ご飯🍚無しでは…
イタリア🇮🇹好きが高じて、パスタ🍝作りはある種のライフワークとも言えるし、自分としてはそのバリエーションや文化的な物含めて実に好ましい食であるのは間違いない。
だが、実は何を隠そう私は根っからのご飯🍚党であるのだ。仮にイタリア🇮🇹に住んでもお米🌾無しでは生きていけない。それも日本米🇯🇵でないとダメ🙅♂️リゾットも本来あまり食べないし、そもそも食べ方も違う。この点はタイ🇹🇭などのアジア圏であれども同じだし、1994年の米騒動の時を知る私達はその点をしっかり認識しなければならないだろう。やれ不味いだ何だと、実に無礼な言葉が飛んだという事を…
そう、スタイルや食文化が異なるという事だ。
その国、その地域によって凡ゆるスタイルと文化が異なるので、否定の「ひ」の字などもってほか。
独断偏見かも知れないが、日本料理の基礎のひとつは米🌾
あるイギリス🇬🇧人の投稿を目にした。フランス🇫🇷の某雑誌のネット記事なので、目にした人もいるかも知れないが、その中で彼はこう述べた
華やかなデザイン的な面、そしてルールを含めた格式的な面。否定ではないにしろ、彼の目には些か不条理な面もある様に映っている様だ。
だが彼の主張について、個人的には意義がある。
なぜ米🌾、すなわちご飯🍚について述べていないのか…
懐石や鮨🍣というのは確かに日本食のシンボリックな物であり、目で楽しむなどの要素もあるし、また食材其の物を味わう考えから実にシンプルでもある。だが、これのみで日本食を過大評価というのはいかがなものか?
ご飯に繋がる料理の数々
懐石料理の場合ご飯も出てくるが、コースの最後に締める形が多い。(勿論料理ひとつひとつに使う事もあるけど)それだけ日本料理にはご飯🍚の存在は欠かせない。これは日本料理、日本食という点で見れば、より幅広い面に於いて重要だと思うはず。
というのは、私達が日々口にしている料理の中で、実に多くがお米🌾🍚を食べる事に繋がっているからだ。つまり「おかず」はご飯を多く食べる為、といも言える程相性が良い。いや相性良くなる様に発展してきたのではなかろうか?欧米の食の場合、この点は少し異なっている様に思う。イタリア🇮🇹でもパン🍞は必ずと言えるほど食卓に出されていたけど、ひとつの料理はひとつの料理として存在していて、その際パンを食べるにしても、メインはそちらの料理となるのでは?と感じる。少なくともお呼ばれしたワイナリーでは大抵がその形だった。
つまり彼らのパン🍞と私達のご飯🍚の位置付けは少し違うのではないか?日本では、確かに現在は様々なスタイルもあるし、皆がご飯を口にするとは限らない。私の知り合いでもそんな家庭があるし、その辺りは自由だし尊重されるべきだ。
しかしながら、かくの如く発展してきた日本の食については、味付けやスタイルを鑑みるに、ご飯をグイッと食べる為の品々が多い。そして、それは時にお酒のお供にもなるし、料理文化の形の骨格のひとつとなっているのではないだろうか。
と、勝手な事を言っている訳だが、先述の英国人ライターの主張とは主題としては少々異なると思われるかも知れないが、僕はかくの如き観点から、懐石料理の在り方や形が日本料理・日本食のそれではないと言いたいのだ。これはイタリア🇮🇹料理にしても同じで、パスタ🍝やピッツァ🍕(ピザじゃない❗️)を見てイタリア料理の云々は言いたくないのと同じだ。フランス🇫🇷料理をコースで食べて、フランスの料理はこうだった、というのと同じだ。
根底にある要素を以て、発信したい
こんな主張先のライターには、家庭料理は別の話だ、と言われてしまうだろう。しかし、どの国の料理にもその根底と源流がある。それが歴史の中で発展展開して来た物である事は共通しているはずだ。懐石料理にしても、旬を味だけでなく美しさを求める事は間違いないけど、それぞれの料理の根底には長い歴史の中で日本の風土、もっと言えばその形成の中で様々な地域の素材が重なってできている。それが京都で茶道の発展と共に育って来たという事だ。
好き嫌いは個人の自由だ。しかし、綺麗だが味気ないとまで言うこのライターさんの主張はこの好き嫌いでしかないのではないか。もしライターとして発信するなら、まして日本に10年以上住んでいるのならば、もう少し日本料理・日本食に、日本人の食を考察してみてはいかがだろうか?彼の主張を読んでもまるでピンと来ないのは、内容が浅過ぎる様に些か残念でならないのです。クーリエにも同様の事を思ったなぁ…
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