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ラーメン屋から覗いたワーキング・プア

どうも、しがないラーメン屋店員です。

今回のテーマは、'In-work poverty / working poor'(ワーキング・プア)。
イギリスでワーキング・プアとは、住居費を差し引いた所得が全国平均の60%以下である勤労者を指します。2022年には8人に1人の勤労者がワーキング・プアを経験しているというデータもあります。

ワーキング・プアの問題は、'ネオリベラリズム(新自由主義)'という、個人や市場に政府が介入せず、自由市場・自由貿易・民営化を推進しようという思想に遡ります。ネオリベラリズムの個人の自由を尊重する考え方は、'貧困は個人の責任に基づく問題であり、自助努力で貧困から抜け出すことができる'という思想へと繋がります。さらに、イギリスのような福祉国家では、'福祉国家は貧しい人への支援が過剰なために、労働や自立への意欲を削いでしまっている'との批判が広まります。そのようにして、イギリスでは人々を就労させることで貧困から抜け出させよう、という動きが始まったのです。(この一連の流れはネオリベラリズムが最初に台頭したアメリカに由来しますが、今回は割愛します)

最も象徴的なのは、1990年代に台頭した'New Labour'です。これは、減税、公共サービスや投資に対する規制緩和など、ネオリベラリズムを政策決定に導入することを指示する労働党のメンバーを指しています。彼らは、貧困を社会全体で取り組むべき構造的不平等としてではなく、個人の責任に基づく問題として扱う立場を取りました。New Labourを率いたトニー・ブレア政権は2011年に、'Work Programme'というプログラムを開始します。これは、雇用されていない人々を就労させ、6ヶ月以上労働を持続させることを推進する目的で行われました。しかし、その結果は散々たるもので、初年度は97%の就労が失敗に終わりました(労働党は色々な国内メディアから大バッシングをくらっています)。

ネオリベラリズムの元で実施された就労を貧困の解決策とするという試みは、次の点で失敗しています。第一に、'貧困は個人の責任に帰する'という前提は、社会階層や資本主義の構造に由来する格差や不平等を度外視しています。例えば、あるデータを見れば、出身のエスニックグループにより所得格差が生まれるという事実は明らかです。バングラデシュ人の貧困率が65%なのに対し、白人系イギリス人は20%となっています。
第二に、勤労環境が整っていなければ、勤労をしていても貧困な人は存在し続けます。これが、所謂ワーキング・プアと呼ばれる人々です。週あたりの労働時間を明記せずに雇用契約を結ぶ'Zero Hour Contract'はその一因で、不安定な雇用関係の元で勤労せざるを得ない人々は貧困となりやすいです。特にブルーカラーの職種では、低賃金・重労働を強いられる場合もあります。

私の勤務先はまさに、ワーキング・プアの温床となりうる場所です。
独身の労働者が1年間で最低水準の生活をするのに£25,500の稼ぎが必要というデータを元に考えてみましょう。今回は、何年か勤務することで昇格する、勤務先のウェイターの最高時給£11.45で計算をします。

1年間で £25,500 ÷ £11.45 ≒ 2,227 時間働くとなると、
1ヶ月で 2,227 ÷ 12 ≒ 186 時間
1ヶ月を大体4週間とすると、186 ÷ 4 = 46 時間
毎日働くなら1日7時間、週休2日なら1日9時間は働かなければなりません。

イギリスの飲食店の多くは12.5%のサービス料を取り、通常はその料金は従業員で均等にシェアされるのですが、私の職場では全部トップのマネージャーにしか入りません。会社の説明では、経営が苦しいためらしいですが、これは法的に問題ではないのか、大変気になるところであります(いずれNoteで書こうかな)。同僚によると、もしサービス料が入れば、大体月に£1000くらいはお給料が増えるらしいので、だいぶ状況も変わると思います。

ラーメン屋での労働は、肉体的にかなりキツイです。
オープンからクローズまで11時間働いても、休憩は30分のみ。それ以外の時間は基本的に立ちっぱなしです。キッチンから呼ばれたらすぐに階段を駆け降りて、ラーメンの載った重いトレーを運びながら階段を上がります。激務の末、足を痛めてしまった同僚もいます。

これだけ働いても、ようやく最低水準の生活ができるくらいなのです。
労働のモチベーションもなく、気晴らしはちょっと傲慢な顧客の悪口を溢すくらい。'ワーキング・プア'という言葉が可視化される世界が、このラーメン屋なのです。

今の私には、自己を表現したり自分のできることを還元するツールとして勤労を用いることのできる身分が、随分贅沢であるように感じられます。そして、私自身が、労働をツライものとして受け取っている同僚を、ある種の経験として観察する身分であることも。
先日、私を訪ねてくれた大学の同期と議論した際に、'働くことは自己実現や社会貢献のための手段'という前提が当たり前に共有されていることに気がつきました。これは、'働くことは自己満足のため(所謂お金持ちになるため、とか)'を仮想敵として生まれた思想ではあるものの、誰かを取り巻く働かざるを得ない事実が忘れ去られていることに、これまでの私は盲目だったのです。私の眼差しが、いかにして社会の上澄みで育まれたかを自覚せざるを得ないことが、私の生きる社会の分断をさらに可視化させ、切なくなりました。

今回はこのくらいにして、次回は恐らく接客業のマインドセットの違いについて綴ろうと思います。




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