に対して、罪悪感がなく、「何故この私が」と常に被害者意識を持っているように感じられた。
 佐藤が一人必要以上に忙しくなる事で、係のものも被害を被った。佐藤は、二人の新入職員が起案した書類を捌く速度が、いつにも増して遅くなったので、その書類の多くは、締め切りの直前に課長補佐、課長に届けられた。
可哀そうな事に二人の新入職員は、
「何故締め切り直前になって、課長、補佐の所に、この書類が届くのか。」
と度々叱責を受けていた。
 美幸はその姿を見て、木下がいればなと、いなくなった存在に思いを馳せると、自然とため息が出た。

 何とか、佐藤の事案は、企画管理室の担当職員三井の計らいで事なきを得た様であった。三井は、色々な課を走り回って、対応をお願いしていた。
 佐藤の起案した書類が、三井の手に渡ると、
「三井さん、忙しそうですね。」
とどこか他人事の様な発言をした。
 美幸は、その態度を見て、怒る気にもなれず、思わず呆れてしまった。代わりに、三井を見かけると、お礼と労いの言葉をかけておいた。
 佐藤はこの事案が、全て片付いた後も、謝ってこなかった。今でも被害者意識を持っているらしかった。
 美幸は、一発佐藤のおかっぱ頭にチョップをかましてやりたい気持ちに駆られたが、また泣くと困るのでやめておいた。

 立て込んだ忙しさから、従来の忙しさに戻り始めた頃合いに、希望の光が差し込んできた。
「ちょっと、皆さん良いかな。」
 課長から、美幸の係に、十月から新たに人員補充がされる事を伝えられた。普段どんよりして、薄暗い課の中で、美幸の係だけが、明るく光った様な気分になった。
 その内容を聞いて、佐藤が一番喜んだ顔をしていた。美幸も胸をなでおろした。やっと、業務から解放されると思うと、どこかほっとした。

 入ってきたのは、今別府という十年目のベテランで、主査という役職であった。真面目そうな風貌で、いかにも公務員という見た目をしていた。見た目通り、真面目で、腰が低く、物腰の柔かい男であった。
 まともそうな人物が来て良かったと思い、心底安堵した。

 それと同時に、課長補佐が入れ替わりになった。今いた三条から鬼塚という女性に変わるという事だった。鬼塚は、県庁内で、一二を争うほどの問題児であると名高かった。その人物について、いい噂を聞いた事がなかった。会計年度任用職員の間でも、たびたび噂に上がるような女性であった。何でも、その人の影響で、何人も辞めたり、辞めさせられたりするらしかった。 名は体を表すと言われるように、かなりの暴君であるとの事だった。
 その名前を聞くと、先程まで希望の光に包まれていた係が、またどこか薄暗く曇った様に感じた。

 一難去ってまた一難というわけであった。

続き

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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