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海外ツアーしていたドラマーが作業療法士になるまで(自己紹介)

1983年生まれ。レコード屋の息子。
レコード屋というのは、恰好つけた言い方で、実際はTSUTAYAとかGEO(ゲオ)みたいなCDやDVD(当時はビデオ)のレンタル・販売をする小さい店。だけど、格好つけてレコード屋と言っている。

かなりのド田舎で、当時はCDを販売する店が他になく、父が個性的なキャラクター(良く言ってファンキー、悪く言えばイカれた)だったこともあり、店は地元の音楽愛好家や楽器をやっている人達に重宝されていた。
中学3年生のある日、地元の楽器をやっているオジサン達が練習会をしていて、そこに父と遊びに行った。そして、その翌日には何故かドラムセットが家に置かれていた(ドラムをやっている人が貸してくれたのだ)。それから高校卒業まで、木造一軒家の雨戸を閉めただけの部屋で、ひたすらドラムを叩いた。近所迷惑以外の何ものでもない。

田舎すぎたことと、インターネットも普及していない当時、完全に勘違いした私は、プロドラマーになるべく、高校を卒業すると同時に東京の音楽専門学校に入学した。当時(今もあるのか知らないが)、新聞奨学生という制度があり、朝刊と夕刊の新聞配達をしながら入学金や授業料、生活費を賄い、専門学校で音楽を学んだ。2001年だった。上京するとき、午前5時の始発列車、田舎の駅に当時付き合っていた彼女が見送りに来たのを覚えている。

専門学校在籍中、当時流行していたミクスチャーロック(大体はロックとヒップホップのミックス)のバンドに加入した。これを仮にバンドAと呼ぶ。
たしか、練習スタジオにメンバー募集の貼り紙があり、そこに連絡したのだと思う。応募しようと思った動機は、ただただ「CDをリリースしているバンドだから」ということだった。今では考えられない。「CD出してる=スゲー!」である。
加入してみたら、なんだか不思議な言葉を使う怖い人達だった(10歳くらい年上だったか)。でも、何も知らない田舎っぺの私は、その音楽スタイルから、自分も「こわもて風」な見た目にならなければいけないと勘違いした。そう思い込んだし、バンドのメンバーからも「ダサい恰好はするな」と教育された。バンドのリーダーからはHIP HOPの文化やファッションを教え込まれ、気づいたときにはLAのTATOO STUDIOで左上腕に入れ墨を彫っていた(笑)。
このバンドは2008年まで続けた。TATOOを入れると、格段に社会生活がしづらくなるということも学んだ。

2008年にバンドAを脱退した私はmy spaceという当時(今もあるのか知らないが)流行っていた音源投稿サイトに自分の音源をアップし、新たなバンドを探していた。
ある日、そのサイトに私が高校生の頃から知っていたバンドから連絡があった(実家のレコード屋に、そのバンドのCDが置いてあったのだ)。
当然、私はすぐに面接に行った。そして、バンドのメンバーとスタジオに入ってセッションした。ハッキリ言って全然うまく演奏できなかった。なんとなく出来ると思っていたリズムが、知識と形だけのもので、実践ではまったく使い物にならなかった。簡単に言うと、私はとんでもなく未熟だった。だが、なぜか私はそのバンドのドラマーとして採用され、それから毎年、年に2回の全国ツアー(30ヶ所くらい)と、年に1回の海外ツアー(アメリカ、カナダの30ヶ所くらい、もしくはオーストラリア)を回るという年月を過ごすことになった。2013年まで。このバンドを仮にバンドBと呼ぶ。

バンドBはそこそこ人気があり、ツアーに出ると微々たる現金をもらえることもあったが、やっぱり「音楽だけで生活する」ということには全然ならなかった。
(それでも、その前にやっていたバンドAはお客さんを自分たちで呼ばなければならず、友達に「ライブに来てよ~」とメールしなければいけないことが大きなストレスになっていたので、それに比べればまだ良い方ではあったのだけれど。)
なので、生活費を稼ぐため、バイトはいろいろやった。出会い系のサクラ、電気工事士、ファミレスの厨房、リハーサルスタジオの店員、などなど。だけど、歳も20代後半になり、音楽をやっている以外の時間を「死んだような顔でやりたくない労働をしている自分」として過ごすことが、たまらなく嫌になってきた。
このままだと、人生の半分くらいの時間を死んだ顔で過ごすことになってしまう。そう考えた私は、音楽以外の時間もやりがいのある仕事をしようと思い、訪問入浴という介護の仕事を始めた。この精神は母親の遺伝子を引き継いでいると思う。

しかし、バイトにやりがいを求めてしまった結果なのか、年齢による体力的なことなのか(私はそのとき30歳になっていた)、バイトとドラムの練習を両立するのが、とんでもなくストレスになってきた。8:00~17:30まで肉体労働。19:00~21:00までドラムの練習という生活。
また、バンドBのメンバーは自分より全員15歳ほど年上で、練習のときは常に厳しいダメ出しをされた(ライブ中にダメ出しされることも常だったし、ステージから降ろされたこともある)。
その結果、私は完全に精神を病んだ。
もうドラムを叩くことに楽しみはなく、ただのアスリートのようになった。ライブをやってもギャラは出ず、あまり褒められもせず、ダメ出しは厳しかった。
私は、隠れてウイスキーを飲まないと演奏できないようになった。ステージドリングと称して、スターバックスのタンブラーにウイスキーを入れていた。

そして、私はドラムの練習をやめた。

高校生のときから、毎日かならず2時間はドラムの練習をしていた。東京に出てからは、家では練習できなかったので、電子ドラムも買ったが、「これはドラムじゃない。ドラムの音が録音されたオモチャ。これで練習していたら下手になる(ピアノとキーボードが別物であるように)」と思い、スタジオを借りて練習していた。今考えると練習スタジオに使った金額だけでも相当だ。
そして、「ドラム、もしくは音楽で生計を立てるという道は諦めよう!もう一度高校生に戻ったつもりで、やりたいことを探そう」と思った。そして、とにかく本を読んだ。ドストエフスキー、トルストイ、ディケンズ、村上春樹、夏目漱石、プラトン、アリストテレス。。自分はこれから何をすればいいのか。本を読みながら答えを探し続け、考え続けた。

結局、テレビで見たリハビリの仕事に興味を持ち、作業療法士の学校に行くことに決めた。
また新聞配達をすることも考えたが、学校の事務員さんの説得もあり、奨学金を借りて4年間、夜間部に通って学んだ。
久しぶりの勉強は楽しかった。解剖学、生理学、精神医学、神経内科学、心理学、手工芸などなど。30歳を過ぎて自分の身銭を切って学ぶオッサンと、高校卒業して親の金で入学してくる18歳とで、熱量が同じなわけがなかった。
結果、卒業式では最優秀成績者として賞金をもらった。

専門学校を卒業した私は、現在は地域の訪問看護ステーションで訪問リハビリの仕事をしている。20代のときに御座なりにしてきた社会の諸々を学びなおし、自分の内面に目を向け、酷使してきた身体をメンテナンスしながら日々を過ごしている。毎日たくさんの果物と野菜を摂取し、休みの日にはランニングをして、それ以外の時間はほぼ読書に費やしている。毎月、本を大量に購入する。

今でも朝は軽くスティックを握るようにしている。長年練習を積み重ねたせいか、まだドラムは叩ける。だけど、今はとにかく本の虫になっている。なぜ、こんなに本に夢中なのかは分からない。この読書にフォーカスした生活がどこへ向かうのか、どんな結果になるのか、別にどうにもならなくても構わない。今が人生で一番充実していると、自分が感じている。それで良い。だが、この先また何か起きるような期待も胸に感じている。また高校生のような精神状態に戻っている気がする。

まだまだ、人生これからだ。
というわけで、
つづく。

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